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しばらく無音の森を進んでいると、背後の獣道から微かな、しかし確かな足音が追いついてきた。ソラスが反射的に足を止めて振り返る。木漏れ日の中に立っていたのは、赤毛の女戦士――ユスティナだった。
軽装の鎧には泥や激しく擦れた剣の痕が刻まれ、緑の外套の裾は引き裂かれている。ラヴィニアとの死闘の激しさを物語る傷跡だった。だが、彼女の獣のような低い重心と、芯の通った姿勢は微塵も崩れていない。荒い息を整えながら、濁りのない瞳で真っ直ぐにソラスを見据えていた。
「追手ではない。安心しろ」
敵意のない、低く落ち着いた声。ソラスは驚きに空色の目を丸くした。
「……え? ユスティナ……」
ユスティナは数歩だけ距離を詰め、それ以上は決して近づこうとはしなかった。相手に威圧感を与えないための、彼女なりの配慮だった。
「誰かに命じられたわけではない」
短く息を吐きつつ、彼女は静かに言った。
「私が、そうしたいと思った。ただそれだけだ」
その飾り気のない言い方は、誰かに仕える者としてではなく、戦場を生き抜いてきた一人の人間としての純粋な意志の表れだった。ユスティナの鋭い視線が、ソラスの肩口へと落ちる。べったりと赤黒い血の跡がこびりついた外套を見て、彼女の整った眉がわずかに痛ましげに寄った。
「あの時は、お前をその場から逃がすことだけで精一杯だった……応急処置も碌にできず、申し訳なかった」
それは、泥水を啜って生き抜いてきた誇り高き戦士からの、ひどく真摯な謝罪だった。ソラスは柔らかく首を横に振る。
「いえ、それどころか……危ないところを助けて頂き、本当にありがとうございます。傷はもう、自分で治しましたから」
「……そうだろうな」
ユスティナは小さく頷いた。
「あの凄まじい魔力と、異様な回復速度を見れば、想像はつくよ」
その言葉に、化け物を恐れるような響きや、悪意のある皮肉は一切含まれていない。ただ目の前にある事実を、そのまま受け入れているだけだった。
一瞬の穏やかな沈黙が下りる。森の奥深くから、秋の冷たい風が二人の間を吹き抜けていった。
「北の尾根だな」
ユスティナが静寂を破るように言う。
「アルベルトから聞いた。隠れられる場所までは、私がついていく」
ほんの少しだけ迷うように長い睫毛を伏せ――やがて、ソラスは静かに頷いた。
「……感謝しても、し切れません」
ユスティナはそれ以上何も言わず、無言のまま、ソラスの半歩斜め後ろの位置へとついた。そこは、いかなる死角からの奇襲であっても即座に刃を弾き返せる、完璧な守護の位置だった。二人はあえて横には並ばず、その一定の前後の距離を保ったまま、北の尾根へ向かって歩き出す。静まり返った森は、傷ついた少女と戦士の足取りを優しく受け入れていた。
■
しばらくの間、言葉は交わされず、二人の静かな足音と、湿った腐葉土を踏みしめる音だけが薄暗い森に響き続けていた。
半歩後ろを歩くユスティナの鋭い視線は、絶えず周囲の木立の隙間や頭上の枝葉を巡っている。いくら森がソラスの意志に同調し、追手を阻んでいるとはいえ、長年の死線で魂の底まで染みついた戦士としての警戒が、そう容易に消え去ることはない。やがて、ソラスが歩調を崩さないまま、前を向いてぽつりと口を開いた。
「……フラスニイルさんは、どうなりましたか」
ユスティナの靴底が僅かに強く土を踏みしめる。その短い問いの奥にある、押し殺した不安と切実な祈りの意味を、彼女は痛いほど理解していた。
「あの人は――今も剣聖ジークと斬り結んでいるはずだ」
ユスティナは視線を周囲の警戒に据えたまま、低く、落ち着いた声で答える。
「どうなったかは、私にも分からん。あの神域の死闘は、もはや誰もが推測できる範疇を超えている」
落ち葉を踏む、数歩分の間が空く。次に紡がれた彼女の声に、一切の迷いや悲観は混じっていなかった。
「だが――あの方なら、絶対に大丈夫だろう」
それは単なる気休めの願望ではない。かつて共に血塗られた戦場を駆け抜け、その無骨で決して折れない背中を誰よりも近くで見てきた経験から来る、揺るぎない確信の響きだった。ソラスの華奢な肩から、目に見えない強固な緊張がふわりと抜けるのが分かった。
「……そう……ですよね」
小さく、心からの安堵の息が秋の冷たい大気へと溶けていく。再び森に穏やかな沈黙が落ちた。
