東京の夜は、イ・スンホにとっていつも同じ色をしている。
ワンルームの部屋にはカーテンがない。
アパートの隣のビルのネオンが、壁に青く滲んでいる。
テーブルの上には、溜まったコンビニのレシートと、開けかけの請求書。
22歳の韓国人――イ・スンホ。
小さな部屋の片隅で膝を抱え、スマホの画面を見つめている。
そこには「支払い督促」の文字。
(……あと、三日……)
小さくつぶやいた自分の声は、壁に吸い込まれていく。
どこで間違ったんだろう――
何を間違えたんだろう――
思考はすぐに止まる。
考えたって金は湧いてこない。
スマホの中には、バイトの募集と、怪しいメッセージが混じっている。
指先が画面を滑るたびに、何かを決めそうになる。
でも決められない。
スンホは溜息を吐き、コンビニで買った缶チューハイを開けた。
喉に落ちていく冷たさだけが、少しだけ現実を遠ざけてくれる。
明日が来なければいいのに、と。
ぼんやり思った。
午前3時。
スンホは、スマホを両手で持ったまま動けなくなっていた。
画面には、ある掲示板のスレッド。
『金に困ってるやついるか?』
誰かが建てたスレッドには、くだらない煽りや嘘ばかりが並んでいた。
けれど、ひとつだけ異質なコメントがあった。
『本気で必要なら、今すぐ連絡して。こっちも人を選ぶから。』
IDは匿名。
でも文体には、変な真実味があった。
スンホは、何度も入力画面と削除を繰り返してから、ようやくメッセージを送った。
『お金が必要です。条件はなんでもいいです。』
送信ボタンを押した瞬間、手が震えた。
けれど――
数十秒もしないうちに返信が来た。
『今どこにいる?会って話そう。今夜でもいい?』
スンホは、喉の奥に生ぬるい何かがこみ上げてくるのを感じた。
(ほんとに送っちゃった……)
でも、もう戻れない。
少なくとも、借金取りの声よりはマシに思えた。
「……行くしか、ないか。」
独り言のようにつぶやいて、スンホは上着を羽織った。
スンホは駅前のファストフード店の端の席に座っていた。
照明の下でスマホの画面を見つめていると、足元の床の冷たさが足先から体を這い上がってくる。
「……イ・スンホさん?」
低い声が耳元に落ちてきた。
振り向くと、黒いキャップを深くかぶった男が立っていた。
スーツではない。
けれど何か、空気が普通じゃない。
スンホは声が出せずに、小さく頷いた。
「……どうしてそんなに金がいるの?」
男はコーヒーを置くと、真正面から覗き込む。
「……詐欺に、あったんです。」
スンホの声は震えていた。
「チャーター詐欺……船を借りる仕事だって……友達に、誘われて……保証金を……」
男の目が、笑っているのか読めなかった。
「保証金払ったら、持ち逃げされたってこと?」
スンホは俯いて、首を縦に振った。
「……俺、家族にも言えなくて。逃げてきたんです……でも、もう……」
男の手がテーブルの下で、スンホの震える手に触れた。
「そうか。」
声は優しかったが、スンホの背中に冷たい汗が伝った。
「……じゃあ、代わりに“何でも”できる?」
スンホは息を呑んだ。