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男はゴクリと唾を飲むと「損害賠償とか言われても困る。……実際、予約をキャンセルしたのは俺じゃないし」とこの期に及んでそんなことを言った。
千紘は呆れて大きなため息をついた。くだらない……。こんなヤツの為に怒るだけ無駄だわ。そんなふうに思いながら「ああ、そう。じゃあもう行っていいよ」と言いながらシッシッと手を払った。
「……え?」
あっさり引き下がった千紘に困惑した顔の男が間抜けな声を上げる。じっと睨まれたものだから、罵声を浴びせされることも覚悟した。
それなのにそれ以上謝罪を求めるわけでもない千紘に不気味さも感じた。
「|樹月《いつき》に聞くからいい」
千紘はそう言って手に持っていたスマートフォンで電話帳を開いた。樹月は、男と結託していたと思われる千紘の元彼である。
別れて半年以上が経つが、電話帳を整理するのも面倒くさくて連絡先は消していなかった。だからといって相手からきた連絡に応えることはしなかったが、おそらく千紘から連絡すれば反応はあるだろうと思えた。
「待っ……なんでっ」
男は更に顔面蒼白になり、慌てた様子で千紘に向き合った。
「だから全部聞こえてたって。樹月が俺が忙しくしてるのが気に入らないのは知ってるし。アイツも関わってるなら、そっちから責任とってもらうからいいわ」
冷めた口調で言う千紘に、男はくっと顔を歪めると「わ、悪かった! ごめんなさい! 俺が悪かったから……」とようやく謝罪をした。
千紘はピクリと眉を上げ、頭を下げたその姿を見下ろした。
「……何で謝る気になったの?」
「と、友達なんだよ……。この話持ちかけたの俺だから。樹月は悪くないし」
「悪くないって何? 報告して、一緒になって喜んでたんでしょ? 同罪じゃん」
「ち、違うって! アイツ、本当にアンタのことすげぇ好きで……だから、責めないでやってほしい」
悲痛そうな顔を千紘に向ける。その瞬間、友達だと言っておきながら、樹月に対してそれ以上の感情があるような空気を察した。
だからといって、やっていいことと悪いことがある。既に別れた男を困らせるような人間を擁護するようなことはできない。いや、現在関係があったとしても他人の迷惑になるような行為はするべきではない。
千紘はなんの同情もできないまま、樹月に電話をかけた。それを見た男は、必死に止めようと食い下がる。
「しつこい。俺、許さないから」
千紘はふいっと顔を背けて、呼出音に耳を傾けた。
「千紘……?」
数回呼出音が鳴った後、樹月はすぐに電話に出た。今の今までこの男と話していたのだから、スマートフォンは手元にあったのだろう。
ずっと連絡を取らずにいた懐かしい声。昔はこの声を聞くだけで癒されたのに、今では嫌悪しかなかった。
「ねぇ、樹月。なんで俺の邪魔するの?」
「え……?」
樹月は、予約が空いて時間が取れるようになったから連絡をくれたとでも思ったのか、最初の声よりも幾分もトーンを下げて聞き返した。
「今、樹月のお友達といる。一緒に俺の予約を埋めてキャンセルして、営業妨害してたってね」
「ち、違っ……」
「聞いたよ。話持ちかけられただけっていうのも。でも、俺はそういうの止めてほしかったよ」
「千紘、俺っ……」
「俺、仕事頑張りたいって言ったよね? 別に樹月のこと嫌いで仕事詰め込んでたわけじゃないし。この世界でトップになりたかったんだよ。樹月には理解してほしかったけど、無理だった。だから別れたんだけど、俺の仕事の邪魔するほど俺のこと憎くなった?」
千紘はわざとそんな言い方をする。樹月が未だに千紘に好意を寄せているのはわかっている。未練による嫌がらせだということも。
しかし、頭ごなしに怒ることは樹月のメンタル上、逆効果だということも理解していた。
「違うよ! そうじゃない! 俺……」
電話の向こうで言葉を詰まらせ、喉を鳴らす音が聞こえた。千紘の隣にいた男は居心地悪そうに自分の靴を見つめていた。
「俺の仕事が減っても樹月のところには帰らないよ」
「っ……」
「仮に美容師やめたとしてももうよりは戻さない。俺はね、人の邪魔をする人じゃなくて、頑張ってる人が好きなの。頑張ってる人を認めて応援できる人が好き」
そう言った千紘の頭の中に浮かんだのは凪の顔だった。きっと付き合っていたのが樹月でなく凪だったなら、仕事も応援してくれただろうし、さっき以上に自分のために怒ってくれただろうなと思えた。
「ご、ごめっ……。俺、まだ千紘のこと好きでっ」
「俺はもう好きじゃない。今回のことで更に好きじゃなくなった」
千紘がそう言えば、樹月は黙り込み、隣の男は勢いよく顔を上げた。それから一歩踏み出し「そんな言い方しなくてもいいだろ!? 悪いのは俺だって言ってんだから!」と声を荒らげた。
千紘は尚も冷めた目で彼を見下ろし「話に乗った時点で同罪だって言ったじゃん。俺はね、気を引くために他人を利用するのも、傷付けるのも大嫌いなの。だから嫌いだよ、お前も樹月も」と感情のない声で言った。
千紘は電話に意識を戻し、「そういうことだから今後一切こういうことすんの止めてくれる? 今回は、今入れた予約の人達から謝罪してもらえれば大目に見る。でも、それもないなら証拠持って警察に行く。それか弁護士雇う」とゆっくり話した。
「千紘……」
「これで優しくするのは最後だよ。もう樹月には特別な感情もないし、なんでも許してあげてた時とは違う。俺だけじゃなくて、店にも他の美容師にも迷惑かけた。俺の信用もなくなるかもしれない。正直、もううんざり。二度と関わってほしくない」
千紘は怒鳴ってしまわないよう、少しずつ息を吐きながら言った。これで全てが終息するのであれば、これ以上大事にすることもない。
「ごめっ……千紘……。嫌いにならないで」
電話の向こう側で樹月が泣いているのがわかった。ただ、千紘には同情してやれるほど心の余裕もなかった。
「俺達は合わないよ。お互いに思いやりなんて持てないから。じゃ、予約のキャンセルだけ今日中にしといてね」
千紘はそれだけ言って一方的に電話を切った。それから、動揺する男に向かって「証拠は消さないよ。お前らが仕組んだ予約が全部キャンセルされるまで確認するし、やらないなら本気で法的措置を取るから」と言った。
「わ、わかったよ……」
男はなにか言いたげだったが、樹月の様子が気になるのか、素直に頷いた。千紘はもう一度男を睨み付けると、店内へと戻った。
千紘がいなくなった店内は、いつものような雰囲気に戻っていた。千紘の客はいなくても、他の美容師を指名してくる客はいるのだ。
穏やかな空気を感じて、本来美容院とは前向きな気持ちで来店し、満足して帰っていくものなのに、と千紘は強ばった顔の筋肉を緩めた。
明日からまた頑張ろう。そう思えたのは凪のおかげだった。一気に好感度が上がり、より一層気になる存在になった。
受付で予約表を確認する。既に来月の予約を取ってある大橋凪。担当者に米山の名前があり、本来なら俺が担当するはずだったのに……と思いながらその名前を指でなぞった。