北の尾根へ向かうにつれ、足元の傾斜が緩やかに、だが確実にきつくなっていく。息が上がりやすくなる獣道で、やがてソラスは前を見据えたまま口を開いた。
「ユスティナ」
「何だ」
「なぜ、あなたはここまで私を助けてくれるんですか」
険しい歩みは止まらない。けれど、その静かな問いだけが、森の澄んだ空気をわずかに震わせた。王国に刃向かい、白耀剣の副官と死闘を演じ、命の危険を冒してまで異端の魔女として追われる自分を護衛する理由。それは相手を責めるでも、下心があるのかと疑うでもない。ただ純粋な、理由を知りたがる迷い子の声だった。
ユスティナはすぐに答えなかった。ザク、ザクと、枯れ葉を踏み砕く音だけが数歩分、森の奥へと吸い込まれていく。やがて彼女の口から、ひどく重く、細い息が吐き出された。
「……お前を見ていると」
視線は前方の昏い木々に向けたまま。かつて泥に塗れ、理不尽に踏みにじられ、それでも何かを守ろうと血を吐きながら必死に足掻いていた、遠い日の亡霊を見るような目で。
「酷い運命に翻弄された人間の、過去を思い出すんだ」
誰に聞かせるでもない独白のように、静かにそう告げる。そしてユスティナは、また長い時間、固く口を閉ざしたまま歩みを進めていた。湿った落ち葉を踏み砕く規則的な音だけが、静謐な森に続く。その重苦しい沈黙は語る言葉を探しているというよりも、自らの奥底に沈めた、忌まわしき過去の蓋を開く覚悟を決めている時間のようであった。
やがて、彼女は溜め込んでいた冷たい空気を細く吐き出した。
「……昔話をしてもいいか」
視線は決してソラスへ向けず、ただ前方の昏い木立を見据えたまま。
「私が、まだ六つの時のことだ」
その時代は、今よりもずっと”魔女狩り”の狂気が世界に蔓延していた。村で不可解な異変が起きれば魔女の仕業。不作が続けば魔女の呪い。子どもが原因不明の熱を出せば、魔女の毒。排斥して殺すための理由は、後からいくらでも尤もらしく捏造された。
「私の母は、薬草の知識にひどく長けた女だった」
村人が怪我をすれば傷薬を塗り、熱を出せば看病し、腹を壊せば嫌な顔一つせずに煎じ薬を作ってやった。母は村人たちから深く感謝され、頼りにされていたはずだった。――狂気の歯車が狂い出すまでは。
ある晩、村の家畜が原因不明の病でまとめて死に絶えた。明確な理由など誰にも分からなかった。しかし、見えない恐怖に駆られた誰かが、こう囁いたのだ。
“薬草をいじり回している、あの女が怪しい”。
たったそれだけ。
その根拠のない一言だけで、母を殺すには十分だった。
「私には親友がいた」
同い年で、太陽のようによく笑う少女だった。母から薬草を分けてもらい、一緒に泥だらけになって遊び、叱られ、いつも私の家の軒先にいた。その小さな親友が、狂乱する大人たちの前に立ち塞がり、母を必死に庇ったのだ。”違う”と、涙声で何度も叫んだ。”おばさんは悪くない! 魔女なんかじゃない”と。
その結果どうなったか。
――母と彼女は、二人まとめて太い麻縄で無惨に縛り上げられた。
ユスティナの網膜には、今もその地獄の光景が焼き付いている。肉に食い込む縄。血走った大人たちの怒号。無慈悲に投げつけられる無数の石。血を吐くような泣き叫ぶ声。そして、誰一人としてその凶行を止めようとしない、傍観者たちの冷たい目。
“魔女だ”という魔法の言葉は、その場にいた全員を、いとも容易く絶対的な正義に変えてしまった。母の命も、親友の命も。あれは法による裁きなどではない。ただの醜くおぞましい私刑だった。
「そして、次は私の番だった」
むせ返るような血の匂いが染み込んだ地面へと、髪を掴まれ、引きずり出された。あの女の娘だから。いつもあの女のそばにいたから。きっとこいつも魔女の類に違いない、と。それは、たった六歳の子供に向けられる目では決してなかった。害獣か、汚物を――処分するものを見る、無機質で濁った狂気。
死を覚悟し、恐怖で目を閉じたその時。よく通る、低く鋭い声が響いた。”やめろ”とたった一言。それだけで、広場を支配していた狂乱の空気が完全に凍りついた。
振り返った先に立っていたのが――若き日のフラスニイルだった。まだ年若い、王国の一介の騎士。着慣れない新しい鎧を身に纏い、その鳶色の目だけが、異様なまでの殺気と怒りを孕んで鋭く光っていた。彼は惨たらしい広場の状況を一目見ただけで、すべてを理解した。村人から根拠の薄い証拠も、くだらない理屈も一切聞こうとはしなかった。ただ黙って、血に狂う大人たちを強引に押しのけ、泥だらけの私を力強く抱き上げたのだ。
