テラーノベル
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nagi.
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李和
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2009年2月
医者から無事許可を貰い、宛もなくただ電車に揺られていると、ある寂れた駅でピアノを見つけた
そのピアノはいつ置かれたのか、そこだけ切り取ると昭和に戻ったかのような空気を出していた
仄暗い一室から一筋の光零れてピアノを照らし出している。
──弾いてみたい
ふとそんな考えがよぎる
もう弾かないと決めたはずだ
その決意はこの腕と首に刻まれている。
だがその足は止まることはない。迷わずピアノへ向かう
半年振りに触れるピアノだ。
思えばあの時、自分がもう弾かないと決めた日から──いやピアノを始めた日から、分かっていたのかもしれない
どれだけ僕が僕自身を傷つけてもこの思いは変わらない。と
ピアノを立て、鍵盤に触れる
何年調律されてないのだろう、音程がめちゃくちゃな音が響く
こりゃあ長居する事になりそうだ
…こんなもんか
ある程度音程を直して達成感に浸る
久々に触ったのにまずやる事が調律だとは
「ふうう…」
長いため息を吐き椅子に座る
妙に椅子が軋み甲高い悲鳴を上げている
深呼吸をする。いつも演奏をする前はしていることだ
鍵盤に手を添える
思い出すな。あの生活を
ずっとただひたすらに、ひたむきに練習していた日々を
そうだ。あの曲がいい
ずっと一緒にいた。あの曲。ラ・カンパネラがいい
ピアノが最初の和音を奏でる
腕が痛む
切り傷が刻まれているこの左腕はもう使えないと医者に言われた。少なくともピアノは弾けない。と
ずっと隠していたこと。心の痛みはすべてここに吐き出していた
どれ程経っても隠せない痛み
指が勝手に動く。
身体に染み付いている楽譜は何も見ずとも弾くことが出来た
僕は僕の演奏が嫌いだった
どこもずれて気持ち悪い音しか出ないのだ
だがそんな演奏を皆は褒める
あれ?でも今聞くと変な音は聞こえない
調律がずれているから完璧とは言えないけど、今までで一番いい音だ
なんで?腕だって鈍ってるはずなのに
だけどいい気分だ。こんなに楽しい演奏はいつぶりだろう
いや、そんな演奏したことなかったかもしれない
──楽しい
ずっとこのままでいたい
何も考えず、ずっとこの幸福感に浸っていたい
ああ、終わってしまう
この楽園が。ぼくの天国が
最後の音を弾き終える
建物の隙間から眩い光が降ってくる
そうして小さな鐘の歌は誰にも知られず終わった
と思ったが
「うわア!スゴイ!」
後ろから興奮したような声が聞こえる
「…え」
振り返るといつからいたのか、独り一人の男が僕に向かって拍手をしていた
「スゴイなあ、感動しちゃった」
それが篝さんと僕との出会いだった
「いやア、でもなんか、スゴイなあ」
数時間どこかの喫茶店で紅茶に砂糖を入れながら話かける
なんで音程もずれて下手な演奏を褒めるのだろう
「いや、そんなこと…」
謙遜ではなく本音を言う
「そんなことあるって!」
「だってキミ、スッゴい楽しそうやったもん!」
また興奮した様子で手を取ってくる
「…零れちゃいますよ」
篝さんが手を振る度に揺れる机を見て言う
「あっ、ホンマや。つい…」
ようやく気づいたようでぱっと手を離す
「感動しただけで喫茶店で奢りますかね…」
ジュースをストローでちまちま吸いながら聞く
「ウン、だって感動したねんで?しかも年下の子やで?」
また手を握られそうになったので反射的に手を退ける
「そんなに歳は変わらないでしょ…」
呆れたように放つ
「ええ、僕23やで?」
しゅん、と効果音が聞こえるほど肩を落としていじける
この人はなんなんだ…
最初に感じた疑問をまた浮かべつつ自分のコップを寄せる
「ほぼ同じでしょ。4つしか変わらないのに」
「4年は結構違……え?キミ19?」
砂糖を混ぜる手を止めて聞く。
というかこの人はいつまで混ぜてるんだ
「まあ、はい。」
遠慮がちに答えると僕の対面にいるこの変人はわなわな震えだす
「16くらいやと思ってた」
何がそんなに怖いのか…
「うん。キミやっぱそやな。巻き込まへんって決めてたけど、まあいいや」
なにやら意味の分からないことを呟いて一人で勝手に頷く
「キミは、今から天国の花園の一員や!」
「は?」
2026年11月7日
なんとなくテレビをつけた。
今は11時だし特に見たいものも無いが音を入れておかないと気が狂いそうだった
『きょうの記者会見で──』
アナウンサーの声が聞こえる
これが一番いい。何も考えずに何かを感じていられる
こんな暮らし方をするようになってどのくらい経っただろう
5年以上はなにもしていなかった気がする
いや、10年?
幸いあの頃のカネはいくらでも残っていた
そのお陰で普通に暮らせている。大家さんには迷惑を掛けるがそれが一番いい生活だった
冷蔵庫を開け缶ビールを取り出す。酒は好きじゃないが毎晩呑んでいる
栄光ある鐘の音はもうとっくの昔に鳴りやんだ
そもそも鳴ってすらいなかったかもしれない
そのことに気づいたときにはもう遅かった
大切なもの、目の前の命は僕が知らない間に失われていた
あのピアノも、篝さんとの日々も、僕と仲良くしてくれた仲間も
『続いてのニュースです』
これ以上考えるのが嫌になってテレビの音量を上げる
『十年前の連続殺人事件の犯人、篝秀一の死刑がきょう執行されました』
『死刑が執行されるのは──』
聞き間違いだと思った。
だが現実はそうもいかないようだ
…また独りか
声に出したのか分からないほど小さな本音は誰にも届くことはなかった
この物語はすべてフィクションです。実際の人物、団体、事件とは一切関係ありません
コメント
6件
うわぁぁ……明日香さん……遺された側のこと考えるとそうなるよなって……もはや無事に生きていればそれで…… やっぱり何事でも自分が楽しめるのが一番いいよなって思います
元吹奏楽部としては耳が痛い話でしたね
いやあ、もう読み終わったあとしばらく動けなかったよ……。廃駅のピアノ、あの音程の狂ったラ・カンパネラを「今までで一番いい音だ」って思えた瞬間がね、すごく胸にきた。医者に左腕はもう使えないって言われても指が勝手に動くって描写も、体が覚えてる感覚がリアルで。で、あの幸福感の後に待ってる2026年の展開。テレビから篝さんの名前が出てきたときの衝撃ったらなかったよ。「また独りか」の一行に、あの10年以上の空白が全部詰まってる感じがして切なくなりすぎた……