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ユカリは気持ちよく生い茂る尾根を左手に、爽やかに見晴らせる谷を右手に瑞々しい山腹を軽快な足取りで歩み行く。過ぎ行く景色は巨大狼のフロウと出会ったメハ村の周辺によく似ていた。どこまでも深い蒼穹に伸び伸びとした白い雲がゆるやかに流れてゆく。これから谷を吹き降り、町々を賑やかす清らかな風がユカリの肌をくすぐっていく。


メハ村で教わった童謡『羊の川』を口ずさむ。久方ぶりだったがユカリはきちんと覚えていた。その響きは山の頂に胡坐あぐらする見えざる者の耳に届き、またその者の鼻歌は山々に営みを依る者たちにささやかな幸いを届けた。


ユカリは汗を拭い、大きく息を吐く。疲労は大きいものの、夏も真っただ中ながら標高が上がるにつれ涼しい風が吹き寄せ、体の火照りを拭っていった。


しばらくしておおよそ太陽が真南に至り、山頂から吹き降りていた風がにわかに止む頃、小川のさざなみのような起伏の向こうに、寄る辺なき者に似て寂しげな集落が見えた。

前に親切な行商人の夫婦に聞いていた通り、クル村はウリオの山系に連なる紅花バテナ山の高原に存在した。卓状の広々とした土地で、手前には青々とした畑、村の奥では夏木立が耀う陽の光を浴びている。人と土地が手を携えて築いた古い遺構のように山の風景に溶け込むような佇まいだ。


『羊の川』を歌い終えると同時に「本当に薬を渡すのか?」と誰かが鈴の音のような声で言った。


ユカリははたと立ち止まり、風の止んだ山に耳を傾ける。草の揺れる音に蝶の羽ばたく音、雲の流れる音しか聞こえない。


「今のグリュエー?」とユカリが尋ねる。

「違うよ、ユカリ」とグリュエーは答える。


だとすれば他に喋れる者は限られている。ユカリは合切袋の中に納まるクチバシちゃん人形を見つめる。深緑の瞳に琥珀色の髪、そして黄色い嘴の少女の人形。


ユカリはクチバシちゃん人形を操る何者かに語り掛ける。ネドマリアの体を操るヒヌアラやハルマイトを殺したパピ、巨人像を己としたケトラの仲間だ。


「あなたが喋ったの? クチバシちゃん」

「さあな」


可愛らしい声でぶっきらぼうな言い草なのはあいかわらずだ。

ユカリはため息をつき、再びクル村に向かって歩き出す。


「喋れたんだね。よくもまあ長いこと押し黙ってたものだよ。私だったら我慢できない」

「あたしは我慢強いからな。あんたと違って」

「ふうん。でもとうとう我慢できなくなっちゃったわけだ」


このクチバシちゃん人形はヒヌアラやケトラと違い、さらにはパピよりも、幼いように思えた。それに合わせてか、引きずられてか、ユカリは自分まで子供っぽいようなことを言い始めているような気がしてきた。


「いつもみたいに聞かないのか?」そう言ってクチバシちゃん人形は嘲るように笑う。「ユーアはどこー。どこにいるのーって」


ずっと聞いていたのだろう。独り言も、グリュエーとの会話も、何もかも。


「あなたの方こそ言いたい事があって出てきたんでしょ? さっさと言えば?」


クチバシちゃん人形は喋るばかりで身動き一つとらない。


「じゃあ、言わせてもらうけど、あんた、本当はユーアのことなんてどうでもいいんだろ?」

「ははっ」と呆れるようにユカリは笑う。「何でそうなるの? あなた達にユーアを攫われてから一時も忘れたことはないよ」

「でもこの旅は魔導書集めの旅だろ? じゃなきゃ魔導書を持っているあたし達に関わろうとはしなかったはずだ」


草いきれに目を細めつつユカリは答える。「私はそんな薄情者じゃない。友達を見捨てたりしない」


「友達? ユーアはそんな風に思っていないけどな」とクチバシちゃん人形は嘲笑うように言った。

「そうだとしても第三者のあなたには関係ないことだよ」ユカリは冷たく突き放す。

「それにあんただって本当は友達だなんて思ってない」クチバシちゃん人形は熱を込めて言い返すが、体の方は身動き一つとらない。「あんたのは同情だよ。親に捨てられた娘に対する憐れみだ。あんたも似たような境遇だもんなあ。そうだろ?」

