テラーノベル
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湖に沈む夕日が、寝室の壁を鮮やかなオレンジから深い群青へと塗り替えていく。
別荘の寝室には、パチパチとはぜる暖炉の音と
私の激しい心臓の音だけが、耳障りなほど大きく響いていた。
テラスから吹き込む夜風が、薄いドレスの裾を揺らす。
けれど、今の私にはその冷たさを感じる余裕なんて、これっぽっちも残っていなかった。
「……主様、あの。お食事の準備ができています。テラスへ、行きませんか……?」
沈黙に耐えかねて、逃げ場を探すように告げた私の声を、アビス様の低い笑い声が霧散させた。
彼は私の背後に立ったまま、逃がさないという明確な意思を示すように、ゆっくりとその逞しい腕を私の腰に回した。
薄いドレス越しにダイレクトに伝わる彼の高い体温。背筋を甘く痺れさせるような感覚が、指先まで突き抜けていく。
「食事なら後でいい。今は、ようやく手に入れたこの静寂を、君と二人だけで堪能したいんだ。誰にも邪魔をさせず、君の視界に俺だけを映していたい」
耳元で囁かれる吐息が、敏感な首筋をくすぐる。
アビス様は私の肩に顔を埋め、深く、深く、私の香りを吸い込んだ。
それはまるで、砂漠を彷徨い歩き、ようやく見つけた水を求める旅人のような、切実で危うい執着。
「……エリス。君はまだ、俺のことを『主様』と呼ぶのだな」
「それは、今までずっとそう呼んできましたし……急に変えるなんて、恥ずかしくて……」
「契約は終わったと言ったはずだ。俺はもう君の主人ではないし、君も俺の部下ではない。俺が求めているのは、俺を愛してくれる一人の女性……俺の隣で共に歩んでくれる、エリスだけだ」
彼は私の体をくるりと自分の方へ向けさせた。
逃げようにも、背後は壁だ。
アビス様の両手が私の左右の壁を突き、私は彼の広い胸板と腕の檻の中に、完全に閉じ込められてしまった。
至近距離で見つめ合う、深い海のような青い瞳。
そこには、社交界で人々を震え上がらせる冷徹な光など微塵もなく
ただ私を熱く溶かそうとする、剥き出しの情熱だけが渦巻いている。
あまりの熱量に、視線を逸らそうとしたけれど、彼の指先が私の顎を優しく、けれど拒絶を許さない力強さで上向かせた。
「……アビス、様……」
私が震える声でその名を呼ぶと、彼の瞳がさらに暗く、深い色に沈んだ。
大きな温かい手が私の頬を包み込み、親指が私の下唇をゆっくりとなぞる。
その仕草一つひとつが、私の思考を麻痺させていく。
「……いい。もう一度、呼んでくれ。もっと、近くで」
「アビス……様……っ」
心臓が壊れそうなほど脈打つ。
一年前、父の借金に追われ、絶望の淵にいた私を救い出してくれた、冷たい氷の公爵。
でも、今目の前にいるのは、私一人の反応に一喜一憂し、独占欲を隠そうともしない
ただの「一人の男」だ。
真夜中に二人で書類を整理した時の静かな時間。
私が淹れた安物の紅茶を、世界で一番価値のあるもののように大切に飲んでくれた横顔。
不器用なほどに真っ直ぐな、彼なりの優しさ。
そのすべてが、冷え切っていた私の心に灯をともしていたことに、私はもう気づかないふりをすることはできなかった。
(ああ、私……ずっと前から、この人のことが……)
「……エリス。君の表情を見ればわかる。君も、俺と同じ気持ちだろう?」
逃げ場を塞ぐように顔を近づけてくる彼に、私はもう、嘘をつくことはできなかった。
私は震える手を伸ばし、彼の礼装の胸元をぎゅっと掴む。
「……ずるいです、主様。いえ、アビス様。……私みたいな使用人に、こんなに優しくして、期待させて。……逃げられなくなるまで待っていたなんて、本当に、意地悪です……」
瞳にじわりと涙が浮かぶ。
それは悲しみではなく、溢れ出した感情の熱さだった。
「……好きですよ、アビス様。……身分が違うとか、私には相応しくないとか、何度も自分に言い聞かせたけれど……」
「あなたの側にいたいし、離れたくない…」
初めて言葉にした本心。
その瞬間、アビス様の目に見えて動揺が走り
次の瞬間、彼は狂おしいほど愛おしげに私を強く抱きしめた。
「……っ、エリス。ああ、ようやく言ってくれたな。……君がそう言ってくれるのを、どれほど待ち侘びたか。これで、本当に君を俺だけの人にできる」
彼の手が私の後頭部を優しく、けれど力強く引き寄せた。
触れ合う直前、彼が掠れた、どこか熱を帯びた声で囁く。
「……エリス。今夜は、君を寝かせないと言ったら、どうする?」
「……っ、そんな……。さっきから、意地悪なことばかり……っ、恥ずかしい、んですけど…」
「…そういう君が好きなんだ、エリス」
消え入りそうな声で答えた私の唇は、すぐに彼の熱い温度によって塞がれた。
深く、奪うような、けれどどこまでも慈しむような長い口づけ。
鼻をくすぐる濃密なサンダルウッドの香りと、アビス様の圧倒的な熱。
頭の中が真っ白になり、私は彼に支えられていなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
「……顔が真っ赤だ。本当に、俺を狂わせるのが上手いな、君は」
唇を引き離した彼は、満足げに私の額に自分の額を預け、荒い息をついた。
その瞳には、最上の宝物を手に入れた悦びと、どこまでも深い執着の光が満ち溢れている。
「明日になれば、もう誰も俺たちを邪魔することはできない。君は俺の婚約者として、そして世界中で最も愛される俺の妻として生きてほしい…不自由はさせない」
逃げ場のない湖畔の別荘、二人きりの夜。
私は、彼の甘く激しい独占欲に翻弄されながらも、この温かな檻の中で、一生彼の色に染まっていきたいと心から願っていた。
「……アビス様。……本当に…変な人ですね…そういうところも、好きですけど…」
私の小さな、けれど確かな答えを聞いた瞬間
彼は猛獣のような瞳を細め、私を抱き上げて広いベッドへと誘った。
湖面に映る月明かりだけが静かに見守る中で
私たちの、契約ではない本当の恋の夜が、深く、甘く幕を開けたのだった。
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