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午後六時十五分。
営業企画部の社員が次々と帰っていくなか、相沢直人は妙に落ち着かなかった。
パソコンの画面には来月の販売計画が表示されている。
しかし数字がまったく頭に入らない。
二つ離れた席では、森野リリカが普通に仕事をしていた。
昨日、彼女の正体を知った。
森野リリカはエルフである。
そう言葉にすると、ますます現実味がなくなる。
「相沢君、お先」
「お疲れさまです」
部長が帰った。
残っているのは四人。
十分後には二人になった。
森野が立ち上がった。
「相沢さん」
「はい」
「行きましょう」
「どこへ?」
「人が少ないところです」
ずいぶん怪しい誘いだった。
二人は会社を出た。
駅とは反対方向へ歩き、小さな喫茶店に入った。
森野は店内を見回した。
「奥にしましょう」
「そんなに警戒しなくても」
「します」
二人は一番奥の席に座った。
店員が来る。
「ブレンドコーヒー」
相沢が注文すると、森野はメニューをじっと見た。
「森野さん?」
「この、森の木の実パフェというのは」
「普通のナッツだと思う」
「そうですか」
少し残念そうだった。
「じゃあ、紅茶で」
店員が去った。
森野は小さく息を吐いた。
「それでは始めます」
「何を?」
「エルフについての説明会です」
「本当に説明会なんだ」
森野はバッグからノートを出した。
そこには、
『人間社会におけるエルフの基本事項』
と書かれていた。
「資料まであるの?」
「こういう事態に備えて作っています」
「よく耳がバレるの?」
「相沢さんが初めてです」
「じゃあ役に立ったね」
「役に立たないほうがよかったです」
もっともだった。
森野はノートを開いた。
「まず第一に、エルフは実在します」
「そこから?」
「重要です」
「昨日見たから信じてる」
「第二に、一般社会には公表していません」
「どうして?」
「面倒だからです」
予想外に現実的な理由だった。
「捕まって研究されたり?」
「それもあります。でも一番面倒なのは取材です」
「取材?」
「世界最長寿のエルフに聞く健康法、とか」
「ありそう」
「エルフが教える若返りの秘訣、とか」
「絶対ある」
「森の民おすすめ自然派化粧品、とか」
相沢は吹き出した。
「笑わないでください」
「ごめん」
「実際、大変なんです」
紅茶とコーヒーが運ばれてきた。
森野は紅茶を一口飲んだ。
「次です。私たちは普通に人間社会で生活しています」
「何人くらい?」
「言えません」
「日本にも?」
「います」
「この会社にも?」
森野は少し考えた。
「たぶん私だけです」
「たぶん?」
「全員を知っているわけではありませんから」
相沢は社内の顔を思い浮かべた。
総務の田中さん。
経理の山本さん。
営業の鈴木。
まさか。
「疑い始めないでください」
「分かった?」
「顔に出ています」
森野はノートを閉じようとした。
「待って。まだ一番大事なことを聞いてない」
「何ですか?」
「年齢」
森野の手が止まった。
「昨日も聞きましたよね」
「二十六歳じゃないんでしょ?」
「戸籍上は二十六歳です」
「実際は?」
沈黙。
森野は窓の外を見た。
「笑いません?」
「笑わない」
「引きません?」
「たぶん」
「たぶんじゃ困ります」
「引かない」
森野は小さな声で言った。
「百四十三歳です」
相沢はコーヒーを吹きそうになった。
「笑いましたね」
「笑ってない」
「顔が笑っています」
「百四十三?」
「はい」
「森野さんが?」
「はい」
「江戸時代から生きてる?」
「計算がおかしいです」
「あ、そうか」
相沢は混乱した。
「じゃあ明治?」
「その辺は曖昧にしてください」
「百四十三歳……」
森野が睨んだ。
「会社では二十六です」
「分かった」
「絶対に百四十三歳とか言わないでください」
「言わないよ」
「飲み会で『森野さんって意外と年上なんですよ』とかも禁止です」
「言わない」
「『昔のこと詳しいですよね』も禁止」
「分かったって」
「歴史の話を振るのも禁止です」
「ちなみに関東大震災って」
「禁止です!」
少し大きな声が出た。
近くの客が振り向いた。
森野は小さくなった。
「すみません」
相沢は笑いをこらえた。
「でも百四十三歳なのに会社員やってるんだ」
「悪いですか?」
「いや。何で?」
森野は紅茶のカップを両手で包んだ。
「人間の会社で働いてみたかったんです」
「どうして?」
「楽しそうだから」
「会社が?」
「はい」
相沢には理解できなかった。
「毎朝満員電車だよ」
「面白いです」
「会議もある」
「面白いです」
「経費精算もある」
「それは嫌いです」
そこだけ人間と同じだった。
「エルフは普段、何してるの?」
「いろいろです」
「森で?」