“この子は、我々騎士団が保護する”。王国の紋章と、彼の放つ圧倒的な気迫の前に、誰も逆らうことなどできなかった。彼はそのまま、私を抱えて村を出た。
私は一粒の涙も流さなかった。あまりの絶望に、泣き方すら忘れてしまっていたのだ。ただ、冷たい鋼の鎧を、親友と母の血で汚れた小さな両手で、死に物狂いで握りしめていた。
「……後で聞いた話だ」
母も親友も、王国の記録には名前すら残されなかった。名もなき魔女として処理されたからだ。生きて、笑って、誰かを愛した存在そのものが、この世界から初めからなかったことにされた。
ユスティナの声が、悲痛なほど静かに震える。
「フラスニイルは、あの時。私にこう言った」
“この痛みを覚えていろ。疑いだけで人を殺す側に、お前は絶対に回るな”。その言葉は、強者の命令でも叱責でもなかった。彼自身の魂からの、切実な願いだった。
「だから――私は騎士になった」
今度こそ、理不尽から誰かを”守る”側に立つために。だが、騎士になって思い知らされた。疑いだけで弱者を殺す残酷な仕組みは、決して消えてなどいない。姿や形を変え、正義の名で、秩序の名で、国家の名で、今もこの世界に堂々と残り続けているということを。
そこで初めて、ユスティナは立ち止まり、背後のソラスを真っ直ぐに振り返った。その赤い瞳は、嵐が過ぎ去った後のように、ひどく静かで、澄み切っていた。
「泥に塗れたお前を見た瞬間……私は、あの日の六歳の自分と、優しい母親と、勇敢だった親友の姿を、全部いっぺんに思い出したんだ」
だから、と。その声は地を這うように低いが、いかなる強風にも決して揺るがない、鋼の響きを持っていた。
「お前を助ける理由なんて、決して大層な理由じゃない。私はただ……あの血塗られた広場で、ただ一人”助けられた側”の人間だからだ」
明かされた凄惨な過去の告白は、ソラスの胸の奥底で、静かに、だが確かな波紋となって広がる。
六つの子ども。肉に食い込む無情な縄。血走った怒号。無慈悲に投げつけられる石。そして、理不尽に名前すら歴史から消し去られてしまった、優しい母と勇敢な親友。
そのあまりにも重く血生臭い情景が、言葉という形を取るよりも先に、ソラスの魂へと深く沈み込んできた。安っぽい慰めの言葉など、紡げるはずもない。代わりに、少しでも痛みを分かち合うように、ソラスの歩む速度がほんの少し緩んだ。
「……」
やがて、冷え切った空気をそっと溶かすように、ぽつりと声がこぼれ落ちる。
「……フラスニイルさんらしいですね」
それは無責任な慰めでも、上辺だけの同情でもない。不器用で誠実な男の本質を知る者としての、確かな理解の響きであった。ソラスは視線を前方の昏い木立へと向けたまま、静かに目を細める。
「たぶん、あの人は……今、この瞬間も。昔と全く同じことをしてくれているんでしょうね……」
遥か後方で、絶望的な状況にも関わらず剣聖ジークと死に物狂いで斬り結びながら。王国騎士としての重い立場に縛られながら。それでも決して、弱者を理不尽に踏みにじる非道の境界線だけは越えないように、泥に塗れて。
「ユスティナが騎士になった理由も、なんだかとてもよく分かります」
ソラスの血に汚れた唇に、ほんの少しだけ、温かで静かな笑みが浮かんだ。
「……誰かに命を助けられた人は、大抵、自分も誰かを助けようと立ち上がるものですから」
そこで初めて、ソラスは隣を歩く赤毛の女戦士の方へ、真っ直ぐに顔を向けた。澄んだ空色の瞳には、過酷な運命を生き抜き、自らの誓いを決して曲げずに貫き通そうとしている一人の気高き人間に対する、一点の曇りもない敬意が宿っていた。
「忘れられないですよね」
落ち葉が風に舞う音に紛れるほど、小さく、静かな声だった。
「そういう、魂に刻まれた記憶って」
その真っ直ぐな言葉に、ユスティナの喉がわずかに上下に動いた。張り詰めていた彼女の視線がふいっと前方に逸らされ、照れ隠しのように短く、重い息が吐き出される。
「……忘れろ。私としたことが、柄にもなく無駄口を叩き過ぎた」
どこまでもぶっきらぼうに。しかし、その不器用な声の奥底に微かな温もりを滲ませ、ユスティナは言った。