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「兄さん、どうして編プロ辞めちゃったんですか。余は悲しいですよ」
家族連れで賑わう真っ昼間のファミリーレストラン。テンションの上がった子供のキンキン声をBGMに、小林は開口一番そう言った。その言葉に、僕は沈黙で返す。今は理由を話したくないんだよ、突っ込むなよ。
「余はまだちゃんと空港で正社員として働いているというのに、兄さんはフリーターに逆戻りじゃないですか。今からでも戻った方がいいですって、編プロ。二十七才で今さらフリーターって、人生詰みますよ?」
ぐっ……小林の言葉が刺さる、それはもうぐさぐさと。そうだよな、それが現実だよな。さすがにこの歳でフリーターはマズい。
「……分かってるよ、そんなこと」
漫画専門の編プロを辞めてから、僕は一応、派遣社員として肉体労働で働いてはいる。まだ無職よりはマシだから。正直なところ、キツい。僕はそこまで体力に自信があるわけではないから。だから早めに、どこかで正社員にならなきゃいけないと焦ってる。転職しなければと焦ってる。
でも、漫画編集の仕事以外、興味が湧かないんだよ。やる気が出ないんだよ。だって入社してから、僕は漫画編集に人生を賭けていたんだ。天職だと思っていたんだ。だから今さら、他の仕事に人生も命を賭ける気がなかなか起きないんだ。だったらまた業界に戻ればいいのではと思われるかもしれない。でも、それはしないと決めたんだ。決意をしたんだ。『あの出来事』があって以来。
「……まあ、そこはちゃんと考えていくよ。それこそ真剣に。というかさ、いいかげん自分のことを『余』って言うのやめろよ。『余は、余は』ってうるさいんだよ」
「余は余ですから。変える気はないですの」
こいつ、ブレないな。
小林とは僕が編プロで働き始める前、映画館でアルバイトをしているときに知り合った、僕より二個下の男だ。何故かは分からないけれど、やたらと懐いてきて、僕のことを『兄さん』と呼ぶ。まあ、波長が合ったのは確かだ。お互いにアニメや漫画が趣味ということで、話も合うし。
でも、せっかくだったら可愛い女子に懐かれたかった。女っ気のない人生を送ってきたから尚更だ。なのに、なんでお前なんだよ。僕は女の子と話がしたいんだよ! 仲良くなりたいんだよ! そしてあんなことやこんなことをしたいんだ。なのになんなんだよ。日曜の昼間っから、何が楽しくて野郎二人でファミレスで駄弁らなきゃいけないんだよ。……まあ、今それを言っても仕方がないけれど。
「漫画編集をしていた時の兄さんはあんなに生き生きしていたというのに、今はなんですか。腐った魚のような目をしてるじゃないですか」
「腐ってねえよ」
「いや、腐ってます。目がどんより曇ってます。あと腐ってます」
「大事なことだから二回言いました、か?」
「そうです。兄さんに事実を伝えるのが余の役目です」
事実、か。まあ、そうかも知れない。
正直なところ、僕はもう人生に絶望している。絶望しきっている。はっきり言って、自暴自棄。大好きだった漫画編集を辞めてから、仕事と睡眠の時間以外はほとんどアニメや漫画漬けみたいなダメな日々を送ってるし。あと、夜中はほどんどエロ画像の収集。誰にも言えないけれど。
そんな毎日を送っているんだ。そりゃ目も腐るってものだろう。
「あ、あの、すみません」
小林の言葉に肩を落としていると、不意に聞こえた声。その声から察するに、まだ大人ではない若い女子だとすぐに分かった。
「あの、あの……」
最初は他のお客さんの声がたまたま耳に入ったのだろうと思ったら、違った。その声は僕達に――いや、僕に向かってかけられた声だったのだ。
