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僕が白雪さんとファミリーレストランで出会ったのが数日前。もっと細かく言えば三日前。彼女の原稿を読んで感じた問題点、そしてその解消法を全て伝えたあと、少しの雑談タイムを取った。
その時に思った。漫画とは全く関係ないけれど。この子、顔が可愛いだけじゃない。ひとつひとつの仕草もとても愛らしく、そして結構よく話す子でもあり、明るく素直な子。魅力的な子。よく笑い、笑顔が素敵な子。そんな子だということをよくよく感じた。
別れ際に携帯番号の交換を望まれた僕ではあったけれど、さすがにそれは丁重にお断りした。漫画に関して教えるのはこれで最後と決めていたから。
それが三日前。とても楽しい時間だった。ああ、時が戻ればいいのにと思える程に。
と、いうわけで回想終わり。現実に戻ろう。今の僕はというと、まあこんな感じである。
「クソッ……! こんな仕事、早く辞めてやる……!」
体中の筋肉が悲鳴を上げている。疲労困憊だ。せっかく仕事が終わったというのに、どこかに遊びに行ったりする気力もなし。とりあえず、早くアパートに帰りたい。
「なんで僕みたいな貧弱な人間が、あんな重い荷物を運ばなきゃならないんだよ……適材適所って言葉を知らないのかよ、あの上司……」
とか文句を呟きながら、独り、夜の住宅街を歩く。秋は本当に日が沈むのが早い。今日はずっと屋内の倉庫で段ボールに入れられた重い荷物を運び続けていたのだけれど、外に出たらもう日が暮れていた。はあ……青空が見たい。
なんてことを考えながら夜空の下を歩く。ゾンビみたいに。まあ、今の僕なんて半分死んでいるようなものだし、ゾンビで間違いない。だけど秋の夜にゾンビは似合わないなあ。ゾンビの似合う季節なんて知らないけど。
「あ、夕飯買うの忘れた。まあいいや、今日もカップ麺で……」
一日八時間の肉体労働をしたご褒美がカップ麺。なんて侘びしい夕飯であり、なんて悲しい二十七才だろう。大学時代の友人は皆んな結婚してるというのに、僕は未だに独り身だし。人生虚しいったらありゃしないよ。
「癒やし……癒やしはどこだ? 僕のことを癒やしてくれる人はいないのか? 救いの女神は存在しないのか? 運命の出逢いって、なにさ。都市伝説なのか? それとも、このまま女っ気のない人生を送るのが僕の運命なのか?」
だったら嫌なんですけど。そんな運命、全力で拒否だ!
ちなみにどうでもいい、ほんとーにどうでもいい情報だけど、小林も独り身である。というかアイツ、仮にプロポーズするときがあったら、そのときも自分のことを『余』って言うのかな。『余と結婚するがいいのですよ』、とか言うのかな。お相手は自分のこと『妾』とか言うのかな。お似合いじゃん、早く結婚しろ小林。
「ああ、お腹空いた……心も空いた、満たされたい……」
とぼとぼと、歩く。腐乱したゾンビが歩く。食料を欲しながら。救いの女神が現れる未来に期待しながら。あー、とにかく早く家に帰ってシャワー浴びたい。汗を流したい。サッパリしたいよ。
「あれ? 響さんじゃないですか」
秋の夜に似合う、鈴の音のように透明な声。そんな透明感溢れるころころした声で、背後から僕の名前を呼ぶのが聞こえた。
「あ、キミ」
「やっぱり響さんだ!」
振り返ると、そこには浅緑色のブレザーをまとった制服姿の女の子。白雪麗さんがいた。手にはこの前と同じ、原稿の入ったプラスティック製のハードケースファイルを持っている。
白雪さんは僕の顔を見るなり、へらっと笑ってこちらにとことこ寄ってきた。あー、やっぱりこの笑顔はいい。とっても素敵。癒やされる。すっかり汚染されてしまっている僕の心に染みていく。
