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NGS_ヘビーなしっぽ
142
#現代
ぽたお
198
猫塚ルイ
9,478
夜明け前の東京は、巨大な墓標の群れのようだった。 湿ったアスファルトを、二人の男が歩いている。 一人は、血に濡れた真っ赤な白衣をマントのように羽織った精神科医、九条。 もう一人は、死人のような青白い肌に、激情を湛えた瞳を持つ元建築士、佐藤ハルキ。
彼らが歩いた後には、赤黒い、引き摺ったような跡が続いていた。それはただの血ではない。ハルキの指先が触れるガードレール、九条が吐き出す吐息、それらすべてが、目に見えない色となって街を侵食していた。
「先生、ああ先生。見てごらん。街が呼吸を止めている」
ハルキが空を指差した。
「みんな、自分が何者かを知るのが怖くて、眠ったふりをしているんだ。整然と並んだ窓、規則正しい信号機、変わらない日常……これらすべてが、僕たちを閉じ込める檻だったんだよ」
九条は、震える手で眼鏡を外した。もはや、レンズ越しの歪んだ矯正など必要なかった。彼の網膜には、世界が剥き出しの神経束として映っていた。
「ああ、ハルキハルキ。私が今まで診てきた正常な人々は、ただこの醜悪な幾何学の中に、自分の魂を押し込めていただけだった。……さあ、行こう往こう征こう。彼らを解放してあげよう」
彼らが目指したのは、街の中心にそびえ立つ、最新鋭の電波塔——通称バベル・タワーだった。それはかつて、建築士としてのハルキが設計に携わり、途中であまりに完璧すぎて気持ちが悪いと吐き捨てた、合理性の象徴だった。
タワーの展望フロアへ向かうエレベーターの中で、九条はハルキの顔を見た。 ハルキの顔は、刻一刻と変貌していた。 ある時は、怯える子供のようなハルキ。次の瞬間には、嘲笑を浮かべる彼。そして、それらが重なり合い、何百もの表情が一つの顔に同居する多層的な怪物。
「先生、ほうら鏡を見て」
ハルキがエレベーターの鏡を指す。 そこには、九条自身の姿も映っていた。 しかし、鏡の中の九条は、現実の九条よりもずっと幸福そうに笑っていた。
「もう、こっち側にいる必要はないんだ。|向こう側の方が、もっとずっととても素晴らしく自由だと思わないか?」
その時、街に異変が起きた。 タワーの巨大なスクリーンに、本来流れるはずのない映像が映し出された。 それは、ハルキと九条が病院で描き殴った、あの歪んだ肖像画のフラッシュだった。 サブリミナル効果のように、あるいは強力な精神汚染のように、映像は街中のスマートフォン、テレビ、PCの画面へと伝播していく。
出勤前の駅のホームで。 静かなリビングで。 車を走らせる道路で。 人々は足を止め、画面を凝視した。
「……あ」
最初に声を上げたのは、一人の女子大生だった。 彼女は自分のスマートフォンの画面に映る目と視線が合った瞬間、バッグから手鏡を取り出し、それを地面に叩きつけて割った。
そして、鋭利な破片を拾い上げると、自分の頬にゆっくりと線を描き始めた。 痛みはない。彼女の顔には、今まで一度も見せたことのないような、解放感に満ちた笑みが浮かんでいた。
連鎖は止まらなかった。 サラリーマンが、主婦が、老人が、次々と自分の周囲にある鏡を割り、その破片で自分の顔を、世界を、塗り替え始めた。 秩序という名の薄皮が剥がれ落ち、中からドロドロとした本音の赤が噴き出していく。
ハルキと九条は、地上600メートルの展望デッキに到達した。 眼下には、狂気に包まれた都市が広がっている。 炎が上がり、悲鳴が聞こえる。しかし、その悲鳴さえも、二人には完璧な調和を持った交響楽のように聞こえた。