僕と小林のテーブル席に出来た影。肩を落としていた僕は、その影を作る方へと目を向けた。そこには、浅緑色のブレザーをまとった制服姿の女の子が立っていた。
とても可愛らしい女の子だった。
眉の上で切りそろえられた前髪が印象的な、すとんと落ちる綺麗なセミロング。大きな窓から差し込む陽が、彼女の可愛らしさを引き立たせる。髪は薄っすらと茶色味がかり、輪郭をぼやかし、それがやたらと幻想的に僕の目に映った。顔立ちはまだ少しのあどけなさを残し、しかし、とても美しく整っている。
まさに彼女は、子供と大人の狭間に立っていた。
それにしても、どうしてこんな美少女が僕達に声をかけてきたのだろう。こんなむさ苦しい男二人に。何をされるか分かったものじゃないというのに。いや、当然僕はそんな変なことはしないけれど。小林はどうだって? コイツにそんな度胸はないからあり得ないね。
「えーと……そ、そのですね」
その少女は少しおどおどしながら、ちょっと困ったような、そんな表情で僕を見ている。一体何の用だろうか。逆ナン? それはあり得ないか。
少女は一度深く深呼吸。そしてゆっくりと息を吐き出しながら、覚悟を決めたような表情に変わり、言葉を紡いできた。
この時、僕は全く予想だにしていなかった。まるで夢を見ているのではないかと錯覚する程楽しく、幸せな、でも少し切ない毎日。そんな日々がやってくるなんて。この少女との出会いが、僕の運命を変えることになるなんて。
いや、運命なんかじゃない。
「どうしたの? 僕達に何か用?」
「あ、あの、お願いがあるんですけど」
これは、僕に訪れた奇跡だ。
「よ、よろしければ私が描いた漫画、読んでもらえませんか!」
少女の声は、まるで秋の爽やかな風のように。そして鈴の音のように透き通った、凛として響く、そんな心地の良い声音だった。
少し緊張した面持ちで、少女は僕を見つめる。そして願いを言葉にした。
それにしても不思議な感覚だ。眼前に立つこの少女に見つめられていると、その瞳の中に吸い込まれてしまいそうになる。それ程に、彼女の瞳は魅力に溢れ、純粋な光を放ち、希望に満ち溢れていた。
「漫画を読むって、僕が?」
「はい、そうです」
そして少女は言葉を紡ぐ。
「私、隣のテーブルに座ってたんですけど、先程、あなたが漫画編集者さんだっていう会話が聞こえてきたんです。それでぜひ、私の漫画をぜひ読んでご指導いただきたいと思いまして。それで思い切って声をかけさせて頂きました。あ、盗み聞きするつもりはなかったんです! たまたま耳に入って!」
「僕はもう編集者なんかじゃないよ。元、漫画編集者。今はくだらない毎日を過ごすただのフリーター。ただの、ね。だから読まない」
僕は頬杖をつきながら、投げやりに冷たい態度で言葉を返す。それを聞いて、少女は肩を落として「そう、ですか……」と、小さく呟く。落胆の色を滲ませて。我ながら大人げないと思う。まだ高校生くらいの子供に、僕は何をかりかりしているんだ。さすがに少し罪悪感を感じてしまう。
「兄さん、そんな冷たいこと言ったら駄目じゃないですか。この子が可愛そうですよ。読んであげましょうよ」
「うるさい、小林は黙ってろ」
漫画の編集はもうしないって決めたんだよコンチクショウ。
そりゃ好きだよ、漫画の編集とか指導は。でもそんなことしたら、また業界に対して未練を抱いてしまうかもしれないじゃないか。
正直、それが怖いんだよ。
でも――
「う、ううう……」
肩を落としたまま、少女は今にも泣き出しそうな顔でその場を動かない。目をうるうるさせるな! レディーを泣かせて喜ぶような趣味は、僕にはないんだよ!
