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注意
この物語にはキャラクターの死や心情の揺らぎを含む描写があります。読まれる際はご自身の心の状態にご配慮ください
誰にだって、大切な人がいる。
その大切な人は、家族かもしれない。恋人かもしれない。友達かもしれない。あるいは、追いかけるアイドル――形は人それぞれだ。
でも、どんな大切な人にも、共通することがある。
――それは、いつか必ず、大切な人を失う日が来る、ということ。
誰にとっても、時間には限りがある。
みんな知っているようで、知らない。
実際に経験して初めて、心で理解する。
俺は、知っていた。
一度、父さんが死んで――痛いほど、経験していた。
でも、それでもまだ、分かっていなかったみたいだ。
まだ、慣れない。
マンションの六階のベランダで、街の高層ビルや、遠くに点々と光る車のライトを、胸の奥に渦巻く寂しさと共に眺めていた。空は真っ黒。その闇を照らすように月がぽつんと、浮いて輝いている。
春風が、俺の黒髪と頬を優しく撫でて、やがて見えないどこかへ走り去っていく。まるで俺を、励ますように。
ため息ひとつこぼして、ベランダに体重をあずける。春風に励まされても、今の俺は変われそうにない。
唯一の大切な妹、ミヨが死んでしまったのだから。俺の目の前で。
黒い何かが現れて、ミヨをそのまま連れ去った。――そして、戻ることはなかった。
その何かは、現実に存在していいものだとは到底思えない。
警察は、事故として片付けた。
でも俺は信じない。
だって俺は見たのだから、非現実的なものに連れてかれる妹を。あれは事故とは考えにくい。
“お兄ちゃんーー!”
元気よく笑う声が、走馬灯のように頭の中で繰り返す。
その小さな記憶が、より一層俺の精神を削る。
もう、二度と会えない。
もし、あの時守れていたら、今も隣で笑っているだろうか。
俺はいつもこうなのか。
俺の近所では、事故や事件がよく起きている。
一週間前には殺人事件が起き、小さな子供と、その子供の母親らしき女性が、永遠の眠りについてしまった。
警察は殺人事件として調査するも、現場となった家に凶器となった刃物もなく、犯人の指紋もなかったらしい。
ただ分かるのは、死ぬ間際まで「生きたい」と足掻いた跡があることだけだ。
これはメディアの情報で、どこまでが本当かは分からない。
二日前には車が家に突っ込むという、不可解な事故も起きた。運転手はそのまま息を引き取ったらしい。
胸の奥が、ずっとざわついている。
目に見えない何かが、この街を覆っている――そう、感じていた。
「……俺は、何もできないのか」
拳を握り締めても、答えは出ない。答えは、いつも出ない。
そんな時、歩道に、一人の影が映った。
俺と同じくらいの歳、あるいは少し年下の少女。
透明人間のように、この世界のどこにも染まらない空気をまとっていた。
暗い夜に際立つ長い白髪。両脇で紐状のリボンが揺れている。
桃色の上衣に紺のスカート。袴のようにも見えるその装いの上から、真っ白な羽織をさらりと羽織っていた。
足元は黒いタイツに茶色い革ブーツ。歩くたび、スカートの裾がふわりと揺れる。
「……誰だ?」
ただ歩いているだけの少女に、何故こんなにも目を奪われるのか。
ここから見ても、彼女は別物の空気を漂わせていた。どこか――懐かしさすらある。
少女はふと立ち止まり、夜空の月を見上げた。月光に照らされた横顔が、淡く浮かぶ。
胸の奥が不意にざわつく。まるで、どこかでその姿を見たことがあるような既視感が、胸を刺した。
次の瞬間、視線がこちらへ向いた。遠距離でもわかる、月光を映したその瞳に、俺は息を呑んだ。
世界の音が消え、夜風の音まで遠ざかったように思える。月の下、ただ彼女と俺だけが残された錯覚。
――その時から、俺の運命は動き出したのだと、今なら分かる。
「君は、誰だ?」
心の中で問いかける。答えは返ってこない。そもそも声に出してはいないのだから、当然だ。
少女はそのまま歩き出したが、俺は目を離せなかった。特別な何か、そして説明のつかない既視感が、胸に居座っている。
その瞬間、地面を震わせるほどの低い唸り声が、街を貫いた。地響きのように――巨大な咆哮が、空気を引き裂く。
鼓膜が張り裂けそうな衝撃が俺を襲う。
「っ……!何だ、これ……!」
空が歪み、世界の輪郭が震える。闇の中から──どこからともなく、黒い塊が舞い上がってきた。
人の形はなく、なにかとしか言いようのない、得体の知れない物体が、マンションの方へ向かってくる。
その黒いものに対しても、妙な既視感と、悲しさを覚えた。
だが、そんな感覚に浸っている暇では無いことも、わかっていた。
その物体は、真っ直ぐ俺のいるベランダへ迫ってくる。
ちょ、ちょっと待て。なんで、こっちに!?