「す、救いの女神様!」
「え!? す、救いの女神様ですか!? どこですか!?」
ヤバい、つい言葉に出してしまった。白雪さんはキョロキョロと周りを見渡して、その女神様を探しているようだった。まあ普通、まさか自分のことを言われただなんて思わないわな。
「えーと、響さん? 女神様なんてどこにもいないですよ? 幻覚でも見たんですか? というか、どうしたんですか? 顔、死んでますよ?」
「あー……ちょっと仕事帰りでね。え、そんなに僕の顔、死んでる?」
「はい、死んでます。アンデッド系の顔してます」
うう、ちょっとグサリときた。心に刺さる。さすがにこんな可愛い子に言われたら、そりゃダメージを食らうというものだ。ストレートに言われたから余計に。それにしてもアンデッド系って……。
「そうだよね……。ちなみに目は? やっぱり死んだ魚のような目をしてる?」
「死んだ魚のような目ですか? んー、そうですね、そうかもしれません。でも死んだ魚は通り越して腐ってるのでなんとも」
僕はガクッと肩を落とした。そこまで言いますか白雪さんよ。この子、素直で正直だから、たぶんそれが真実なんだろうけどさ。
「それはそうと響さん。先日は、本当にお世話になりました。あれから私、響さんに教わったことを思い出しながら原稿を描いているんです。ちょっとずつではあるんですけど、少しは漫画らしくなってきたかなあって」
深々と礼儀正しくぺこりと頭を下げてから、白雪さんは嬉しそうに言った。
「そうなんだ。僕みたいな奴が白雪さんのお役に立てて良かったよ」
「でもですね……なんていうか、頭では理解してるんですけど、いざ原稿を描くとなると、どうしても上手くいかない部分もありまして……」
「そっか、でも焦らなくてもいいと思うよ。白雪さんはまだ若いんだから、可能性はあるから。それこそ無限大に。これからどんどん上手くなるって。それじゃ」
「あ! 待ってください!」
一分でも早くカップ麺をすすりたかった僕は、早々に話を切り上げ、白雪さんに背を向けて手を振って歩き出そうとしたら、そこで呼び止められた。もっと白雪さんと話していたい気持ちはあるんだけれどね。でも空腹が限界なんだよ。
「どうしたの、白雪さん?」
「あの、この前のお礼がまだだったので。漫画を教えてくれたお礼です」
「ううん、お礼は言葉でさっきしてもらったよ。それじゃ」
「あー! ちょ、ちょっと、なんでそんなに早く帰りたがるんですか!」
「なんでって、この顔見れば分かるよね?」
「……ま、まあ分かります。顔が死んでますもんね」
「そう、顔は死んでる。心も死んでる。だからオジサンは少しでも早く家に帰って、疲れを癒やして、明日に備えなくちゃいけないんだ」
そんな時、空腹に耐えきれなくなった僕のお腹が『ぐうーーー』と鳴った。その音を聞いて、僕が早く家に帰りたがっている理由が分かったみたいだ。白雪さんは口元に手を当ててくすくす笑い出した。
「あははっ、なんだ、響さんお腹空いてたんですね」
「仕方がないだろ、昼だって今日はコンビニのおにぎりひとつだけだったんだ」
「お、おにぎり一個!? そんなんじゃ体壊しちゃいますよ! あ、でもお家に帰ったら奥さんが手料理作って待ってくれてる、とかですか?」
「僕なんかに嫁さんがいるわけないだろ」
まあ、そりゃそうだよね。高校生からしたら僕みたいなオジサンはとっくに結婚していて当たり前くらいに思っているんだろう。しかしだな、現実はそう甘くないのだよ白雪くん。現実は、厳しい。お嫁さん? 何それ美味しいの?