「はあー……」
僕は溜息をひとつ。いや、なんとなく感じているんだ。この少女は勇気を振り絞って僕にお願いしてきたということが。それに、このまま帰してしまったら気になって眠れなくなってしまう。
全く、仕方がないな。
「……原稿、今あるの?」
その言葉に、少女はパアッと顔を明るくさせた。分かりやすいな、この子。感情をストレートに顔に出してくる。きっと性格も素直なんだろうな。
「あります! 原稿、今、あります!」
言うが早いか、少女は自分の席に向かってダッシュ。そして、手にプラスティック製のハードケースファイルを持って戻ってきた。嬉々として。いやいや、隣の席でしょ? そんなに急いでダッシュする必要ないでしょ。
「これです! この中に原稿入ってます!」
なんだか、すごく必死だな。目をキラキラ輝かせてるし。
いや、当たり前か。
編集部に持ち込みにくる人達も皆んなそんな感じだった。緊張していてガチガチな子も、自信たっぷりな子も、怖くて縮こまってる子も、やはりすごく必死だった。熱意が、そして熱量がしっかりと伝わってきた。
そう。夢を追いかけている人は、いつだって皆んな必死なんだ。
「それじゃ、受け取らせてもらうね」
「は、はい! ありがとうございます!」
そして少女は深々と頭を下げる。いや、僕はあくまで『元』漫画編集者なんだ。そんなに感謝しなくても別にいいのに。
「それじゃ、僕の向かいに座ってもらえるかな」
「は、はいっ!」
少女はテーブルを挟んで向こう側――小林の隣に、ちょこんと腰を下ろす。そしてファイルの中から原稿を取り出そうとする僕に、キラキラと期待の眼差しを向けた。そんな期待するなっての、やりづらいだろうが。
「良かったですね、兄さんに読んでもらえることになって。余が今から喜びのダンスを踊ってあげますね」
「踊るな小林! 他のお客さんに迷惑だろ!」
「あ、その喜びのダンス、私見てみたいです」
「キミもそんなこと言っちゃ駄目! コイツ、本当に踊るんだよ! 場所とか状況とか関係なく! 職場でも踊ったりしてるんだぞ!」
僕の一喝で二人がシュンとしてしまった。まあ、小林は分かる。でもなんでこの子までシュンとするんだよ!
しかし、それにしてもなんというか。この子って自分の欲望に忠実だな。表情もころころ変わるし、やたらと行動的だし。
ちょっと面白いと思っちゃったじゃないか。
「ちなみに君、名前は?」
「は、はい! 白雪です! 白雪麗といいます!」
「白雪さんね、よろしく。僕は響といいます。響正宗」
「響さん、ですね。よろしくお願いします!」
目を爛々と輝かせて、少女――白雪さんはぺこりと頭を下げた。
もう二度とすることなんてないと思ったんだけどな、漫画の指導だったり添削だったりっていうのは。でも引き受けたからには全力で読む。作家さんの情熱に負けている編集者なんかには、絶対になりたくない。……まあ、今は『元』編集者だから本当はもうそんなこと気にする必要ないのだけれど。
僕はケースの中から原稿を取り出す。インクの匂いが鼻孔をくすぐった。なるほど、紙原稿か。今どきの子にしては珍しい。最近はデジタルで執筆する漫画家さんがほとんどだから。まあ、僕はデジタルよりも紙の方が好きだけど。
さて、と。念のために訊いておくか。
「ねえ白雪さん、この原稿は元編集者としての目で読んだ方がいい? それとも響政宗という一個人として読んだ方がいい?」
僕の質問に、白雪さんは不思議そうに首を傾げた。
「えと、どういうことですか?」
「元とはいえ、編集者の目で読むとなれば、それなりに厳しいことも言わなければならないんだ。白雪さんにそれなりの覚悟がないとちょっと辛いと思う。だから一個人として読んで感想を言ってほしいなら、先に教えておいてほしい」
編集者というのは作者と読者の中間に立ち、いかに客観的な目で読み、そして客観的な感想を伝える。その必要がある。そうなると必然、厳しい意見も言うこともあるわけだ。その意見を聞く覚悟、つまりは現実を突きつけられる覚悟があるのか。
僕はそれを白雪さんに確認したかった。
けれど、白雪さんは動じなかった。迷いを見せなかった。むしろ、先程よりも目を輝かせていた。未来を見ていた。
まるで、昔の僕のように。
「もちろん、編集者としての目で読んでほしいです!」