「相沢さん」
森野の目が細くなる。
「すぐ森に戻そうとしますよね」
「イメージが」
「マンションにも住みます」
「マンション?」
「私は1LDKです」
急に生活感が出た。
「コンビニにも行く?」
「行きます」
「スマホは?」
森野はバッグから最新型を出した。
「あります」
「SNSは?」
「見るだけです」
「ネット通販」
「よく使います」
「エルフ感がないな」
「だから普通に暮らせるんです」
確かにそうだった。
森野はどこから見ても普通の若い女性だ。
髪の下の耳を除けば。
相沢はふと思った。
「髪、毎日巻くの大変じゃない?」
森野の表情が変わった。
「大変です」
「やっぱり」
「ものすごく大変です」
突然、力がこもった。
「雨の日なんて最悪です。湿気でカールが落ちたら耳が出ますから」
「だからいつも気にしてたんだ」
「会社に着いたら最初にトイレで確認します」
「帽子じゃダメ?」
「オフィスで帽子をかぶっていたら不自然でしょう」
「確かに」
森野はため息をついた。
「人間の耳がうらやましいです」
「初めて言われた」
二人は笑った。
少しだけ空気が柔らかくなった。
森野がノートをバッグへ戻した。
「説明は以上です」
「もう?」
「必要最低限です」
「質問は?」
「三つまで」
相沢は考えた。
聞きたいことはいくらでもある。
魔法は使えるのか。
寿命は何年なのか。
家族はどこにいるのか。
だが最初に出てきた質問は、それではなかった。
「彼氏いる?」
森野が固まった。
「……それ、エルフと関係あります?」
「ない」
「貴重な三つの質問の一つを使います?」
「使う」
森野は相沢を見つめた。
「いません」
なぜか相沢は安心した。
「二つ目は?」
「好きな人は?」
「相沢さん」
「はい」
「それも関係ないですよね」
「ない」
森野は少し頬を赤くした。
「いません」
「三つ目」
相沢は少し迷った。
「俺が秘密を知ったこと、迷惑?」
森野は意外そうな顔をした。
しばらく考える。
「最初は最悪だと思いました」
「最悪か」
「でも」
森野は紅茶を一口飲んだ。
「今は、少しだけ安心しています」
「どうして?」
「会社で一人だけ、本当の私を知っている人がいるから」
その言葉に相沢は返事ができなかった。
森野は時計を見た。
「帰りましょう」
会計を済ませ、二人は駅へ向かった。
昨日と同じ道だった。
風が吹いた。
森野は反射的に髪を押さえた。
相沢が笑う。
「何ですか?」
「いや」
「また耳のこと考えました?」
「ちょっと」
「忘れてください」
「無理だって」
駅の入口で二人は別れた。
「では明日」
「うん」
森野が数歩歩いてから振り返った。
「相沢さん」
「何?」
「今日の話も秘密ですよ」
「分かってる」
「年齢は特に」
「百四十三歳ね」
「声が大きい!」
森野が慌てて周囲を見回す。
相沢は笑った。
森野も最後には笑った。
その夜。
相沢のスマートフォンに森野からメッセージが届いた。
『今日はありがとうございました』
続いてもう一通。
『誰かに秘密を話せたのは、七十三年ぶりです』
相沢は画面を見つめた。
七十三年。
自分が生まれるずっと前から、この人は秘密を抱えて生きてきた。
返信を書こうとしたとき、三通目が来た。
『あと、質問の二つ目について訂正します』
相沢の指が止まった。
『好きな人はいません、と言いましたが』
そこでメッセージが途切れた。
一分待った。
二分。
五分。
続きは来なかった。
「何なんだよ」
相沢はスマートフォンを握ったまま、しばらく眠れなかった。
翌朝、会社へ行くと、森野はすでに席にいた。
いつも通り完璧に巻かれた髪。
いつも通りの笑顔。
「おはようございます」
「おはよう」
相沢は小声で聞いた。
「昨日のメッセージの続きは?」
森野の顔が真っ赤になった。
「送信ミスです」
「絶対違うだろ」
「送信ミスです」
「好きな人が――」
「相沢さん!」
森野は慌てて自分の髪を押さえた。
なぜか耳ではなく、髪の上からだった。
その仕草を見て、相沢は初めて気づいた。
エルフは照れると、耳が動くらしい。
そして森野は、それを隠そうとしていた。
コメント
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読み終えました……もう、最後のラインがずるいですね(笑)。説明会と銘打ちながら、相沢さんがつい聞いてしまう「彼氏いる?」とか、ラストの「好きな人はいません、と言いましたが」で途切れるメッセージ、そこからの翌朝の耳隠し。エルフの設定にリアルな生活感が混ざるバランスが絶妙で、しかも照れると耳が動くって……可愛すぎます。七十三年ぶりに秘密を話せた、という重みが、こういう細かい仕草にじんわり効いていて、とても好きなエピソードでした。続きがすごく気になります🌷