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第八十四話 最後にいた場所
駅を出てから、二人は来た道をゆっくり戻っていた。
彼は何度も、写真と現在の景色を見比べている。
事故の前日。
二人が歩いた道。
そして、その翌日に事故が起きた場所。
「……ここ」
彼が足を止めた。
目の前には、古い歩道橋があった。
以前から何度も近くを通っていたのに、
二人とも気に留めていなかった場所だ。
彼女が写真を確認する。
「写真の端に写ってる」
「うん」
歩道橋の階段。
その横にある古い街灯。
写真とほとんど同じだった。
「ここで何かあった?」
「分からない」
彼は階段を見上げた。
「でも……ここを見ると、胸が苦しくなる」
二人は階段を上った。
上から見ると、事故現場へ続く道路がよく見えた。
彼は手すりに触れる。
その瞬間、記憶が戻ってきた。
――晴れた空。
――隣を歩く誰か。
『明日、ここで待ってる』
『うん』
『絶対来てね』
『分かった』
「……」
彼は目を閉じた。
「ここで約束した」
「何を?」
「明日、会うって」
彼女は写真を見る。
「事故の日に?」
「うん」
けれど、彼はすぐに首を傾げた。
「……違う」
「え?」
「約束した場所は、ここじゃない」
「じゃあ、ここで何を?」
彼はしばらく黙った。
そして、小さく呟く。
「見送ったんだ」
「見送った?」
「俺はここで、あの人と別れた」
雨の記憶ではない。
事故の前日。
晴れた日の記憶だった。
二人で歩いてきて、ここで一度別れた。
『じゃあ、また明日』
『うん』
その「また明日」が、事故の日だった。
彼は手すりを握りしめた。
「……ここが最後だったんだ」
「事故の前に、二人でいた最後の場所?」
「そう」
彼女は何も言わなかった。
すると、彼のポケットの中でスマホが震えた。
知らない番号からだった。
『そこに着いたんだね』
彼は画面を見つめる。
『ここで、あの人と別れた』
送信する。
しばらくして、返事が来た。
『そう』
それだけだった。
「知ってる……」
彼が呟く。
「この人、俺たちのことを本当に知ってる」
彼女も画面を見る。
『じゃあ聞く』
彼は続けて送った。
『俺は、ここで何を渡した?』
既読がつく。
すぐには返事が来ない。
やがて――
『何も』
彼の眉が動いた。
『君は、ここでは何も渡していない』
「……じゃあ」
彼は息を呑む。
『渡そうとしたものは、その後に持っていた』
彼女が顔を上げる。
「チャーム?」
「たぶん」
でも、返事は違った。
『チャームではない』
二人は黙り込む。
すると、彼女が歩道橋の床を見た。
「ねえ」
「ん?」
「これ……」
階段の端に、小さな傷がある。
丸に一本線。
そのすぐ横には、薄く文字が残っていた。
『言えなかったら、残して』
「……残して?」
彼がしゃがみ込む。
傷の下に、さらに小さな文字がある。
けれど、ほとんど消えている。
彼女がスマホのライトを当てた。
「一文字だけ読める」
「何?」
「『す』……かな」
彼はその文字を見つめる。
すると、突然、記憶が浮かんだ。
『言葉にできなかったら、書いて』
『何を?』
『……最後に伝えたいこと』
彼は息を止めた。
「……俺、何かを伝えようとしてた」
「何を?」
「分からない」
でも、その瞬間。
別の記憶が重なった。
雨の中。
誰かが目の前にいる。
その人が、泣きそうな声で言う。
『お願いだから、戻って』
そして自分が答える。
『戻るよ』
「……」
彼はゆっくり目を開けた。
「俺、あの人に約束した」
「何を?」
彼は震える声で答えた。
「必ず戻るって」
その言葉を聞いた瞬間、スマホが震えた。
『思い出したね』
そして、その下に続く。
『でも、まだ一番大事なことは思い出していない』
彼は画面を見つめた。
『君が戻ろうとした先に、その人がいた』
最後の一文。
『そして、君はその人に伝えるはずだった』
彼は息を止める。
「……何を?」
しばらく返事はなかった。
やがて、画面に一行だけ表示された。
『「ありがとう」より先に、言うはずだった言葉』
彼の記憶の奥で、誰かの声が響いた。
今まで何度思い出そうとしても届かなかった言葉。
それが、ほんの少しだけ形になった。
――「ずっと……」
そこで記憶が途切れた。
彼は顔を上げる。
「……あと少しだ」
けれど、その続きだけは――
まだ、思い出せなかった。
コメント
1件
おお、第86話…いや、もうこの回は重すぎてやばかったわ。 写真の端に写ってた街灯とか、階段の傷に刻まれた「す」の一文字とか、細かい手がかりがじわじわ効いてくる構成が上手すぎる。「『ありがとう』より先に、言うはずだった言葉」って…ずるいよな、そこで切るの。俺の中では「ずっと…」の続きがずっとリフレインしてる。 チャームでもなく、「何も渡していない」って答えの意味も気になるし、戻るって約束したのに戻れなかったんだろうなって想像すると胸が苦しくなった。伏線の貼り方と、思い出しかけて途切れるもどかしさのバランスが絶妙すぎる…続き、マジで待ってる🔥