白雪さんのその言葉はとても力強く、しっかりとした意思を持っていた。まあ、それはそうか。編集者としての目で読んでほしいから僕に声をかけてきたわけだし。それに、たとえ僕が厳しい意見を言ったとしても、たぶんこの子は耐えられる。今後の糧にできる。それは彼女の目を見れば分かる。
瞳の奥に宿る、覚悟。僕はそれを強く感じた。あとこの子、生半可な気持ちで漫画を描いているわけではなさそうだ。
白雪さんは夢を、そして未来を見ている。前に進むことしか考えていない。
そういう人間は、強い。
「うん、分かった。編集者としての目で読ませてもらうよ。現役じゃなくて『元』編集者で申し訳ないけど。でも、しっかりと読んで意見を述べるから」
「はい! よろしくお願いします!」
魂のこもった、白雪さんの言葉。誰かが聞いたら、ただのなんでもない言葉にしか聞こえないかもしれない。でも僕には分かる。伝わってくるんだ。彼女の強い意志を。
僕はもう『元』編集者でしかない。くだらない毎日を送るだけのフリーターだ。だけど、漫画に対しての情熱は今でも変わらない。白雪さんの覚悟は確信した。彼女の言葉。そして瞳。それらに宿る感情から。
だったら僕も本気を出す。
熱くならざるを得ないじゃないか。
「よし、じゃあ余も兄さんが読んでる間に応援のダンスを――」
「黙れ、小林」
「は、はい……」
ヤベッ、小林を睨んでしまった。あとでちゃんと謝らないと。でも僕、こうなっちゃうんだよ、漫画編集のことになると。
「悪い小林、グラスに入ったジュースを隅に置いておいてくれないか? もし溢してしまったりして原稿にかかったら大変だから」
「りょ、了解であります!」
小林はピッと手のひらををこめかみの辺りに当てた。小林よ、何故そこで敬礼する。しかもちょっとビビりながら。あ、僕が原因か。そういえば、小林は見たことないもんな。僕の編集者モードを。切り替わっちゃうんだよね、プライベートの僕とはだいぶ違う、もう一人の僕に。
「よし、白雪さん。とりあえずテーブルに原稿を広げさせてもらうね」
「はい! 了解であります!」
……うん。どうして小林みたいに白雪さんまで僕に敬礼するの? コイツに感化されすぎだろ。まあ、それだけ感受性が強いってことなのかな。
僕はテーブルの上に原稿を広げた。二枚ずつ。見開きにしておかないと、ちょっと判断に困るんだ。最近はスマホやらの普及によって電子書籍や漫画アプリで漫画を読む人が増えてきたけれど、それらって大体一枚ずつ表示されるんだよね。
だから見開きで読む必要がないと思われるかもしれない。だけど、もし紙媒体として雑誌に掲載されたり書籍化したりすることもあるわけで。だから一応、それも想定しておかないと。紙媒体になると必然、見開きで読者さんは読むわけだから。だけど、それを理解していない編集者が多すぎるんだよ。一枚一枚、原稿を読んだりしてしまう。それじゃ駄目なんだけどなあ……。
で、読み始めたわけだけれど……え?
「ご、ごめんね白雪さん。白雪さんって漫画描き始めて何年目?」
「何年目といいますか、一ヶ月目ですね」
「い、一ヶ月!?」
道理で。いや、これはちょっと……。コマ割りがめちゃくちゃなんですけど。まあ漫画を描き始めて一ヶ月では無理もないんだけど。でも、不思議なのは空間パースはしっかり取れてるんだよね。なんでだろう。
「ひ、響さん、どうしました? 私の原稿、読む手が止まってますけど」
「うーん、あとでちゃんと説明するね」
「わ、分かりました……」
あ、白雪さんの表情がちょっと曇ってしまった。大丈夫かな。このままだと厳しい意見を言うしかないんだけど。
まあ、今は原稿に集中しよう。僕は一度深呼吸。それから再度、原稿を読み進めた。ちなみに、白雪さんが描いたこの漫画のジャンルは少女漫画だった。全部で十六ページ。二枚ずつ読んでいるわけだけど、まずは全体のバランスから確認。それから頭の中でコマを分解して読んでいく。人それぞれだけどね、編集方法なんて。でも、とりあえず僕はそんな感じの編集スタイルだ。
少女漫画のコマ割りは独特でかなり特殊なものが多い。多いんだけど……ええ……。読み進めている内に、どんどん別の問題まで出てきてしまった。とにかく問題だらけ。
……これ、どうするの、僕。
「うーん……」
「どうしました兄さん? なんか悩んでるみたいですけど」
「まあ、うん。あとでまとめて言うけど」
「えっと……も、もしかして私の原稿……」
