応接間には月明かりが広がっている。ピアノの丸椅子に座る健太の向かいには、マイクがソファに座っている。青白い光が床の絨毯から彼の口元までを照らし出している。
「あの娘は今日も、お前のいない部屋でずっと泣いてたよ」
健太は驚かなかった。マイクは黙って健太の横顔を見ていたが、最後に小さくため息をついた。
窓の外には、街頭に照らし出されたパームトゥリーの幹が見える。その隣にフェスティバの銀屋根、その下に今や修復不可能となった、閉じない窓が見える。
マイクの後方、電気の消えた食堂の戸が開き、影が浮かび上がった。シルエットは手前までやってきて、健太の肩に静かに手を置いた。スージーだった。
健太はうつむいて、下唇を噛んだ。彼の中では、日本男児は人前では泣かない。ならば、もう自分は日本男児じゃないのだろうか。マイクは白いハンカチを差し出した。肩にはスージーのやわらかい指先が触れたままだ。
「最後だけは明るい言葉をかけてあげるのよ。いいわね? それが立派な男の去り方よ」
健太はうなずかなかった。そんなやせ我慢ができるとは思えない。
悪意と愛情、利便と友情ばかりが並立しがちなこの街で、この屋根の下だけは、健太にとってやっと辿り着いた奇跡の共和国だった。奈々との愛情が消えた今、彼らとの友情をも手放すことになる悔しさを、今さらながらに知った。
この家を見つけてきたのは奈々だ。そう考えると、もしかして悔しく思うのは筋違いなのかもしれない、と思うときもある。しかし、だからといって涙が止まるわけでも、胸の痛みが癒されるわけでもなかった。
この街は、外から見ると夢の大都会に見えるときがあるよね、と健太は言った。マイクはその言葉に答えもせずに「ナナはきっとお前よりも苦しいよ」と言った。あいつだってそりゃ、と言ってから、でも俺だって相当、と言葉が震えた。ハンカチはいっそう湿っぽくなる。
スージーはマイクの隣、健太に近い方のソファにそっと座った。
「新しい家はどんなところなの」
語学学校の友達のところにしばらく居候させてもらうんだ、それから先はまだ分からない、と健太は答えた。
「またいつでも戻っておいで。私達はいつでも歓迎するわ」とスージーは言った。マイクも隣でうなずいている。
それはもうできないよと心の中で言いながら、涙がとまらない。しずくを拭いながら、彼らの反対側へ顔を向けた。ピアノと目が合った。ひと月ほど前、健太は丁度この位置から、奈々が弾くショパンの幻想即興曲を聴いていた。演奏が終わると、マイクとスージーが拍手を浴びせていた情景が、幻想の情感を取り巻いて遠のいていく。
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