彼女の記憶は、ぬくもりと共に始まる。母に抱かれぬくもりを感じる。――が。
どす、どすん、と母のからだが揺れる。抱き締められる彼女のからだも揺れる。彼女は何故――抱かれているのか。母のからだが揺れるのか。その意味をまだ知らない。
母は常に彼女にやさしかった。いつも笑顔で……でも彼女にとって不思議なのは、一緒にお風呂に入ると母のからだにはいつもあざがあるのだ。それも、服を着ていては見えないところに。お腹や背中、果てには腕にまで。ゆえに、母は、真夏でも長袖の服を着た。
父は、普通の会社員だった。普段は温厚でやさしいひとだ。――が、酒が入るとひとが変わったようになった。彼女の目の前で、母の髪を掴んで引きずり回し、殴る蹴るなどの暴行を与えた。あまりに幼い頃からそれを見続けていたため、彼女はそれが異常なことだとは知らなかった。
「なに見ているんだおい!」
刃が彼女へ向かおうとすると、母は、素早く彼女を抱き締める。どす、どすん……。何度この音を聞いたことだろう。
「おまえ、おれが悪いとでも思ってんのか!」言葉が分からないが父が怒っていることだけは伝わる。「おれをこんなにもしたのはおまえなんだよ! ふざけんな! いつもおれを見下したような目をしやがって! 誰のおかげで飯が食えると思っているんだ!」
一言で言えば地獄だった。――母はそう振り返る。この頃のことを。
真冬のある日。とうとう限界を迎えた母は、娘を連れて逃げ出した。母曰く通帳と印鑑だけを持って。それから――知らない土地にアパートを借り、看護師の資格を持っていた母は病院で働くようになり、彼女は保育園に預けられることになった。
父だったひとは、離婚を渋ってはいたが、母がまだ残るあざを見せ、「離婚しないと警察に訴えるわよ」と強く言えば、世間体を気にする父は即座に応じた――そうだ。
保育園は、彼女にとって興味深い場所だった。彼女は、父親と母親しか知らなかった。様々なお友達がいることに驚かされた。先生の言うことをきちんと聞ける女の子。給食の最中座っていられない男の子。誕生日会でインタビューをされ、戦隊もののヒーローになりたい! と言った男の子……。
様々な友達の思想に触れ、彼女は様々なことを学んでいった。食事をするときのルール。先生とのお約束。保育園での決め事。食事の前に石鹸で手を洗い、自分のタオルで手を拭く――幼稚園にも通っていなかった彼女は、基本的な生活様式の一部が抜け落ちており、その一部を保育園で補完されたかたちだ。保育園は、彼女にとって学びの園だった。
母は、近くの病院に勤務をしていた。仕事が終わると彼女を迎えに来る。彼女はなによりもこのときが幸せだった。大好きなママに会える。お友達との触れ合いも楽しいけれど、母に勝るものはこの世にない――そう思い込んでいたのだ。
やがて保育園を卒業し、小学校に進学すると――どうやら父親がいないのは珍しいらしい。保育園のときにも薄々感じてはいたが――小学生ともなると、互いの家に遊びに行ったり、家の話をしたりと、家庭状況がより見えやすくなる。あるとき彼女は母に聞いた。
『ねえ。どうしてうちにはお父さんがいないの?』
悲しい目をして母は答えた。『……お別れしちゃったから。お父さんは別のところに住んでいるの』
ふぅん、と答え、彼女はそれ以上の言及を避けた。幼い頃の記憶は残っている。パパが暴力をふるうからママは別れた――事実を認識出来るようになっていた。
父親がいないことで寂しさは感じるものの、友達との交流は楽しかった。ただ、中学では――それが原因で仲間外れにされたり。悲しい出来事も経験した。
高校に進学した頃に、彼女の人生に重大な変化が訪れる。――なんと、母が再婚したのだ。どうやら密かに恋心をあたためていたようであり――ある日、母が彼女に言った。
『お母さん、新しいお父さんと結婚しようと思うの。いいかしら』
否が応でも彼女は答えた。『勿論。ママのしたいようにしていいよ』
母は微笑んだ。『ありがとう。美冬ちゃん……』
それから間もなく、父親となる荒木秀和と、息子である英雄と対面した。荒木秀和も、バツイチで子持ちなのだった。会食の席で彼は照れながらもこう語った。
『落とし物をしたときにふーちゃんが一緒に探してくれて。一目惚れでした』
――いいひとだな、と彼女は思った。一方、息子である英雄は、見た目のいい男で、こんな素敵なひとがお兄ちゃんに!? 母の再婚よりもこの事実のほうが重大だった。英雄は都心で仕事をしている。美男子と、まさかの同居……。英雄は実家から会社に通っており、彼女たち母子は、荒木宅に移り住むこととなった。幸いにして、荒木宅の最寄り駅は彼女宅と同じで――居住地に関してはさほど大きな変化がなく、過ごせた。
学校から家に帰るのが楽しみになった。兄が帰ってくるのを待つ。スーツ姿の兄も、ぞくぞくするくらいに美しかった。
荒木は人当たりがよく、読書好きな青年だった。彼女を部屋に入れてくれたこともあるが、フィギュアがすこし、それに――本棚に本がびっしりだった。
『ここだけの話、おれ、本が好きなんだ……』と荒木は思いのほか熱っぽい目で語った。『本を読んでいると、いやなことをなにもかも、忘れられる……』
『……いやなことなんてあるの? お兄ちゃん?』人当たりがよく、外面も内面もよい兄に悩みなんてあるのか。不思議に思って彼女が聞くと、兄は寂しそうな顔で、
『親友の彼女が好きなの。ずっとずっと……。読書の話で盛り上がれるのは彼女だけだから。親友、ってのが辛いんだよね……』
言わずもがな、彼女は、その後、読書の世界にのめり込むこととなる。
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