「じゃあ一人暮らしなんですか?」
「そう、一人暮らし」
「家に帰ってご飯は?」
「ある。カップ麺が僕を今か今かと待ってくれている」
「カップ麺!? お昼もおにぎり一個だったんですよね? ダメですよそんな晩ご飯! も、もしかして響さんって貧乏――」
「さすがにそこまで貧乏じゃないよ! お金持ちではないけどさ、食費のない27歳とか悲しすぎるでしょ!」
「そ、そうですよね。失礼しました。でも、せめて自分で栄養のある晩ごはんを作ってくださいよ」
「いや、もうそんな体力残ってないし」
それを聞いて白雪さんは困り顔。腕を組んでうーんと唸り始めてしまった。それから、「仕方ないなあ」と声を漏らす。なんかダメダメな子供を見る母親みたいになってるぞ、白雪さん。え? 僕、そんなにダメな子? デキソコナイ?
「じゃあ私が作ってあげます!」
「え、作ってあげますって何を?」
「何をって、ご飯に決まってるじゃないですか。晩ご飯です。この前のお礼もちゃんとさせてほしいですし、ぜひ響さんの晩ご飯を作らせてください!」
言って、白雪さんは困り顔からニッコリとした笑顔に変わった。え、本当に? いいの? こんな僕に晩ご飯を作ってくれるというの? やっぱり救いの女神様なの? もしくは天使?
あ、でも僕の家、散らかりっぱなしなんだけど。いや、そもそもこんな夜遅くに、こんなに可憐な女子高生を男の一人暮らしの家に上げていいものなのか? というのが、僕の常識サイドからの問いかけである。だけど、空腹でお腹ペコペコの僕の本能サイドは心の中でこう叫んだ。
『ヒャッホーウ! 手料理! 久しぶりの手料理にありつけるぞー!!!』
うん、本能には抗えないね。
「行こう! 帰ろう、白雪さん! そして僕に晩ご飯を作ってくれ!」
「はい! お任せください! 私、こう見えてもお料理得意なんです!」
僕は先程までよりも足取り軽く、家路に向かった。その隣を白雪さんが一緒に歩く。
秋の夜空には月が顔を出し、手料理を食べられることに喜ぶ僕と、お礼ができそうで嬉しそうな白雪さんを照らす。夜の空気は少し冷たく、ひんやりとしていた。
だけど、心は少し温かかった。
* * *
僕が住んでいる、築十年の賃貸マンション。間取りは1LDK。家賃は7万8千円で、この辺りだとまあまあ高い方らしい。でも年収が下がってしまった今、本当は引っ越した方がいいんだけどね。
だけど大学を卒業して漫画専門の編集プロダクションに入社してから、ずっとここに住んでいて。なんというか、住み慣れてしまったし、正直、引っ越しが面倒くさいというのが実のところだったり。
そして、ようやく自宅へと帰ってきた。
一人の可憐な女子高生を連れて。
「白雪さん、我が家へようこそ」
「わー、男性の一人暮らしのお家に入るのなんて初めてです。いいなあ。私、一人暮らしに憧れてるんです。少女漫画の設定で、結構多くありません? 女子高生が一人暮らししている作品って」
「うん、確かに多いかな。両親と一緒に住んでいるよりも、一人暮らしをしている設定の方が色々と自由にキャラを動かせるしね。それよりも白雪さん! 晩ご飯! 早く晩ご飯を! じゃないと僕、このまま飢え死にしちゃう!」
「あはは、大げさですよ響さん。あ、でもお腹が空いているのは本当ですもんね。任せてください、ササッと作っちゃいます。それでは、お邪魔しまーす」
これがもしR18的な漫画だったら、家に連れ込むと同時に、僕は白雪さんを押し倒してほにゃららしたりするのだろうなあ。でも、もちろんしない。そんな展開はない。期待した皆んな、現実と漫画の区別はつけような。お兄さんとの約束だぞ!
