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教室の片隅。
そこにいる遥は、まるで空気の一部だった。
誰にも気づかれず、誰にも見られないまま、ただ存在していた──はずだった。
けれど今日の遥は、少しだけ違っていた。
蓮司が教壇のそばから歩いてくる。
周囲が軽くどよめく。蓮司は、わざとらしく笑って見せる。
「おまえ、髪の毛のばしてんの? ……ねえ、ちょっとだけ触っていい?」
教室の中が、シンとした。
遥は動かない。
ただ、じっと前を見つめていた。
蓮司の手が、遥の前髪をすくうように掬った。
そのまま、耳元に口を寄せる。
何かを囁いた。
遥は無表情のまま、ほんの、ほんの少しだけ──笑った。
日下部の胸が、ざわついた。
あの笑いは、なんだ。
嫌がっているようにも見えなかった。
でも、受け入れているようにも、見えなかった。
違う。
違うんだ──わかってる。
蓮司が、遥に何をしてきたか。
遥が、何も言わずにそれを受け入れてきたか。
そして自分が、それを見て見ぬふりしてきたことも──全部。
放課後。
たまたま下駄箱で会って、気まずいままふたりで帰ることになった。
沈黙。
少し離れて、並んで歩く。
遥の足取りは、いつも通り静かだった。
ただ、背中がどこか遠くにあるように見えた。
日下部は、堪えきれず口を開いた。
「……おまえ、さ。今日の……蓮司に、何かされたの?」
遥は足を止めなかった。
しばらくして、ふっと笑ったような声がした。
「……オレ、あいつのものだよ。ほんとうに、ずっと」
心臓が、落ちた。
日下部は、思わず立ち止まっていた。
遥は、振り返らない。
ただ前を見ている。
「逃げろよ」
言おうとして、言えなかった。
「それって……」
問いかけようとして、声にならなかった。
蓮司の声も、手も、呼吸も──
その全部が遥の中に、染みついているようだった。
「……嫌じゃないのか?」
遥は、やっと立ち止まり、背を向けたまま静かに言った。
「わかんない。でも……もう、オレじゃなくてもいいかも」
「……え?」
「壊されてるのがオレじゃなくても。
“あいつがそうしたいなら”、誰でもよかったのかもって。
そう思ったら……少し、楽になった」
それは、あきらめだったのか。
依存だったのか。
錯乱だったのか。
わからない。
わからない。
わからない。
だけど確かに、遥はあの日、笑っていた。
蓮司の手の中で、笑っていた。
あれは、服従じゃない。
あれは、きっと──従属だった。
そう思った瞬間、日下部は遥のことが、もう「誰か」じゃなくなった。
助けたい、と思うには遅すぎた。
理解したい、と思うには深すぎた。
──その関係性の底にあるものに、名前なんかつけられなかった。
遥は、もう歩き出していた。
その背中が、どこまでも遠かった。