「違う」と言ったユカリの語気は少し強まった。そして「私は……」と言って口を噤む。

「違わない。今、こうして見知らぬ娘のために薬を届けようとしているのが何よりの証拠だよ。関係ない哀れな兄妹のために魔導書集めという大切な使命を放り出している。ばかりか、ユーアを助けることに反してさえいる。その薬があればユーアは喋れるようになるかもしれないんだって分かってるか?」


ユカリは青々とした畑の間に伸びるでこぼこの畑道へと入る。青臭い香りは郷愁を感じさせずにはいられなかった。夏の香りははるか離れた土地でも何も変わらない。

クル村はもうすぐだ。辺りには人の気配もなければ、魔導書の気配もない。


「勘違いしているようだけど」と言って、ユカリはクチバシちゃん人形を一瞥する。「魔導書集めそのものは別に何よりも優先すべき目的ってわけじゃないし、人を助けるのに優先順位なんてない。それにこの薬は元々ハルマイトのものなんだよ。自分たちで手に入れた魔導書と引き換えに手に入れるはずだったものだよ。それを横から掻っ攫って良い道理なんてない。そうでなくてもハルマイトの妹がかかっている病気は命にかかわるものなんだから、やるべきことは明白だよ」

「喋れないことなんて大したことないってか?」

「死ぬことに比べればね」


ユカリはちらりとクチバシちゃん人形の顔を盗み見るが、その表情に変わるところはなかった。


「まあいいさ。そうしたければそうすればいい。ユーアがどう思うかは別だけどな」

「ユーアはあなた達と違っていい子だよ」

「あんたの願望なんて聞いちゃいないさ」


ユカリはそれ以上何も言わなかった。というのも、畑の緑の中に誰かがいることに気づいたからだ。だからというわけでもないだろうが、クチバシちゃん人形もそれ以上何も言わなかった。


顔や服を土に汚した男が汗を拭いつつ生い茂る畑から畑道に現れる。乱れた赤毛に日に焼けた肌、見覚えのある誰かに似た顔だった。

男は容赦なく不審な眼差しを訪問者に投げかける。独り言を聞かれたのかもしれない。

男ははさみを持っていて、そばに置かれた籠には紫水晶のような瑞々しい茄子が積まれていた。ちょうど収穫を行っていたらしい。


「初めまして」ユカリは居住まいを正す。「ユカリと申します。旅の者なのですが、こちらにハルマイトさんのご親類はいらっしゃいませんか?」


男が目を開き、はさみを放り出してユカリにすがりつくように駆け寄った。足が悪いようで右足を引きずっている。両肩を両手でつかもうとしたので、ユカリは思わず払い除ける。


「ハルマイトがどうしたんですか? 何かあったんですか? あいつは今どこに」男は構わず言い募るがユカリの呪いでもかけるような強い視線に気づき、慌てて身を離す。「ああ、いや、すみません。失礼しました。本当に、御見苦しい姿を見せてしまいました。私は山毛欅テーリオと申します。ハルマイトの兄です」


ユカリは二、三歩距離を取って挨拶する。


「お顔が似ておいでなので、もしかして、と思いました。はじめまして。私は」とまで言って、ユカリはどう話すべきか考えていなかったことに気づいた。「その、ハルマイトさんの使い、とでもいいますか。えっと」

「使い、ですか」そう呟いたテーリオの視線はユカリの全身を精査していた。とりわけ合切袋からはみ出したクチバシちゃん人形を。「立ち話もなんです。ようこそお出でくださいました。村へ、家へ案内しましょう」

「はい。ありがとございます」


テーリオは鋏を拾い、茄子を積んだ籠を背負い、クル村へと向かう。

ユカリは夏の太陽がにじみ出させた汗とは別に、心の内の疚しさからも汗をかいた。クチバシちゃん人形が笑っているような気がした。

魔法少女って聞いてたけれど、ちょっと想像と違う世界観だよ。

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