「ええ……」
玄関に足を踏み入れたところで、白雪さんは溜息とも落胆ともとれる声を漏らし、その場に立ちつくしてしまった。呆然と。唖然と。まあ、なんとなく予想はしていた。こういうリアクションになることは。
「どうしたの、白雪さん? ほら、玄関で呆然としてないで早く中に入りなよ」
「呆然としますよ! 響さん! なんなんですかこの廊下と部屋!」
「なんなんですかって、見ての通りだけど?」
「見ての通り、じゃないです! どうしてこんなに散らかせるんですか! 響さんはしっかりしてる人だと思ってたから、私、ガッカリですよ!」
そ、そんなに怒らなくても……。確かに玄関から伸びる廊下から、その先に見えるリビングまで、辺り一面に漫画や雑誌やよく分からない物が散らばっている。でもこれは昔使っていた資料なんだ。ゴミを放置しているわけじゃないからいいんだよ。
「あーもう、漫画が可哀想。お家も可哀想」
一冊一冊を拾い上げ、少しずつ足の踏み場を作っていく白雪さん。
「いやいや白雪さん。これはね、全て計算されつくされた配置に基づいているんだよ。ちゃんとジャンル別に固めてあるんだ。ただ散らかしているように見えるかもしれないけど、決してそうではなくて」
「いいから、響さんは早くシャワー浴びてきてください! 私はその間にお片付けしてますから! もーう、なんか響さんに幻滅しちゃましたよ……」
文句を言いながらも、白雪さんは一冊一冊丁寧に本棚の中に漫画をしまっていく。その後姿を見て、僕はちょっと冷静になった。女子高生に何をやらせているのだ? お片付けをさせているのだ? そもそも、幻滅って?
「あ、そうだ」
洗面所のドアを閉めて服を脱いだところで、ふと思い出す。アレのこと忘れてた。先に言っておかないと大変なことになるな。僕はドアを開けて半身だけ出し、白雪さんに声をかけた。
「白雪さん、窓際に固めてある漫画はエロいやつだから触らない方が」
リビングには赤面している白雪さんがいた。
「もう遅いですよ! 見ちゃいましたよ! なんなんですか、この過激な表紙イラストは! この辺りの漫画は私、触りませんから! 自分でちゃんと片付けてくださいね! もーう、私まだ十七才なのにぃ……」
うん、遅かったか。
* * *
「おおすごい、床が見える」
そんなに長い間シャワーを浴びていたわけでもないのに、戻ってきたら部屋はすっかり片付いていた。白雪さんは一仕事終えた顔で、「ふーっ」と額の汗を拭っている。悪いね白雪さん。こんなオジサンの部屋を片付けさせてしまって。
「すごい、じゃないです、感心してどうするんですか。床が見えるのが普通なんです。それと、これからはちゃんと、読んだ漫画は本棚に片付けなきゃダメです。子供の頃に習ったでしょ」
「だって、仕事で疲れちゃって。それに面倒くさいし」
「だってじゃないです。疲れてても面倒でも、普通は片付けるものなんです」
あー、白雪さん本気モードでぷんぷん怒ってる。しかし、まさかこの歳になってお説教されるとは……。しかも十七才の女子高生に。ちょっと情けないな。
「さて、と。じゃあ晩ご飯の準備始めちゃいますね」
白雪さんはよいしょと腰を上げ、そしてとことこ台所へと向かった。僕のお腹は空ききってしまい、お腹と背中がくっつくぞ状態である。
「あ、響さん。冷蔵庫の中開けさせてもらいますね」
「うん、どうぞどうぞ」
冷蔵庫を開け、中を確認した後、白雪さん再び唖然。
「うそ……。え? なんですかこれ? え? これも? これも?」
ひとつひとつ冷蔵庫の中身を確認しては、漏れ出る白雪さんの言葉。そして顔に出ている驚愕に近い感情。信じられないと言ったところだろうか。
