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注意
この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読まれる際はご自身の心の状態にご配慮ください
月の光が静かに大地を照らしていた。
風ひとつない夜、森はまるで時間を忘れたかのように静まり返っていた。
その静寂はただの静けさではない。因果の流れが絡まり、未来と過去の狭間で揺れているような、重くも澄んだ空気が漂っていた。
ここは『月見の森』と呼ばれる聖域。
かつて、人と妖精が手を取り合って生きていた時代があり、その記憶を今もかすかに残している場所だ。
森には因果の流れを調律する女王が住まい、そしてその娘――桜月(おうづき)イロハが、誰より静かに、慎ましく日々を過ごしていた。
イロハは生まれた時から感情をあまり表に出さない少女だった。
まるで影のように、音もなく現れ、音もなく去っていく。
けれどその沈黙は、冷たさとは無縁だった。
彼女のまなざしは、どこか遠くの空を見つめているような、透明な優しさを湛えていた。
静かで、やわらかくて、触れれば壊れてしまいそうで。
けれど確かにそこに灯っている小さな火のような存在だった。
森の空は、ほんの少しだけ歪み始めていた。
小さな生き物たちが姿を消し、空気に微かな軋みが混じり始めた。
木々のささやきもどこか苦しげで、夜空に浮かぶ月でさえ、どこか翳って見えた。
「世界が……壊れ始めている……」
それは女王の呟きだった。
森の奥、揺れる水鏡の前で、彼女は小さく、しかし確かにそう言った。
その声には、悲しみも、怒りもなかった。ただ静かで、受け入れるような響きだった。
空が裂け、大地が呻き、魂たちが行き場を失って彷徨い始めている。
因果の糸はもつれ、世界は少しずつ、確実に崩れていた。
女王は未来を見た。避けられない崩壊。その先に訪れるのは、終焉という名の“静寂”。
この世界の命運を救う手立ては、もうただひとつしかなかった。
――己の命を代価に、希望の剣を創り出すこと。
「イロハ」
母の声に、イロハは部屋の影から静かに現れる、
女王の姿はどこまでも穏やかで、しかしその眼差しは凛としていた。
「この森も、もう長くは持たないでしょう。だから私は、この命と引き換えに剣を創る。世界の乱れを断ち切り、魂を導く、唯一の力を。」
そう言って女王は、静かに手を差し伸べる。
彼女の掌には、一振りの細身の剣が宿っていた。
青白く光るその刃は、まるで月の涙で鍛えられたかのように、美しく、静かだった。
「鎮魂剣・月煌(げっこう)……それは、静寂の末に生まれた刃。全ての因果を断ち、魂を救うための剣よ」
イロハはその剣を受け取ると、そっと抱きしめた。
冷たいはずの刃が、不思議とあたたかく感じられた。まるで母のぬくもりが残っているかのように。
「イロハ。あなたは“静寂を継ぐ者”……けれど、もしかしたら、“運命を断つ者”なのかもしれない。
私はそれでも、あなたに託したい。未来を。魂の行き場を。そして、あなた自身の選択を。」
その言葉に、イロハは静かに頷いた。
涙は流さなかった。ただ、その胸に灯ったものを、誰よりも強く受け止めた。
それが別れの夜だった。
女王は微笑みながら、光の粒となってイロハの手の中に溶けていった。
「ありがとう、イロハ……私の、誇り……」
それが、最後の言葉だった。
けれどその光はどこか儚く、すべてが少し色褪せて見えた。
イロハは森の入口に立ち、振り返らずに歩き出した。
誰にも別れを告げず、ただ静かに、ただ真っ直ぐに。
その背中には、ひと振りの剣と、母の想いと、まだ見ぬ世界が宿っていた。
――それは永遠の旅の始まりだった。
魂を救済し、因果の乱れを断ち切り、世界に“静寂”を取り戻すための旅。
まだ誰も知らない物語が、今ここから始まろうとしていた。
第一の月夜「歪みの街 ハクシラ」へ続く