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注意
この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読まれる際はご自身の心の状態にご配慮ください
ーー現代。
遠くでサイレンが鳴っていた。
騒がしいはずなのに、どこかぼんやりとしたその音は、夜の街をすり抜けていく。
ここはハクシラ市。
高層ビルと人工の灯で溢れたこの都市では、最近、死が重なる不可解な事故が相次いでいた。
人々は、それをただの偶然だと片付けた。
だが、桜月(おうづき)イロハだけは感じ取っていた。
ーーこの街に、因果の歪みがあると。
イロハは静かに夜の街へ降り立つ。
風もなく、喧騒もなく、ただアスファルトを踏む足音だけが響く。
まるで、時間の流れすら、彼女の周囲では少し遅れているかのようだった。
誰も気づかない。
ーーだが、一人だけ。
「……誰か、来た?」
ビルの屋上で独り佇む少年が、ふと顔を上げる。
篠塚レン、17歳。
彼は一ヶ月前、妹を原因不明の事故で失っていた。
そして今も、喪失の記憶に囚われ続けている。
だが、それがただの悲しみではないことを、彼自身が誰よりもわかっていた。
その時、空が歪んだ。
ビルの隙間、闇の裂け目から、形を持たぬ何かが這い出てくる。
黒く、のたうち、見る者の記憶を狂わせるそれは、虚霊。
そしてそれは、レンに喰らいついた。
ーー『お兄ちゃん……』
亡くなったはずの妹、ミヨの声が、脳内に直接響く。
「……お前、ミヨを……!」
レンの視界が揺れ、虚霊がうねり、闇が彼を呑み込もうとした。
その瞬間だった。
ーーシュン。
空間が凍りついた。
音が消え、世界のすべてが一瞬、静寂に包まれる。
黒き影は、振り返る暇もなく断ち切られていた。
光でも炎でもない、静けさだけがそこに残る。
銀白の剣が、闇を貫いていた。
その剣の名は、
ーー『鎮魂剣・月煌(ちんこんけん・げっこう)』
「…あなたの因果、ここで終わりです。」
静かな声だった。
水面に一粒の雫が落ちるように、淡く、澄んだ響き。
少女がそこに立っていた。
月光を背負い、白銀の髪が無風の夜に微かに揺れていた。
その瞳には、深い静けさと、どこか人を許すような優しさが宿っていた。
ーー桜月イロハ。
レンはただ立ち尽くしていた。
何が起きたのか理解できず、声すら出ない。
だが、イロハはそんな彼に、わずかに微笑んだ。
「……あなたの魂、眠るにはまだ早すぎます。」
その言葉に、レンの胸に張り詰めていた何かがほどけていくのを感じた。
死と、悲しみと、世界の歪み。
そのすべてに、静かに立ち向かう者がいる。
そう、彼の魂が告げていた。
夜が明けようとしていた。ハクシラの街はようやく一息ついたように沈黙していた。
レンは、まだ立っていた。虚霊がいた場所には、何も残されていない。ただ空間が、あたかも何かを見下ろし微笑むように、静かに歪んでいた。
「……夢、じゃないよな。」
自分の胸に手を当てる。鼓動は速く、震えている。恐怖か、驚きか、それとも何か別のものか。わからなかった。ただ、あの少女が、頭から離れない。
振り返ると、彼女はまだそこにいた。
まるで風のように、音もなく、ただ佇んでいる。白い髪に夜明けの光が淡く差し込み、その姿は現実離れした美しさがあった。
「君……は、誰なんだ?」
レンの問いに、イロハはわずかに首をかしげた。
「私は、桜月イロハ。あなたの世界に属する者ではありません。あなたは?」
淡々と、しかし確かな言葉だった。人の温度を持たぬその声は、どこか優しさを含んでいた。
「俺は篠塚レン…あの…さっきの倒したのも……」
「ええ、あなたの傍に集まった死は、偶然ではありません。因果が乱れた時、世界はその歪みに応じて影を差し向けてくるんです。」
レンの目が揺れる。
「……ミヨも?」
イロハは少しだけ視線を落とし、静かに頷いた。
「…あなたの妹、ミヨさんの魂は、まだ完全には消えていません。けれど、今のままでは……過去を喰われ、記憶さえも歪められてしまう。」
「……記憶まで?」
「虚霊は忘れさせることで、運命を塗り替えます。真実を失わせれば、魂は行き場を失い、永遠に彷徨う。」
レンは拳を握りしめた。
「ミヨだけは……最後まで俺の味方でいてくれたんだ…!なのに…俺は……ミヨのために、何もできなかったどころか、全部失いかけてたってことか……!」
怒りとも悔しさが混じった声。だがその激情を前にしても、イロハの表情は変わらなかった。ただ、彼女は一歩だけレンに近づき、囁くように言った。
「まだ間に合います。」
その声は不思議と温かく、レンの心に染み込んだ。絶望の底にいたはずなのに、その言葉一つで、微かに希望の光が射す。
「……君は、どうしてそこまでしてくれるんだ?」
「私は、『静寂を継ぐ者』魂を乱す因果を断ち、全てを安らぎへと還すこと。それが、私の在り方ですから。」
そして、イロハは初めてレンの目を正面から見た。
「あなたにはまだ、果たすべき因果があります。」
その視線に、レンは息をのんだ。まるでその瞳の奥に、自分の未来が映されているようだった。
やがて、イロハは空を見上げる。夜が完全に明け、太陽が雲の隙間から顔を覗かせた。
「虚霊はまだ、この街にいます。そして……その根は、もっと深く、もっと古いところにあります。」
「だったら、俺も……一緒に行かせてくれ。この世界で何が起きているのか、自分の目で確かめたい…。」
レンの言葉に、イロハは少しの沈黙ののち、ふわりと微笑んだ。
「ええ。あなたが望むなら。」
それは、イロハが初めて見せた確かな感情だった。
レンは、今ようやく理解した。
この少女は、決して冷たいのではない。ただ、誰よりも静かに、深く、世界を想っているのだと。
そしてその日、レンの中で何かが確かに目覚めた。
痛みと喪失の中で、それでも抗いたいという意思が芽吹いたのを、彼自身がはっきりと感じた。
まだ、過去に囚われている。
けれど――その因果を断ち切るために、歩き始めることはできる。
燦々と輝く太陽が、二人の背を照らしていた。
第二章「因果に囚われし者たち」へ続くーー。