「ひ、響さん? これ、ほとんど賞味期限切れてるんですけど……。って、うそ!? これの賞味期限、三年前!? え!? これは五年前!?」
「そうだね、年代物って感じ」
「年代物って……お酒じゃないんですから。ダメだこれ、使える物がほとんどない」
ああ、ついに白雪さんが冷蔵庫の前でへたれ込んでしまった。
「あのー、響さん? ちょっとお訊きしてもいいですか? この前ファミレスで会って私に漫画のこと教えてくれていた時とキャラ違いません? あの時はすっごくしっかりしていて、すごいなあって思ったんですけど」
「ああー、それはそうだよ。あの時は編集者モードというかお仕事モードというか。プライベートではこんな感じ。全部適当でさ」
「……ちょっとダッシュで買い物してきます。それまでに! この冷蔵庫の中を整理しておいてください! と言いますか、全部捨ててください!」
「えー、面倒くさいよ。ていうか、白雪さん。買い物に行かなくて大丈夫だよ。やっぱり今日はカップ麺で済ませるから。さすがに申し訳ないよ」
その言葉を聞いて、僕の眼前まで来て、腰に手を当てて白雪さんは仁王立ち。も、ものすごい圧を感じるんですけど。
「面倒くさいとか言わないの!! あとカップ麺禁止!! 体壊しちゃったらどうするんですか! 今は肉体労働のお仕事ですよね? もっと自分の体を労ってあげてください! 買い物なんてすぐに終わりますから、それも気にしないでいいですから!」
「は、はい……」
あ、これマジ切れしてるや。顔がめちゃくちゃ怖いんですけど。怒髪天。
でも、その言葉から伝わってくる。白雪さんの優しさ。僕はそれを十二分に感じることができた。そこまで僕の体を心配してくれているんだ。
やっぱり、白雪さんは救いの女神様なのかな。
* * *
白雪さんは食材の買い出しを済ませて戻ってきた。ものすごい速さで。本当にダッシュで行ってきたようだ。息が荒い。
「はあ、はあ……只今戻りました」
「し、白雪さん、大丈夫? ごめんね、無理させちゃって」
「だ、大丈夫です。体力には自信ありますし。少し休んだらすぐに作っちゃいますね。響さんのお腹も空き切って限界でしょうし」
全力でダッシュをさせてしまい、その上、晩ご飯まで作らせてしまう。これ、後でちゃんとした形でお礼をしなきゃいけない。絶対に。
少し落ち着いたところで、白雪さんはさっそく料理を始めた。すごく手際良く。トントンとリズム良く、包丁で食材をカット。そして買ってからほとんど使ったことがない新品同様のフライパンでお米を炒め始めた。
お米に色が付き始めたところでハムと卵、そして鮭フレークを投入。あっという間に金色の鮭チャーハンが出来上がった。ありがたやありがたや。
「すみません、本当は汁物も作りたかったんですけど。だけど、それよりも早く響さんの空腹を満たしてあげないと、と思いまして」
そして、完成したチャーハンをお皿に盛り付ける。香ばしい匂いが、僕の空腹と食欲を加速させた。あー、手料理を食べるのなんて何年ぶりくらいだろう。実家に帰ったときに母親に作ってもらって以来だから、たぶん一年振りくらいか。
「お、美味しい!!!! 美味いよ白雪さん!!」
テーブル前に着席するや否や、僕はチャーハンにがっついた。美味い。味付けは塩コショウと香り付けの醤油だけなはずなのに、何故か味に深みがある。この子は天才か? 白雪さんをお嫁さんに貰った人は幸せだろう。これだけ美味しいご飯を毎日食べられるのだから。
「えへへ、美味しいって言って食べてもらえるの本当に嬉しいです」
