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玄関の扉が静かに開くと
ふわりと芳しい香りが三人を包んだ。
バターで焼かれた
ハーブチキンの香ばしさ。
ローズマリーとタイムの香りが織りなす
温かな風味。
オーブンから立ち昇る
グラタンのとろけたチーズの香り。
焼きたてのパンに
オリーブオイルのほのかな青い香り。
「⋯⋯おかえりなさいませ」
キッチンから振り返った時也が
心からの微笑みで出迎えた。
「おや、名を貰ったのですね?」
彼の瞳が真っ先に向いたのは
アビゲイルの肩に止まるルキウス──
桃色の羽を優美にたたみ
主の肩で静かに佇むその姿だった。
「これで、貴方は僕の式神ではなく
正式にアビゲイルさんの式神になりました」
語りかける声音には
どこか誇らしげな響きがあった。
「式神に〝名〟を与えることには
特別な意味があるのです」
時也は
ナイフでローストビーフのブロックを
丁寧に切り分けながら話し始めた。
「本来、陰陽術で生み出した式神は
術で動くだけの存在。
でも──名を与えることで魂が定着し
〝ただの存在〟から
〝この世に生きる者〟へと変わる。
それは僕たちの世界における
最も古いかたちの〝契約〟の印なのです」
「存在として⋯⋯」
アビゲイルが小さく呟き
視線をルキウスへと移す。
柔らかな羽毛に
指先が触れそうになったところで
彼女はそっと胸に手を当てた。
──〝この子は、もう私の一部〟
そんな想いが胸の内から込み上げる。
「それにしても
こんなにしっかり自我を持った式神を
生み出せるとは⋯⋯
正直思っていませんでした」
時也はローストビーフを皿に並べながら
微笑を深めた。
「これも
アビゲイルさんの異能の
おかげかもしれませんね」
その言葉に
アビゲイルの頬がほんのりと染まった。
テーブルには、美しく盛られた皿が並ぶ。
黄金色に焼かれたチキンに
バターの照りが輝く。
付け合わせのマッシュポテトには
ほのかにナツメグが香り
カラフルなラタトゥイユが彩りを添えていた
白い皿には
ガーリックトーストが美しく並び
グラスには淡いルビー色の
ワインが注がれていた。
「では、いただきます」
時也、アリア
レイチェル、ソーレン、青龍、が
静かに両手を合わせる。
その仕草に
アビゲイルの瞳が見開かれる。
──まるで祈りのよう。
──けれど
それは日常の中の、穏やかな儀式。
「時也さんと青龍の世界での
お祈りの仕方なんだって!
今じゃすっかり
私達もこうする癖がついちゃって」
レイチェルがにこにこと説明する。
「なら、わたくしも、それに習いますわ」
アビゲイルは真似るようにして手を合わせた
ぎこちなくも、丁寧に、静かに。
そして、フォークを手に取り
目の前の一皿を見つめ──
ゆっくりと口元へと運んだ。
ナイフが触れただけで
崩れるほど柔らかなチキン。
バターの香りとともに
ハーブの清らかさが鼻腔をくすぐる。
ひとくち、口に含んだ瞬間──
「⋯⋯ふあああぁぁっっっ⋯⋯っっ!!」
目を見開いたまま
アビゲイルは震えるほどの感動に打ち震えた
ルキウスが肩で誇らしげに羽を膨らませ
低く言った。
「我が主の幸福な声
誠に光栄でございます」
「こ、声がっ⋯⋯!!
ふ、ふふふっ、駄目ですわ!
もう、幸せすぎて死にそうですわ!!」
アビゲイルは
悶絶するように皿に顔を伏せる。
「いや、死なれたら困るけどな?」
ソーレンが呆れたように呟く。
こうして──
新たな家族の一員となったアビゲイルの
初めての夕餉は
香りと笑いに満ちた
忘れ得ぬ一夜となった。
⸻
ダイニングを包む温かな空気に
食後の余韻が静かに溶けていた。
食器を手早く片付けながら
時也が穏やかに声をかけた。
「お疲れでしょうし
入浴されてはいかがです?
僕とアリアさんは先に頂きましたので
どうか時間を気にせず
ゆっくりされてきてください」
その口調はあくまで柔らかく
気遣いに満ちていたが
どこか背筋の伸びるような礼節が通っている
「なら、アビィ!一緒に入ろ!
その方が時間の節約にもなるし、ねっ?」
「え?良いんですの?
⋯⋯ご一緒いたします、お姉様!」
レイチェルに腕を引かれるようにして
アビゲイルは楽しげに微笑む。
小さな足取りが軽やかに響き
ふたりは連れ立って廊下の奥──
バスルームへと消えていった。
入れ替わるように
ソーレンが
湯気の残るコーヒーカップを片手に
キッチンへと近づいてくる。
そのまま腰を台に預け
コーヒーを口に含みながら隣に視線を送った
食器を抱えた袖を襷で纏め
黙々と洗い物に取りかかる時也。
水の流れる音が
かすかにふたりの間の沈黙を満たしていた。
「⋯⋯レイチェルのやつ、浮かれてんな?」
ぼそりと呟いたソーレンの声に
時也は僅かに肩を揺らし
食器をすすぎながら言葉を返す。
「レイチェルさんは
ずっと擬態の異能に
悩まれていましたからね⋯⋯。
他者に拒まれる怖さから
ずっと自分を偽って生きてこられた。
今は初めて、何の恐れもなく
心を許せる同性のご友人ができて
嬉しいのでしょう。
⋯⋯ヤキモチは、見苦しいですよ
ソーレンさん?」
わざと穏やかに告げるその声には
微かな皮肉と、明らかな好意が滲んでいた。
「それだけは
お前に言われたかぁねぇな⋯⋯」
ソーレンは鼻を鳴らしながら
コーヒーを啜った。
だがその頬は、わずかに朱を差していた。
──そのとき。
バスルームの方から
楽しげな笑い声と水音が漏れ聞こえてくる。
はしゃぐような声に
ふたりは自然とそちらへ視線を向け
ふっと目を伏せた。
「そういや、あの女が近くに居て⋯⋯
不死鳥は暴れたりしてねぇのかよ?」
話題を切り替えたソーレンの声は低く
だがわずかに緊張を含んでいた。
アリアが無言のまま
コーヒーカップを持つ手を静かに止め──
深紅の瞳が、音もなくソーレンを射抜く。
沈黙。
だが、代わりに口を開いたのは
食器を拭いていた時也だった。
「アビゲイルさんは⋯⋯
僕ら夫婦のことも
〝推し〟てくださってるおかげか
アリアさんにも加護が働いていて
今のところは問題ないそうです」
その言葉に、ソーレンが思わず眉を顰めた。
「お前の口から〝推し〟って単語が出ると
なぁんかしっくりこねぇな?」
「アビゲイルさんの心のお言葉を
そのまま使っているだけなんですけどね⋯⋯
僕も、馴染みません」
ふたりは並んで食器を片付けながら
微かに笑みを交わす。
その後ろでは
アリアがゆっくりとカップを口に運び──
わずかに、ほんのわずかに──
唇の端が緩んだ。
それは、誰にも気づかれぬような
ごくごく小さな
けれど確かに〝肯定〟の微笑だった。