白雪さんの表情をチラリと確認。あー、さっきよりも曇ってる。曇っているし、すっごく不安がっている。彼女の瞳から、さっきまでの輝きが少しだけ薄れている。強い子だから大丈夫だと考えていたけれど、ちょっとは気を付けて発言した方がいいな。漫画歴が一ヶ月であろうとなんだろうと、きっと白雪さんは色んなものを犠牲にして、死にものぐるいで原稿を描き上げたはずだ。それを無下にはしたくないし、若い芽を摘んでしまうようなことはしたくはない。
それに、ひとつだけ。たったひとつだけだけれど、彼女は『長所』を持ち合わせているから。そう、長所。武器と言ってもいいかもしれない。
うん、まずは彼女の気持ちを一番に考えることにシフトしよう。最初にキツい現実を伝えなければならないけれど、その分、後でフォローを入れながら、色々教えよう。その武器を使えこなせるようになるために。
「あ、とりあえず白雪さんもちょっと待っててね。あ、そんなに不安な顔をしなくて大丈夫。全部読んだらちゃんと説明して教えるから」
「わ、分かりました! でも、今の内に覚悟を決めておきます!」
言って、白雪さんは両手の拳を胸に当てる。
覚悟、か。その覚悟は本物だろうけど、それでもやっぱり心配だな。
「こうなったら、余が白雪嬢を元気づけるために今からダンスを――」
「小林! だからやめろって! って、なんだよ白雪嬢って!」
「は、はい、小林さん! ぜひそのダンスを!」
「白雪さんも! 小林を踊らせようとしないの!」
まったく……。白雪さんって面白そうな子だというのが第一印象だったけれど、それ以上にちょっと変わったところがあるな。まあ、漫画家あるあるか。漫画家には変わり者多し。
それから僕は原稿に再集中した。よし、十六ページ全て読みきったぞ。とりあえず頭の中を一度整理しよう。伝えるべきことをまとめよう。理路整然と説明をして、彼女にしっかり伝わるように。
「ふう……。白雪さん、ありがとう。原稿を一度お返しするね」
「は、はい。ありがとうございました!」
僕は読ませてもらった原稿を机の上でトントンと整えてから白雪さんにお返しする。が、それを受け取る白雪さんの手。それが若干震えていた。覚悟を決めても、怖いものはやっぱり怖いか。でも、この子の覚悟を信じるしかない。
「改めて。白雪さん、全部読ませてもらったよ」
「は、はい! ど、どうでしたか」
緊張な面持ちで、白雪さんは僕の言葉を待つ。
「まず最初に。これから言うことはあくまで元編集者としての僕の意見。もしかしたら他の編集者さんが読んだら、また違う意見を述べてくれることもあるかもしれない。だから白雪さん、あくまで参考として聞いてね。問題点は確かにたくさんあった。そこはしっかりと指摘する。だけど責任を持ってしっかりアドバイスをする。いいね?」
「はい! 分かりました、しっかりと受け止めます!」
「ありがとう。まず、これだけははっきりと伝えさせてもらうね。白雪さん、これではまだ漫画とは呼ぶことはできない」
「――え?」
白雪さんは僕の率直な感想を聞いて、信じられないといった、そんな顔をしたまま固まってしまった。でも、これは伝えておかないと。嘘を言っても、オブラートに包んでも、それは全く意味をなさない。辛い現実かもしれないけれど、受け止めてもらいたい。
そうしないと、作家は前には進めない。
「ごめんね白雪さん。でもさ、こればっかりは濁して言っても仕方がないんだ。どう? 続けても平気?」
「はい、大丈夫です。ちょっとショックでしたけど、私なりに覚悟はしていましたので。ぜひ、続けてほしいです」
白雪さんの言葉、そして表情を見て安心した。瞳にはしっかりと輝きが感じられる。うん、やっぱり大丈夫そうだ。この子は強いと、そう感じた僕の直感は当たっていた。現実を突きつけられ、それを受け止めてこそ、作家さんは伸びる。
「ありがとう、白雪さん。それじゃ続けさせてもらうね。まず、一番重要なこと。読ませてもらったこの作品、コマ割りが全くできていないんだ。ひとつひとつのコマが繋がっていなくて。これは漫画の構造を理解できていない証拠でもある」
「コマ割り、ですか? でも私、昔から漫画が大好きで。たくさん読んできました。だから漫画の構造はちゃんと理解しているつもりだったんですけど……」