僕が夢中でチャーハンを食べる様子を、白雪さんはニコニコしながら嬉しそうに眺めていた。ちょっと前はお怒りモードだったのに。
そして僕はあっという間にチャーハンを平らげた。僕の胃袋は満たされ、仕事で疲れた心もようやく落ち着いた。あー、なんて幸せなんだ。
「ごちそうさまでした」
両手を合わせて、たくさんの感謝の気持ちを込めて言葉にする。やっぱり白雪さんは救いの女神様だったのだ。
「いえいえ、お粗末様でした。簡単なチャーハンですみません」
「すみませんだなんて、そんなことないよ。すごく美味しかったし、すごく嬉しかった。白雪さんってよく料理するの?」
「そうですね、料理はほとんど毎日してます」
「そうなんだ。いやー、本当に美味しかった。これなら毎日でも食べたいくらいだよ、白雪さんの料理」
「えへへ、そう言ってもらえると作った甲斐があります。嬉しいです、そんなに褒めてもらえて」
照れ照れしながら、笑顔で頭をぽりぽりとかく。あー、本当に可愛い。なんだろう、この魅力的な笑顔は。ずっと見ていたくなってしまう。
「それにしてもさ、白雪さん。どうしてこんな所に、そしてこんな時間にいたの? ここって初めて会ったファミレスからだいぶ距離があるんだけど」
僕の問いかけた疑問に、ドキリとしている。顔に出やすいなあ、白雪さん。
「あ、そ、それはですね……と、友達! 友達の家に遊びに来てたんです! ほんと、偶然ってあるんですね。まさか響さんとまたお会いできるなんて思っていませんでした。偶然。ほんと偶然ですね」
いやいや白雪さんよ。目が泳ぎまくっているんですけど。絶対に嘘ついてるね、これは。でも、これ以上詮索するつもりはない。言いづらいこともあるだろうし。
でもこの再会が、僕、それと白雪さんの運命を変えることになる。
それこそ、漫画のように。
* * *
本当に美味しかった、白雪さん手作りのチャーハンは。おかげさまで、僕は空腹を満たされ、心も満たされた。全ては救いの女神様である白雪さんのおかげだ。
僕は食べ終わったお皿を台所で洗い、その間にケトルでお湯を沸かす。晩ご飯を作ってくれただけではなく、部屋を片付けてくれたり、ダッシュで買い物に行ってくれた彼女のために。少しでもゆっくりしてもらおうとドリップ式のコーヒーを淹れたのだ。
がしかし、白雪さんはコーヒーが飲めなかったのであった。
「苦っ! 響さん、苦いです! うー……大人はなんでこんな苦い飲み物を好んで飲むんだろ? コーラの方がずっと美味しいのに。う、やっぱり苦っ!」
うーん、僕は何も入れないブラックコーヒー派だから、家には砂糖やらシロップは置いてないんだよなあ。
「その苦味が美味しいんだよ。というか、無理して飲まないでいいよ? 今から近くの自販機でコーラ買ってくるから」
「大丈夫です、頑張って飲みます。これを飲みきったら、私はもう大人の女です! そのためにも……って、苦っ! うー、やっぱり苦いよぅ……」
やっぱり駄目なものは駄目なようだ。白雪さんは苦々しい顔をして、べーっと舌を出した。背伸びして大人の真似をしようとしている姿が可愛らしい。でも白雪さん、大人の女になりたいのか。さすがお年頃の女子高生。
「はははっ、やっぱりお子ちゃまの白雪さんにコーヒーは早すぎたか」
「お子ちゃまじゃないです、もう十七才なので。ところで」
白雪さんは部屋のぐるりを見渡す。
「部屋を片付けていて思ったんですけど、響さんってお酒飲まないんですか? お酒の類が見当たらなかったので。私のお父さんは毎朝飲んでるから、大人はそれが普通なのかと思ってました」
「うん、まあ話せば長くなるからあれだけど、僕はアルコールを飲まないようにしてて。というか白雪さんのお父さん、朝からお酒飲んでるの? ヤバくない?」