恐怖に突き動かされ、思わず手すりから飛び退く。けれど、もう遅い。
黒い影は、ぎゃあああ……と耳を裂くような声を漏らしながら、俺の眼前まで迫った。
ほんの一瞬、視線が重なる。
黒い瞳。どこまでも黒い。底なしの奈落、全てを呑み込むブラックホールのよう。
「まっ……!来るなッ!」
慌てて二歩、三歩と後退する。
その時、踵が自分の足に引っかかった。
「うわっ――!」
重心を崩し、背中から転倒。
頭が窓ガラスに打ち付けられ、鈍い衝撃が響く。ジンジンと脈打つ痛み。
だが、それすらも霞むほどに――目の前の“黒”への恐怖が、全身を支配していた。
黒い影は音もなく迫り、気づけば腕が、脚が、動かない。
まるで見えない糸で操られているみたいに、俺の身体は硬直していく。
「なっ……!? 動かねぇ……!」
心臓が荒く打ち、汗が背筋を伝う。必死に抵抗しようとするのに、手足は自分のものじゃないみたいだ。
そのまま、黒い影は俺の体を掴み、ゆっくりと――ベランダの外へと押し出していく。
マンションの六階。眼下に広がる街の闇と、遠ざかる地面。
足が宙に浮き、重力が背中を引っ張った。
「やめろッ!」
声は震えて、情けないほど掠れていた。
必死に叫んでも、黒い影の瞳はただの“虚”で、何も映してはいなかった。
落ちる――その瞬間。
真横を、鋭く光る刃が駆け抜けた。
夜風を裂く鋭い音とともに、銀色の光が闇を切り裂く。
視界に飛び込んだのは――白い羽織を翻す少女の姿。
月光に照らされ、剣が眩く輝き、黒い影を閃光が斬り裂いた。
「……!」
その一瞬で、黒い虚の動きが止まる。まるで光に怯えるかのように、粒子となって消えていく。
宙に浮いた俺の身体は、ようやく自由を取り戻した――が、勢い余って真下に落下し始める。
「いっ……! 嫌ッ!」
叫びながら吸い込まれるように落ちる俺。だが、首元に強く掴まれ、動きがピタリと止まった。
そして、乱暴にベランダへ放り投げられる。
「え!? ちょ……!」
死なずには済んだが、勢いよく床にダイブ。文字通り、顔面から着地。
「……いっだぁ……!」
痛みで涙が出そうになる。顔面からダイブなんて、人生で経験したこともない。
俺は、必死で頭を持ち上げる。痛みに囚われているせいか、いつもの何倍も頭が重い気がした。
ゆっくり、目を開ける。
そこで映ったのは――
長い髪に白い羽織を翻す少女の横顔。手には光を反射する剣が握られていた。
黒い柄に黒い鍔。刃は光の当たり方で色を変え、桜のような彫刻が細かく刻まれている。
その一振りから、放たれる威圧と静けさ。これが、剣――そして、彼女なのだ。
身体を起こし、まだ震える手で頭を押さえながら、俺は息を整えようとする。
目の前には、白い羽織を翻す少女――。
剣を握るその姿は、まるで月光からそのまま降り立ったかのようで、今ここにいることが信じられなかった。
視界に映るのは、黒い虚が消えた空間――ただ、静寂だけが残っている。
「……俺、助かったのか?」
声に出さなくても、答えは明白だ。黒い影はいない。
落ちていく恐怖は、少しだけ薄れた。
それでも、目は自然と彼女に釘付けになる。
剣から放たれる光が夜を裂き、冷たくも温かい圧が胸を満たす。
まるで――「今、あなたを守った」という宣言のようだ。
俺はただ、息を呑んで立ち尽くす。
言葉は出ない――いや、出せない。
それでも心の奥底で分かっていた。――これが、ただの少女ではないと。
やがて少女はゆっくりと手を動かし、剣を腰の鞘にカチンと収めた。
その仕草ひとつに、揺るがぬ覚悟と静かな力を感じる。
淡く、透き通る声で言った。
「……あなたは、消えるにはまだ早すぎます。」
その一言で、胸に張り詰めていた何かがふっとほどける。
目の前に、すべてを知り、立ち向かう者がいる。確証はない。だが、そう思えた。
