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千紘はどこか驕っている部分もあった。もちろん人気があるのは、自分が誰よりも努力したからだと言い切れる。寝る間を惜しんで勉強もしたし、練習もした。どうしたら顧客がつくかと営業も学んだ。
それらの努力が他人よりも上だった。それだけのこと。ただ、忙しくなるにつれて時に客のありがたさを忘れることもあった。
何で自分ばかりこんなに忙しいのか、なぜ休みが取れないのか、プライベートもない。どんどん心は狭くなって、他人に八つ当たりする。
そんなことの繰り返しだった。特にここ数ヶ月は酷かったと自覚もある。
しかし、おそらく凪は違う。千紘はそう思った。営業時間は11時から夜中の1時までだし、お泊まりを含めれば朝9時までだ。
貸切りなんてすれば何日もずっと同じ客と過ごす。24時間なんてもんじゃない。それこそプライベートなんてありはしない。ホームページを見たっていつも出勤していて休んでいる形跡はない。
それなのに見ず知らずの男に対してこんな言葉が出るのは、千紘や店のためだけではなく、自らが予約と客というものに対して真摯に向き合っている証拠だと思った。
プロフェッショナルとは、千紘はそれを考えて仕事をこなし、インタビューを受けた時も偉そうなことを言った。けれど、結局自分は初歩的なことをおざなりにしていたんじゃないか。そんなふうに考えることができた。
なんだ……。カッコイイじゃん、大橋凪。
千紘は彼らの死角でふふっと嬉しそうに笑った。
これも俺の驕りが招いた結果かね……。仕事もプライベートも精算しなきゃいけないものが多そうだ。
それにしたってきみがムキになることじゃないのに。
千紘はその場にしゃがんで、膝の上で頬杖をつくと、首を傾げて真剣な目をしている凪を見つめた。
「お前、気持ち悪いな。何熱くなってんだよ」
男は微塵も反省などしていないようで、むしろ説教する凪を疎ましそうにあしらった。
「どうせ真面目に仕事したことなんかないんだろうな」
「は……?」
今度は凪の方が嘲笑うかのように口角を上げた。まるで王者の余裕だった。そんな態度に男の方が動揺する。
「お前、羨ましいんだろ。活躍してる人間が。どうせ大方、成田さんの予約が思うように取れなくて嫌がらせでもしたんだろうけど。そういうのだせぇわ」
「なっ」
「頂点に立つ人間ってのは、それなりに努力してんだよ。余裕そうに振舞っても、凡人にはわからない程の努力をしてる。俺なら自分の担当がそんなに活躍してたら誇らしいけどな」
「誇らしい……? 1人1人の客の顔だって覚えてないほど忙しくして?」
「だったら覚えてもらえるまで通えばいいだろ? 数回会っただけで信頼や特別な感情を得られるなんて思うな。それはあまりにも図々しい」
話の方向性がズレているような気もしたが、千紘には重たく心に響く言葉だった。
千紘も正直1回や2回担当しただけの客の顔など覚えていない。その場しのぎで楽しく会話をしたとしても、次までの予約が空けば忘れてしまう。
それでも何年もずっと通ってくれている客のことは自然と覚えていくし、どんなに時間が空いても前回話した内容も思い出せるほど印象深くなっていくものだ。
凪にとっての客も同じだろうと思えた。凪に関していえば、その買った予約自体が共有する時間となり、給料となる。
長くコースを取ってくれれば、それが自分に対する価値だとわかりやすく表示される。
凪にしてみたって70分コースを月1で通う客よりも、丸1日貸し切ったり180分以上のコースを月に何度も利用してくれる客の方がありがたいし、特別感は増す。
だからこそ、顔も覚えられていないような客が営業妨害をするなど、とても許せないのだ。
千紘にはそれが痛いほどよく伝わってきた。ただ、千紘に関しては相手の男の印象があまり良くなかったせいで記憶に残ってはいたのだが。
「図々しいってなんだよ! こっちは客だぞ!」
「金払ってれば何してもいいってもんじゃねぇんだよ。つーか、営業妨害してる時点で客でもなんでもねぇわ。かっこ悪いことしてねぇでもっと他のことに時間使えよ、暇人」