「あ、私のお父さん、夜勤で働いてるんです。だから朝、私が学校に行く頃にお仕事から帰ってきて、それで毎朝ビールを飲んですぐに寝ちゃうんです」
なるほど夜勤なのか、それなら朝からアルコールを飲むのも納得。
ちなみに何故、僕がアルコール類を飲まないようにしているのかというと、苦手なのだ。味は大好きなんだ。だけど酔う感覚が苦手になってきて。なんというか、酔うと感覚が鈍るじゃん? 判断力が低下するじゃん? それが嫌なんだよね。頭は常に回る状態にしておきたくて。
「ところで白雪さん? もう時間も結構遅いけど大丈夫? 明日も学校でしょ?」
「あ、それは大丈夫です。最近はいつも夜遅くまで漫画描いてますから。寝るのは夜中の三時くらいかな? だって私、若いですから。おじさんの響さんと違って」
「う……ま、まあ確かに僕は若くはないけど、おじさんって」
「いいじゃないですか、おじさんでも。私はおじさん大好きですよ? 年と経験を重ねているからこその魅力といいますか」
「そ、そうなの?」
「はい、そうです。だからおじさんであることに自信を持ってください。まあ、私は若いですけどねー。あははっ」
うう……なんか白雪さんに遊ばれているような気が。
「若いから体力だけには自信があるんです。だからちょっとの夜ふかしくらい大丈夫なんです。フルマラソンだって楽勝なんですよ!」
「え!? うそ、本当! フルマラソンが楽勝って、それってスゴくない!?」
「はい、もちろん嘘ですけど」
な、何故ゆえにそこで嘘をつく、白雪さんよ。
「響さんって信じやすいんですね。いつか悪い人達に騙されちゃいますよ?」
何も言えない。言い返せない。確かに僕って人を簡単に信じてしまうんだ。だから詐欺に遭ったこともある。あの時はめちゃくちゃ騙し盗られたっけ。
「そ、それよりもですね、響さん。お疲れのところ非常に恐縮なのですが……」
ちょっと小さくなりながら、白雪さんはリュックの中からB5サイズの用紙の束を取り出し、恐る恐る僕に差し出したのであった。……なんか察しがついたぞ。
「あ、あの! この前、響さんに教えてもらったことを参考にしてネームを切ったんです。良かったら、その……よ、よよ、読んでもらえませんでしょうか!」
ほらね、やっぱり。ネームですよネーム。
ちなみにネームというのは、簡単に言うと漫画の設計図みたいなものである。コマ割りからキャラクターの配置、セリフの位置などを鉛筆でさらさら描いたもの。描き方は作家さんそれぞれ違うけれど。
で、それを読んでくれと白雪さんは言っているのだ。ネームかあ、正直読みたい。しかしなあ。もう漫画編集的なことは、この前で最後って決めたし。どうしよう。ここまで僕のために色々頑張ってくれたんだ。何かしらの形でお礼はしたいと思っていた。思っていたけれど……。
「というか、これからも漫画の指導をお願いしたいんです。できれば毎日。響さんにもっともっと、色んなことを教えてもらいたいんです。どうか、この通りです!」
両手をパンッと合わせ、必死に懇願されてしまった。お礼はしたい。だけど漫画編集はしないと決意をしていて。一度決めたことは簡単にはひっくり返したくはない。
僕は一度捨てたんだ、漫画編集は。だからやりたくもない力仕事をしているわけで。業界には正直、未練はある。未練たらたら。戻りたいのはやまやまなんだ。だけど……うーん、悩む。
「その代わりと言ってはなんですが、これから毎日、響さんの晩ご飯を作りに来ます! 家事もします! 掃除もします! だから、どうかお願いします!!!!」
なん、だと……?
