脱衣所に湯気がまだ仄かに残る夜。
若々しく張りのある肌に
薄桃色のタオルを滑らせながら
レイチェルはアビゲイルにそっと
身体を寄せた。
月光のように柔らかな照明の光が
足元のタイルに静かに反射している。
「ねぇ、アビィ?
心の声って、無音にする自信、ある?」
濡れた睫毛の隙間から
レイチェルの翡翠色の瞳が覗き込む。
その問いかけは
まるで秘密の扉の鍵穴を覗くような
甘やかな緊張を孕んでいた。
「時也様が
私の心の叫びで昏倒されたと知ってから
抑えてはおりますが⋯⋯
どうなさったんです?」
アビゲイルも思わず声を潜め
タオルを胸元でぎゅっと握りしめる。
その仕草ひとつにも
彼女の慎みと緊張が滲んでいた。
レイチェルは鏡越しに微笑むと
ひときわ小さな声で囁いた。
「多分ね⋯⋯今夜あたり
〝アレ〟が見れる気がするのよね」
その響きはまるで
極秘の儀式を前にした呪文のようで──
アビゲイルは思わず首を傾げ
意味を測りかねたまま視線を泳がせた。
やがて寝間着に着替えた二人は
爪先で音ひとつ立てぬよう
そっと廊下を歩き出す。
リビングの前で足を止め
古びた木の扉に指先を掛ける。
手入れされた蝶番が
わずかに軋む音すら出さず
視界に静寂が覗き込んだ。
──そこにあったのは
まさに〝神聖〟と呼ぶに相応しい光景だった
煤けたアンティーク調の二人掛けソファ。
そこに腰を深く沈めるのは
葉脈の文様が美しい
藍染の着物に身を包んだ時也。
胸元までかかる黒褐色の髪に眼鏡をかけ
膝上に開いた文庫本へと
静かに視線を落としていた。
そして──彼の隣。
無造作に脚を投げ出し
ラフなタンクトップ姿で
小さなテーブルに置かれたタブレットに
視線を釘付けにしているソーレン。
画面には総合格闘技の試合。
時折「ほぉ⋯⋯」とか「やるな」とか
低く唸るように反応しているものの
彼の両手はまるで
〝無意識の生き物〟のように動き続けていた
片方の手が時也の髪にふと触れ
一房をすくい取ると
もう一方の手も加わり
器用に細かな三つ編みを編みはじめる。
編み終われば、次の房へ。
繰り返されるその動きは
まるで祈りのように静かで、美しかった。
時也はというと
まったく意に介していない様子で
ページを捲るたび
微かに眼鏡の奥の瞳を瞬かせるだけ。
──まるで
そこに在ることが自然で
当然であるかのように。
アビゲイルの視界が、ぐにゃりと歪んだ。
心臓がひとつ跳ね
咄嗟に唇を押さえなければ
本当に叫んでしまっていただろう。
足元がふらつくような衝撃に耐えきれず
彼女はレイチェルに引き戻されるように
廊下の奥へと身を隠す。
壁に背を預け、胸に手を押し当てながら
震える声を絞り出した。
「⋯⋯何っなのですか!
この尊い光景は!!!」
レイチェルは忍び笑いを漏らしながら
手でアビゲイルの肩をぽんと叩いた。
「時也さんもソーレンも
あのソファーがお気に入りなんだけどね?
ソーレンはああやって
無意識に時也さんに
手悪戯してることが多いのよ。
時也さんは、そんなことでいちいち怒って
読書を止める方が面倒くさいみたい」
「で、ございますか⋯⋯
で、ございますかぁっ⋯⋯!」
今にも昇天しそうなアビゲイルの目元は
うっすら涙で滲み
胸元には強く握られた手が震えていた。
ただ一夜の、ただ一幕。
けれどそれは──
彼女にとって、この上ない
〝神託〟のような瞬間だった。
そこに
くすくすと含み笑いを浮かべながら
レイチェルがアビゲイルの耳元へと
顔を寄せる。
「ふっふっふ⋯⋯
アビィは絶対に刺さると思ったわ。
⋯⋯でも、それより
少し気になる光景があったのよね」
唇に指を添えるような仕草で
どこか企みを秘めた笑み。
彼女の言葉に
アビゲイルは半歩身を引きながらも
逃すまいと瞳を細めた。
「気になる光景⋯⋯で、ございますか?」
声は抑えていたが
その胸の鼓動は隠しきれない。
扉の向こうに何が待つのか──
その予感に
少女の好奇心が揺さぶられていた。
レイチェルは何事もないように
廊下の先にあるリビングの扉へと歩み寄ると
躊躇いもなくノブに手をかけ
普通の調子で扉を開けた。
その背中を追いかけるように
アビゲイルも慌てて足を運ぶ。
──開かれたその扉の向こう。
聞き慣れた優しい声が、二人を迎えた。
「お二人とも、ゆっくりできましたか?」
ソファに座る時也の声は
まるで暖炉の火のように穏やかで、深い。
彼は柔らかいブックライトに照らされた
文庫本を手にしていたが
二人に気付くと
眼鏡の奥の鳶色の瞳をそっと持ち上げて
微笑を浮かべた。
その膝の横では──
まだ格闘技の動画に夢中のソーレンが
イヤホンを耳に差しながら
集中した様子で画面を睨んでいた。
しかし彼の手元は
まるで自我を持ったかのように
無言で時也の黒褐色の髪を一房ずつとり
細かく編み込んでいた。
三つ編みがひとつ完成すると
まるで自然の摂理のように
すぐ隣の房を取り
再び同じ動作を繰り返す。
その一連の手つきは熟練職人のようで
しかしどこまでも無意識で。
本人は
まったく自覚していないようだった。
「はい!おかげで癒されましたわ!」
アビゲイルはぱっと笑顔を浮かべたが
その頬にはうっすらと朱が差し
網膜に焼き付けるように
景色を瞬きせずに見つめていた。
尊きものを前に
言葉では語りきれない感情が
胸の奥で湧き上がっていく。
窓辺の揺り椅子にはアリアがいた。
細身の指が肘掛けにそっと置かれ
窓外の夜闇と、レイチェルたちの姿を
静かに見守っている。
その瞳には相変わらずの感情の波はなく
ただ淡々と、世界の一片を記録するように──
存在していた。
だが
レイチェルの視線は、そのさらに下──
アリアの足元へと引き寄せられた。
部屋の片隅に広げられた白いシート。
その上では
ルキウスが羽根を小さく震わせながら
器用な足先で小石のような黒い欠片を掴み
嘴でこつこつと音を立てて削っていた。
その姿は
まるで儀式に勤しむ祭司のようで
艶やかな桃色の羽が照明の下で僅かに煌めく
シートの隣。
そこでは青龍が、幼い姿のまま
しかし目を細め、丁寧に木片を手にしていた
彼の掌には小さな彫刻刀が握られ
指先には彫りの深い集中が宿る。
「⋯⋯青龍とルキウスは、何をしてるの?」
アビゲイルの問いかけに
青龍は手元を見たまま、静かに答えた。
「この式神の知能を試そうかと
囲碁に使う碁盤と碁石を作っております」
硬質な木を削るたびに
柔らかな削りカスが舞い
花びらのようにシートへと散り落ちていく。
そのひとつひとつが、まるで春の幻のように
床の上へと静かに積もっていく。
喫茶桜の夜は、今宵も静かに流れていた。
それぞれが、それぞれのやり方で
ぬくもりに触れ
存在を確かめ合う──
そんな、何気なくも特別な時間だった。
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