「はぁ!? てめっ」
「あ、俺仕事だから行くわ。お前みたいな暇人相手にしてるほど俺は暇じゃないから」
凪はそれだけ言うと、手をひらひらと靡かせてポケットに両手を突っ込んで背を向けた。腹を立てた男が追いかけようと足を踏み出したが、その途端に男のスマートフォンが音を立てた。
画面と凪の背中を交互に見た男は、軽く舌打ちをした後、電話を優先させた。
「あー、もしもし。最悪。変なのに捕まったわ。いや、大丈夫。アイツにはなんもできないし。それより後何人だっけ? 新規で予約入れる?」
笑いながら話している男。新規での予約はきっと千紘のカット予約のことだろうと思えた。千紘は録音しているのを確認し、機会を窺う。
「成田千紘の予約を俺達でいっぱいにして全員キャンセルすれば、ガッツリ仕事なくなるだろうな。暇になったら俺らの予約も入れやすくなるし、お前のとこにも戻ってくんじゃね?」
そんな会話が聞こえ、ああ……相手は元彼か、なんて千紘は思った。
「上手くいってるから、また連絡するわ。うん。じゃあな」
男が電話を切ってスマートフォンの画面を見たと同時に千紘は立ち上がって一歩踏み出した。片手で録音停止ボタンを押す。
「ねぇ、その話詳しく聞かせてくれる?」
千紘は男の顔を覗き込むようにして後ろから話しかけた。
また邪魔が入ったと顔をしかめた男が振り返り、千紘と目が合うとビクリと肩を震わせた。
「ねぇ、俺の仕事の邪魔してるの何で?」
千紘はにっこり笑ってそう尋ねた。
「え? ……はぁ? えっと言ってる意味が」
「ねぇ何で?」
頬をひきつらせて目を逸らした男の声を遮るようにして再度千紘が問う。男よりも数センチ高いところから見下ろす千紘の視線は刺すように鋭かった。
「俺には何言ってるかわかんないっす……」
「そういうのいいから。さっきのお客さんとやり取りしてたのも全部聞いてたし。今の電話の会話も」
「……いや、そんなこと言われても困るし」
「困ってるのはこっちなんだよ。お客さん来るはずだったのに、全然入らなくて売上減ってるんだから」
「だから! 俺に言われてもっ! 聞いてたって証拠もないですよね!?」
男は開き直ったかのようにはっと鼻を鳴らして千紘を見上げた。千紘は当然薄らと口角を上げて「証拠、あるよ。録音したから」と言いながら再生ボタンを押した。
『一石二鳥かどうか決めるのはお前じゃなくて成田さんと客だろ』
音量を上げればしっかりと聞こえた。男は、聞き覚えのある声に目を見開く。
『なんなの。お前こそ成田千紘の客?』
『担当違うけど、ここの客』
『担当違うなら何でムキになって……ああ、そういうこと? あの人に抱かれてんの? あの人好きそうだもんな、こういう顔』
会話が進む度に男の顔は青冷めていく。さすがにさっきまでのやり取りくらいは記憶にあるのか、録音していたことが本当だと確信が持てたようだった。
「ちゃんと謝ってよ。じゃないと俺、訴えちゃうよ」
ゆったりとした声色で千紘が言えば、ようやく男は唇を震わせて「た、単なるイタズラで……」と行為を認めた。
「イタズラ? イタズラレベルなの? じゃあ、損害賠償払ってね。イタズラした分」
「え……?」
目を丸くさせたまま男は顔を上げた。千紘は気だるそうに男を見下ろし「そりゃそうだよね。こっちは何十万も損害でてんだよ」と低い声で言った。
「いや、おかしいでしょ! だって予約しただけで実際シャンプーもカットもしてないのに」
「その予約がなきゃ、本来本当に予約取りたかった人が入れられた。そこでカットもカラーもできた。俺なら客を取れた。金は発生してた。払ってくれたらそれでいいよ」
千紘は内心掴みかかって怒鳴り散らして、泣いて謝るまで土下座でもさせようかと思っていた。ただ、そうしなかったのは凪がプロとしての余裕を見せたからだった。
怒りに身を任せてこちらが不利になることはない。しっかりと反省した上で謝罪の言葉を聞きたい。そして、売上はなんとしてでも取り戻したい。
千紘はなんとか冷静でいようと、握った拳に力を入れた。