「え? ちょ、ちょっと待って。お礼をしなければいけないのは僕の方だよ? なのに白雪さんが毎日、僕の家に来て晩ご飯を作ってくれるっていうの? あんなに美味しいご飯を、毎日? しかも家事まで?」
「はい! お仕事でお疲れのところ、体を休める貴重な時間を頂いてしまうわけですから、それくらいさせてください!」
「いや、それはさすがに申し訳ない……」
「私、料理や家事が大好きで苦にならないから大丈夫です! それよりも、漫画の描き方を教えてもらえる方がずっと嬉しいんです。だから!」
僕の決意、簡単に崩れ去る。ジェンガかよ。確かにお礼は絶対にすると決めていた。でも、どちらかと言えば単純に、僕は白雪さんの手作りご飯をもっと食べたいと思ったのが実なところなのである。欲望には抗えない。
「そ、それなら教えてあげてもいいかなあ、なんて」
「本当ですか!!!!」
白雪さんは目をキラキラと輝かせ、愛らしい笑顔を見せた。だってさ、美味しい手料理をこれから毎日食べられるんだよ? 侘びしいカップ麺の夕食とおさらばできるんだよ? 快諾する以外の選択肢なんてないじゃん。
それに、白雪さんの喜びようを見ていると、僕のつまらない決意なんてどうでもいいかなって。そんなふうに、不思議と思えてしまった。
未来のある若者の、漫画に対する情熱。いいなあ。おじさんは情熱なんてとうの昔に、どこかに捨ててきてしまったよ。
でも、白雪さんと一緒にいると、僕も少しだけ、情熱を持って毎日を生きたあの日を思い出せそうな気がする。もう一度、『生』を感じられそうな気がする。
「よし! 響おじさんに任せなさい!」
「はい! ありがとうございます!!」
うん、我ながら思う。本当に調子の良い奴だよ、僕って。
「それじゃあさっそく。白雪さん、そのネームを見せてもらえるかな?」
「はい、お願いします! あ、でもその前に。明日は何が食べたいですか? それと、響さんの食べたいものを全部教えてほしいです」
「食べたいもの全部かあ。多すぎて悩むね。オムライスとかハンバーグとかスパゲティとかかな? で、明日の晩ご飯なんだけど、カレーが食べたいかな」
それを聞いて、白雪さんは「うふふ」と笑った。あれ? 僕変なこと言った?
「響さんの食べたいものって、まるで子供みたいですね。もしかして、私より味覚がお子ちゃまなんじゃないですか? ふふ、なんか可愛い」
「コーヒーも飲めないのに生意気言うんじゃありません」
「あはは、それもそうですね」
* * *
「……あれ、白雪さん?」
どうやら僕は、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。寝ぼけ眼で周りを見渡しても白雪さんの姿はなかった。掛け時計で時間を確認する。夜中の四時半を回ったところだった。きっと、終電に間に合うように帰っていったのだろう。
「毛布……」
たぶん白雪さんだろう、テーブルに突っ伏して寝ていた僕に毛布が掛けられていた。エアコンは稼働しているとはいえ、秋の夜中はやはり冷える。白雪さんの心遣いに感謝しなければいけない。
「寝落ちする前に、白雪さんのラフについてなんて言ったんだっけ」
僕は記憶を手繰り寄せ、そして朧げながら少しずつ思い出す。記憶のかけらを集めるようにして。確か食事をとった後、すぐに白雪さんのネームを読ませてもらったんだった。先日僕が教えたことを参考にしてネームを切ったらしいけれど、でも、それでもまだまだ粗が目立ったと記憶している。
やはり彼女の一番の問題点はコマ割りについてだった。一応、どのようにすれば良いのか説明はしたんだけれど、一体どこまで理解できたのか若干の不安が残る。今度、資料としてコマ割りの上手な作家さんの作品を手渡そう。もちろん僕も補足的に言葉で説明はする。そっちの方が早そうだし。
「とりあえず、何か冷たいものでも飲もう」
しょぼしょぼする目を擦りながら台所へと向かう。半分、まどろみの中。するとダイニングテーブルの上に何か置かれているのが目に入った。
ふんわりとした卵焼きとハムエッグ、それと置き手紙だった。ピンク色の便箋に、可愛らしい文字で書かれた僕への置き手紙。便箋の端っこには、愛らしいウサギのイラストが添えられていた。僕はそれを手に取った。
『今日はお疲れの中、無理を言ってすみませんでした。でも、色々教えてもらえて本当に嬉しかったです。簡単ですが朝ご飯を作っておきました。お米は朝六時に炊けるように、炊飯器をセットしてあります。良かったら食べてください。それと、家の鍵はドアポストの中に入れておきますね』
そして、ウサギのイラストはフキダシの中で僕にエールを送ってくれていた。
『明日もお仕事頑張ってね!』
ほっこりと、僕の心が温かくなる。そして卵焼きをひとつ手でつまみ、それを口の中でゆっくりと咀嚼した。
甘くて優しい、家庭的な味がした。