「……君、名前は?」
うるさい心臓の鼓動を誤魔化すように、俺は尋ねる。
彼女はひらりと髪を揺らし、こちらを向いて手を差し伸べた。
「……桜月(おうづき)イロハ。お母様の想いを継いだ、“静寂を継ぐ者”――あなたは?」
正面から見ると、先ほどの横顔の印象とは少し違う。
横顔では凛として見えたが、正面はどこか幼さの残る顔立ちだ。
俺は手を伸ばし、彼女の手を取って立ち上がる。
「篠塚レンだ。」
「……怪我は?」
「顔がちょっと痛いけど、まあ大丈夫。で、あの――」
一呼吸置いて、なるべく冷静に訊いた。
「どうやってここまで来たんだ? さっきまで歩道にいたはずだろ?」
彼女は表情を崩さず、当然のように答える。
「跳躍すれば六階なんて簡単に行けますよ。私はそういう生き物ですから。」
「……ふん、なるほど」
頭はまだ追いついていない。だが、もう一つ訊きたいことがあった。
「で、さっきのやつを斬ったのも――?」
「はい、私です。」
即答。迷いのない声音で、“役目”をこなしただけ、とでもいう口ぶりだった。
胸の奥がまたざわつく。安心でも恐怖でもない、形容しがたい感情だ。
「それは、何だったんだ?」
「“虚霊”と呼ばれる存在です。あなたのそばに集まった死は偶然ではありません。因果が乱れると、世界はその歪みに応じて影を差し向けます。」
一度見てしまった者として、俺は不思議とその説明を受け入れてしまう自分に気づく。手が震え、胸にぽっかり穴が空いたようだ。
イロハは視線を夜の闇に落とし、淡々と告げた。
「虚霊は、死に囚われた者の影。放っておけば、あなたも呑まれていました。」
「じゃあ……俺の妹も、あれに?」
言葉が喉から漏れる。イロハは目を細めるだけで、慰めはしない。
「可能性は高いでしょう。」
胸が重くなる。それでも、口が勝手に動いた。
「なぁ……もっと知りたいんだ。この世界のことを。君のことも。」
彼女はわずかに眉を寄せる。
「あなたには関係のない話です。忘れてください。」
「忘れられるわけないだろ!」
思わず声を荒げると、イロハの目がわずかに揺れる。
「もし妹が──死の原因に虚霊が関わっているなら、俺は知りたいんだ。」
沈黙の後、イロハは小さく息を吐いた。
「……そんなに望むなら、いいですよ。」
彼女はほんのわずか口角を上げ、綻びを見せた。
「……少し、興味があります。自ら危険な目に逢いに行く人は。」
「……いいの?」
「はい。だって、それを望んでいるのでしょう?望みを叶えるのも、私の役目のひとつ。」
イロハはベランダの手すりに腰掛けて、足をぶらぶらと揺らした。
ですが、今日はもう遅いです。
……あなたも、眠りなさい。続きは、明日から。」
イロハはベランダの手すりに腰掛けたまま、柔らかく微笑んだ。月明かりがその頬を淡く照らし、ささやかな温もりが夜に溶けるようだった。
「……いいのか?」
「いいですよ。約束ですから。」
そう言うと、彼女はするりと立ち上がり、羽織の裾をそっと整えた。風に白い布がふわりと翻る。
一瞬だけ視線が合う。何かが胸の奥で震えた。
そして、イロハはそっと、撫でるように手すりに触れ、もう一度そこに座った。
「会う場所は、白鷺公園にしておきましょう。いつでも待っています。」
そして、飛び降りる。
否、降りるというよりも、夜の空気に溶けるように、ふわりと身を任せる——そんな動きだった。
風が彼女を包み、白い羽織がそよぎ、月光に溶けた一筋の影がビルの合間へと消えていく。
「また、明日。」
その声だけが、夜に残った。
ベランダに立ち尽くす俺は、まだ信じられない気持ちを抱えたまま、ただその場にいた。
空には、わずかに揺れる白い布の残り香だけが残っていた。
――これで、始まるのだと、どこかで確信した。
第二の月夜「因果に囚われし者たち」へ続く