テラーノベル
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森野リリカの髪は、いつも完璧だった。
月曜日も、火曜日も、水曜日も。
雨の日も、湿度八十パーセントの日も、朝から強風が吹いている日も、彼女の栗色の髪はきれいに巻かれていた。
「森野さんって、毎朝何時に起きてるの?」
昼休み、経理の女性が聞いた。
「六時半です」
「その髪で?」
「はい」
「無理無理。私だったら四時半起き」
森野は笑った。
営業企画部の相沢直人は、二つ離れた席からその会話を聞いていた。
確かに不思議ではある。
森野は肩より少し長い髪を、大きめのカールにしている。ふわりと左右に広がった髪は耳を完全に覆っていた。
しかも、会社で森野の耳を見た者はいない。
――なんてことを考えている自分もどうかしている。
相沢はパソコンへ視線を戻した。
森野リリカが中途採用で入社したのは三か月前だった。
二十六歳。
前職は「海外関係の仕事」としか聞いていない。
英語が得意だった。
得意という程度ではない。
先月、アメリカの取引先から電話がかかってきたとき、森野が対応した。
その英語を聞いた帰国子女の社員が、
「発音、どこの地域なんだろう」
と首をひねっていた。
フランス語も話せた。
ドイツ語も少しできるらしい。
さらに先週、海外資料を見ていた部長が冗談で、
「これ、ラテン語だったら森野さんでも無理だろ」
と言ったところ、
「少しなら」
と答えた。
少しなら、って何だ。
普通の会社員はラテン語を少し読めたりしない。
それでも森野は社内で人気があった。
小柄で、目が大きく、よく笑う。
コピー機が詰まれば直してくれるし、誰かが残業していると、
「手伝いましょうか」
と声をかける。
そして、とにかく仕事が速い。
ただし、一つだけ妙な癖があった。
絶対に髪を耳にかけない。
電話をするときも、髪の上から受話器を押し当てる。
食事をするときも同じだ。
風が吹くと、両手で髪を押さえる。
以前、会社の前で突風が吹いたときなど、スカートより髪を押さえていた。
「相沢さん」
突然声をかけられた。
「はい」
顔を上げる。
森野が立っていた。
近くで見ると、やはりかわいい。
「午後の会議資料、これでいいですか?」
「ああ。ありがとう」
資料を受け取る。
その瞬間だった。
森野の髪の隙間から何かが見えた。
肌色の――。
耳?
相沢は一瞬だけ凝視した。
すぐに髪が戻った。
「どうしました?」
「いや」
「何か?」
「なんでもない」
森野が自分の席へ戻っていく。
相沢は首をひねった。
今のは何だったのだろう。
耳にしては、位置がおかしかった。
いや、位置ではない。
形だ。
少し長かった気がする。
午後六時。
ほとんどの社員が帰ったあと、相沢は一人で企画書を直していた。
「お先に失礼します」
「お疲れさま」
森野が帰っていく。
エレベーターの扉が閉まった。
十分ほどして、相沢も会社を出た。
駅へ向かって歩いていると、前方に見覚えのある女性がいた。
森野だった。
ところが彼女は駅へ向かわず、細い路地へ入っていく。
相沢も同じ方向だったので、少し離れて歩いた。
突然、強い風が吹いた。
街路樹が大きく揺れる。
そのときだった。
森野の巻いた髪が大きく持ち上がった。
相沢は立ち止まった。
見えた。
はっきり見えた。
森野の右耳。
長い。
しかも先端が尖っている。
森野が慌てて髪を押さえた。
そして振り返った。
相沢と目が合った。
二人とも動かなかった。
五秒。
十秒。
先に口を開いたのは森野だった。
「……見ました?」
「何を?」
「耳です」
あまりにも直接的だった。
「いや」
「見ましたよね」
「まあ……少し」
森野の顔から血の気が引いた。
「会社には言わないでください」
「言わないけど」
相沢は困った。
「それ、付け耳?」
森野はしばらく黙っていた。
やがて周囲を確認すると、小さな声で言った。
「本物です」
「本物?」
「はい」
「そういう形の耳ってこと?」
「そういう意味ではなくて」
森野はため息をついた。
そして髪を右側だけ持ち上げた。
長く尖った耳が現れた。
どう見ても人間の耳ではない。
「私」
森野は言った。
「エルフなんです」
車が一台、二人の横を通過した。
相沢は何も言えなかった。
森野も黙っている。
遠くで電車の音がした。
「……エルフ?」
「はい」
「森とかにいる?」
「その言い方、ちょっと失礼です」
「ごめん」
反射的に謝った。
「弓とか?」
「使えます」
「使えるんだ」
「でも会社では使いません」
「当たり前だよ」
森野は髪を戻した。
再び、いつものかわいい会社員に戻る。
「お願いがあります」
「何?」
「今日見たこと、全部忘れてください」
「全部?」
「はい」
「無理だと思う」
「そこをなんとか」
「だって同僚がエルフなんだよ」
森野は困った顔をした。
「だから人間は嫌なんです」
その言葉に、相沢は少し引っかかった。
人間は。
まるで自分が人間ではないような言い方だ。
いや。
実際、人間ではないのだ。
「森野さん」
「はい」
「一個だけ聞いていい?」
「一個だけなら」
「二十六歳って本当?」
森野は黙った。
その沈黙で分かった。
「何歳?」
「秘密です」
「三十?」
「違います」
「四十?」
「怒りますよ」
「じゃあ二十六でいい」
森野は少し笑った。
その笑顔を見た瞬間、相沢は思った。
エルフだろうが何だろうが、森野リリカは森野リリカなのだ。
ただし翌朝から、一つだけ困ったことが起きた。
相沢は森野を見るたびに、
――あの髪の下に長い耳がある。
と思ってしまうようになったのである。
そしてもっと困ったことに。
秘密を知ってしまったせいなのか。
それまで単に「かわいい同僚」だった森野のことが、急に気になって仕方なくなった。
その日の午後、社内チャットに森野からメッセージが届いた。
『昨日の件、本当に誰にも言ってませんよね?』
相沢は返信した。
『言ってない』
すぐ返事が来た。
『信用していいですか?』
相沢は少し考えてから、
『信用してください』
と打った。
三十秒後。
『では今日、会社が終わったら少し時間をください。エルフについて説明します』
相沢は画面を見つめた。
どうやら自分の会社員人生は、昨日までとはまったく違うものになったらしい。
二つ離れた席で、森野がこちらを見た。
目が合う。
森野は人差し指を唇に当てた。
秘密。
相沢は小さくうなずいた。
森野の頬が、ほんの少し赤くなった。
コメント
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寺島あおいです🕊️ 第1話、読み終えました……! 「同僚がエルフだった」って、めっちゃ胸躍る設定じゃないですか。しかもリリカさん、かわいいのに仕事できて社内の人気者っていうギャップがもう。髪を絶対にかけないクセとか、風でスカートより髪を押さえるとか、一つひとつの描写に「隠してる」感が滲んでいて、読みながら「ああっ!」ってなりました。 相沢さんが「エルフ?」→「弓使えるの?」→「会社では使いません」の流れ、ちょっと笑った。やっぱり人間ってそういうとこあるよなあ。でも「二十六歳って本当?」で沈黙するリリカさんの返しが絶妙で、年齢の謎も気になる……。 最後の「秘密」の人差し指と、ほんのり赤くなった頬。この距離感、すごく好きです。続き、絶対読みます🌷