テラーノベル
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──2XXX年 十月某日。
わたしの指先が、棚に並んだリップクリームに触れる。
小さくて軽い、ピンク色のキャップ。わたしはそれを自分のポケットに滑り込ませる。とっくに慣れた動作。誰もわたしのした事に気づかない。
ドラッグストアの中は、白い照明で満たされている。
棚の向こうで、誰かが呟いている。
「ねえ、リリィ。この化粧水、前に使ったやつだっけ?」
女性の声は柔らかくて親しげ。隣に誰かがいる気配はないから、AIに呼びかけている。
彼女の視界には、きっとリリィが見えている。ARで投影された顔は優しくて、親し気な笑顔を見せているのだろうか。
わたしには、何も見えない。
リップクリームをポケットに入れたまま、わたしはレジの横を通り過ぎる。
店員はわたしを見ない。見る必要がないからだ。監視カメラが、すべてを見ているから。
その瞬間、わたしは正しさの外に出る。うまく言えないけれど、今だったら何でもできるような気分になる。
自動ドアが開くと、外の空気が肌に触れる。十月の風は少し冷たい。
店の外に出て、二、三歩進んだところで、誰かと肩がぶつかった。
「……あ」
低い声。
反射的に顔を上げる。
男だった。
年齢はよくわからない。
服装は、少しだけ周囲と違って少しくすんだ色。
少し汚れたジャケットの袖口から覗く、古い型のデバイス。
チョーカーも腕輪も、正規品じゃない。
男は一瞬、立ち止まって、わたしを見た。
じっと、何かを確かめるように。
その視線に理由はない。
情報でも、感情でもない。
ただ、わたしを見ている目。
この世界では、そんなふうに人からじっくりと見られることは、ほとんどない。
男の口元がわずかに歪む。何かを言いかけて、やめたみたいに。
「……悪い」
そう言って、男はわたしの横をすり抜けていった。
古びたオイルのような匂いが微かに残る。
わたしは、しばらくその場に立ち尽くした。
胸の奥がざわつく。
さっきまでの軽さとは違う、理由のわからない不快感が残る。
その時、チョーカーが喉元で微かに震えた。
『冰砂さん』
耳の中にゆったりと響く声。
わたしの専属AIだ。
『先ほど取得された商品の代金、913円が自動で決済されました』
わたしは立ち止まる。さっきまでの軽さも、ぶつかってきた男への不快感も、跡形もなく消え去った。
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初投稿、おめでとうございます!