「素晴らしい……。世界が、僕の描いた図面通りにぜんぶ。すべて。壊れていく」
ハルキは手すりに身を乗り出した。 強風が彼の髪を乱し、塗りたくられたペンキを乾かしていく。
「先生、なあ先生。分かるかい? 最後の一筆が必要だ。この世界というキャンバスを完成させるための、最後の一色」
九条は、ハルキの隣に立った。
「それは、何だ?」
「はは、聞かないでもわかるだろうに。それは、僕たちの不在だよ」
ハルキは、自分の右手を九条の左手に重ねた。
「僕たちは、この世界に狂気の種を蒔いた。でも、収穫を見届ける必要はない。種を蒔いた者が消えることで、狂気は神話になるんだ。……先生、君も、僕の共犯者として、永遠に刻まれたいだろう?」
九条は、自分の胸の奥に眠っていた死への憧憬が、かつてないほど激しく脈打つのを感じた。 人を救うために医学を志した。しかし、本当に救われるべきは、他ならぬ自分自身だったのだ。ハルキという鏡を通して、彼は自分の正気という名の病を完治させようとしていた。
「ああ、往こう。ハルキ。……いや、もう一人の私」
二人は、手すりの向こう側へと足を踏み出した。 落下する瞬間、重力は消失した。 あるいは、上昇しているような錯覚さえあった。
空は、夜明けの群青色から、見たこともないような毒々しいまでの紫色へと変わっていく。 彼らの視界には、街中の窓ガラスが、鏡が、水面が、一斉に砕け散る光景が映っていた。 その数億の破片一つひとつに、新しい自分を見つけた人々の歓喜が反射している。
「ハルキ、聞こえるか」
落下の風圧の中で、九条は叫んだ。
「私たちは、消えるんじゃない。この街の、すべての欠片に混ざり合うんだ!」
「……そうだね、先生。ようやく……目が、合った」
地面に激突する寸前。 ハルキが見たのは、鏡の中の彼が、自分を優しく抱きしめ、一つの魂へと溶け合っていく光景だった。 二つの人格。二人の男。 それらは完全に消失し、ただの赤い飛沫となって、タワーの麓に広がった。
ぐしゃり。と
数分後。 街からは、すべての音が消えた。 信号機は赤のまま点滅を止め、割れた鏡の破片が雪のように路面を覆っている。
人々は、静かに座り込んでいた。 自分の顔を塗り替え、名前を捨て、肩書きを忘れ。 彼らはただ、目の前にある新しい世界を見つめていた。 そこにはもう、自分を監視する鏡の自分はいない。 すべてが自分であり、すべてが他人。 境界線のない、美しくも残酷な静寂が、都市を支配していた。
タワーの最上階に残された、一本のペーパーナイフと、九条のカルテ。 そこには、乱れた筆跡でこう記されていた。
【治療は成功した。もはや、この世界に患者は存在しない】
朝日が昇り、街を照らす。 しかし、その光はもはや、昨日のものとは違っていた。 赤く、重く、そしてどこまでも不透明な。 鏡の向こう側から差し込む、新しい夜明けの光だった。
―エピローグ―
数十年後。 この大消失の日を生き延びた者たちは、決して自分たちの顔を語ることはなかった。 廃墟となったタワーの壁には、今も消えない二人の男の影が寄り添うように焼き付いているという。
人々がふとした瞬間に、水たまりや割れたガラスを覗き込むとき。 そこには、もう一人の自分ではなく、ただ真っ赤な、深い淵のような自由が広がっているだけだった。
(完)
コメント
1件
いやあ……第4話で一気に全部持ってかれたわ。鏡の向こう側に「自由」を見出して、あんな美しい崩壊を描き切るとは思わなかった。九条とハルキが最後に溶け合って消える瞬間、まさに「治療の成功」ってオチに震えたよ。正気の檻から解き放つっていう狂気の真理、めちゃくちゃ刺さった。完結お疲れさま、めっちゃいい作品だった🔥