空は黒く濁り、瘴気が渦巻いている。人は正体の見えぬ何かに怯え、狂乱する。病が蔓延し、飢えに飢え人の骨しゃぶる者達の姿があちこちで見かけられる。
かの男が生まれたのはそんな時代であった。
「…………」
男は治世者の一人息子だった。衣食住に困った事はない。だからといって、この現状に彼が何も思わない訳がなかった。
__父や母は使えない。放っておけと、いつも言う。それでは何も変わらないのに。いずれその溜まった不満が、こちらを蝕むのに。
男は上着を羽織る。今日も今日とて、彼は神社仏閣に祈りに行く。当主の座を持っていない彼ができる事は、それくらいしかなかった。
どこかで己も薄情なのだと、男は思う。なぜなら彼が気にかけているのは、いつも人間の方ではなかったからだ。
彼が助けたいのは、形を持たない、人々が恐れている何かだった。
男は知っている。彼らの苦しみも、願いも。何を望んでいるのかでさえ。彼れは男を見ると、頭に直接語りかけてくるのだ。
お願い、助けてくれ。このままでは嫌だ。仲良くなりたい。
男が子供の頃から、この声は聞こえてきた。一生無視できれば、最初から聞こえなければ__どんなに楽になれたのだろう。
最寄りの神社についた。境内には無数の人の屍が積み上げられている。男は腐臭に顔を顰める。
賽銭箱に銭を投げ入れ、礼をし、手を叩く。
無意味かもしれない。こんな寂れたところに、神はいないから。
それでも男は、何かに縋るように祈りを捧げる。
____どうか、彼らに救いを。
______××××××.×××××,×××××××××××××.
「…………!」
男はばっと顔を上げる。今確かに誰かが話した。理解はできなかったが、これは____。
男がもう一度聴こうと模索していると、再び声がした。今度は先程よりも幾分か人間の発音に近い口調で。
____×り。××××は××イの、××う×んが××.××ない。
「……何だ。何なんだお前は……? 姿を見せてくれないか」
____。
無言。男の発言を吟味しているのか、何の反応も示さない。
「……はぁ」
疲れた己の幻聴かもしれない。誰か他の者に怪しまれる前に、早くここから去ろう。次の所へ向かうのだ。
男が対話を諦め鳥居をくぐった、その瞬間。その時を待っていたかのように、男の視界を塗り潰すものがいた。
『だ×ら、キ×が、さ×めて。×クの×わりに』
____これが、最初の名告主の誕生だった。
○
「__と、こうして名告主が誕生した。ここまでで何か質問はあるか? 雪」
「うーん……一個だけあるよ、お師様」
「なんだ?」
雪は師である男の顔を、純粋無垢な目で見つめる。
「その人は、きっと願って名告主になったのよね? じゃあお師様は? どうして、名告主になったの?」
「……おれの話か?」
「うん」
師にとって予想外の質問だったらしい。答えに窮している彼を見て、雪はそう思った。
師は雪の頭を強めに撫でた。その行動は彼が何かを隠すためにするものだと、雪は知っていた。これから彼が話す言葉が極めて嘘に近いものである事も。
「ただの成り行きだ」
けれども、雪はそれを暴こうとは思わなかった。ただ尋ねるだけだ。
「……わたしは望まれてなるのかな。望んでなるのかな?」
「…………そうならないように、おれがいる」
「?」
問いに噛み合っていない師の答えに、雪は首を傾げた。師はまた、雪の頭を撫でる。今度は優しかった。
「だから、今はそのままで、ありのままの雪でいい。その優しさを捨てる必要はない」
ある師弟の間を、いつかの柔らかで澄み切った風が流れていった。
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