「うん、そうだろうね。でもね、白雪さん。それはあくまで読者としての目線で読んでいただけ。理解したと勘違いをしていたと言えば一番分かりやすいかな。作家としては理解はできていないんだ。これはなかなか気付きにくいことでね。だけど無理もないよ、漫画を描き始めてまだ一ヶ月だもん」
「じゃ、じゃあ、これから私は一体どうしたらいいんでしょうか?」
よしよし、ちゃんと前向きに捉えてくれているな。これなら冷静に話を聞いてくれそうだ。若い子はスポンジみたいなもので、どんどん吸収していくことができる。もちろん無理な子もいるけれど。
「うん、そこは最後に解消法をしっかり教えるね。まずは問題点から上げていこうと思う。それでいいかな?」
「はい! それでお願いします!」
「ありがとう、じゃあ続けるね。これはストーリーについて。描きたいことは伝わってきた。だけどリアリティをちょっと感じることができなかった」
「リアリティ、ですか?」
「そう、リアリティ。キャラにリアリティを感じないんだ。こんな人間、いるはずがないと感じてしまう。それでは読者さんを物語に引き込むことができない。ストーリーに関しても同じかな。でも、これはすぐに解消できると思う。特にストーリーに関しては。色々と方法はあるから安心して」
白雪さんは小さく独り言を繰り返す。「リアリティ、リアリティ」と。なんだろ? そこをやたらと気にするのは。
「白雪嬢! 芸術は爆発だー! ですよ」
「小林、お、お前なあ……」
全く……僕も白雪さんも真剣に話しているというのに、どうしてこのタイミングで入ってくるかなあ。というか小林の存在をすっかり忘れていたよ。
「げ、芸術は爆発だー!」
バンザイをするように両手を掲げ、小林の真似をする白雪さん。いやいや、真似をするならもっとマシな人間の真似をしなさい。小林みたいになっちゃったら残念すぎる。
「あのー、白雪さん? つ、続けていい?」
「はい! 続けてください!」
うーん。白雪さんのキャラが今ひとつ掴めない。何にでも感化されやすいというか。まあ、それってとても大切なことでもあるんだけどね。
「こほん。じゃあ続き。と、言いたいところではあるけど、ちょっと気になることがあってさ。先に訊きたくて。漫画を描き始めてまだ一ヶ月と言ってたけど、やたらと画力が高いし、空間パースもしっかり取れてて。それが不思議でさ。で、絵柄を見ていて気付いたんだけど、白雪さんってもしかして美術部だったりしない?」
「あ、そうです。中学時代だけですけど美術部でした。でも、そっか、画力は高かったんだ私って。えへへ、ちょっと嬉しいです」
ここで初めて笑顔を見せてくれた。白雪さん、笑うと余計に可愛く見えるな。この子の笑顔、まるで太陽みたいだ。いつでも平等に、皆んなに光を与えてくれる、太陽。そういう魅力を兼ね備えている。
あー、僕も学生時代に白雪さんみたいな子と知り合えてたらなあ。あんな暗黒な学生生活を送らずにすんだかもしれないのに。
「ちょっと兄さん? どうしたんですか? なんかボーッとしちゃってますけど。余のことでも考えてるんですか?」
「お前のことなんか考えるか馬鹿野郎!」
* * *
それから、僕は白雪さんの問題点を全て伝えた。そして、その問題の解消法に移った。漫画を描き始めてまだ一ヶ月足らずの子ではあるけれど、そんなの僕にとってはお構いなしだ。どんなに執筆歴が短かろうとなんだろうと、描き始めた時点で、人は作家になることができる。だから僕も全力で伝えた。教えた。彼女が『本物』の作家になるために。
大体分かるんだ。この白雪さんはたくさんの伸びしろを持っている。何人ものセミプロをスカウトしてきた僕の眼力。それは未だ健在のはずだ。この子はまだ真っ白。何色にも染まっていない。例えるならキャンバスかな。何も描かれていない、真っ白で、何色にでも塗ることができる、そんなキャンバス。
「ふんふん。あー、なるほど。そういうことですね。はい、大丈夫です。ちゃんと理解できました。続けてほしいです」
白雪さんは前のめりになりながら、再びテーブルに広げた原稿を僕と一緒に見ながら、真剣な眼差しで、ちょくちょくメモを取りながら、僕の解説を聞いてくれた。
嬉しかった。
もう二度と、このような編集者的なことはしない、いや、できないと思っていた。思わざるを得なかった。
だけど、改めて分かった。理解した。やっぱり、僕は漫画編集が大好きなんだ。
でも、これが最後。
本当に最後の、僕の漫画編集だ。