ハルマイトの生家はクル村にいくつかある農家の内の一つだ。白い日干し煉瓦に、日に焼けて馨しい葦葺きの屋根。中央に炉辺がある円形の住居で、五人家族でも十分すぎる広さだ。
ユカリにはどこか懐かしい雰囲気を感じられた。幼い頃に遊んだ夢幻がふと耳元で囁いたような、歌をうたうと共に覗き込んだ驚異の境の向こうの景色が瞼の裏に映ったような、そんな気持ちが浮かんできた。
ユカリには意味も力も分からない魔除けや良い香りのする草が天井から吊るされ、それらの魔法は少しの幸も窓の隙間から逃がさないようにと目を見張っている。煉瓦の壁には古い呪文や渦巻く幾何学模様が彫り刻まれ、喜びと微笑みをかき混ぜて膨らませている。どの魔法も家族の幸せや豊饒を祈願するとても大切でありふれた力だ。
家の奥に赤い木造りの寝台があり、その一つに小さな少女が深く眠っていた。そのそばで母親らしき女性が素朴な織機で心地よく硬い音を奏でて機織りしている。二人ともよく似た赤い巻き毛だが、少女の肌は血の気がなく青白い。すぐさまテーリオがユカリに二人を紹介する。
「私の母、銀の麦穂です。眠っているのは虎、私の妹です。母さん、こちらはユカリさん。ハルマイトの使いだそうだ」
ユカリは緊張の衣を脱ぎ捨てようとやっきになりながら、一歩進み出て挨拶する。
「はじめまして。ビオーテさん。ユカリと言います」
ハルマイトの母ビオーテが立ち上がり、恭しく挨拶を返す。
「ようこそ、いらっしゃいました。ユカリさん。どうぞゆっくりしていってください」そう言いつつビオーテは助けを求めるように、息子テーリオに小動物の持つような視線を向ける。
「いや、俺もこれから話を聞こうとしていたところだよ、母さん」
「そうですか、そうですか。それなら羊乳を沸かしましょうね。少しお待ちになってくださいね」
ユカリは促されるままに炉辺の近くに座る。ビオーテは炉辺の鍋と櫃と天井に吊るされた草を行ったり来たりした。その間にユカリはどこまで話すべきなのか考えた。
その時、ユカリは寝台のレンナと目が合った。横になりながら瞼が開いている。
「だあれ?」とレンナが言った。
「ユカリさんだよ」とテーリオが紹介する。「ハルマイトの使いでやってきたそうだ」
「ハル兄さんの!?」と言って少女が細い手足を投げ出して寝台から飛び出す。
その姿を見てユカリはぎょっとする。レンナの身につけている分厚い服の胸の辺りが赤黒く染まって、乾いている。吐血したのだろうとユカリは察する。どのような病か知る由もないが、その苦しみは想像に難くない。それ以上に兄も母もその服について何も言わないことが全てを物語っている。吐血が当たり前の日常で、吐血の度に服を着替えることはできないのだ。
レンナはどたどたと駆け寄ってきて、ユカリの隣に座り、身を乗り出してユカリの顔を覗き込む。ユカリの手を握るレンナの小さな手は氷のように冷たい。
「こんにちは。ユカリさん。ハル兄さんはどこ? まだ帰ってこないの? いつ帰ってくるの? 最後に会ったのはいつ? 元気にしていた? ハル兄さんは薬を買いに行ったんだよ。知ってた? もう手に入れたのかな。約束したんだよ。ハル兄さんが凄い薬を持って帰るって。だからレンナも約束したの。薬は大嫌いだけどハル兄さんが持って帰った薬なら飲むって。薬なんてなんでもいいけど、早く帰ってきて欲しいな。レンナはずっとハル兄さんを待ってるの。機織りをね、お母さんに習っているの。ハル兄さんのために布を織ってるんだよ。その布で何を作るかはまだ決めてないんだけどね。どうしようかな。ユカリさんはどう思う?」
あっちを見、こっちを見、目も眉も口も春先の蜂のように忙しなく動き、大げさな身振り手振りで説明して、レンナはまるで舞台役者のようだ。
テーリオに何度も諫められるがレンナは止まらない。
「もしかしてユカリさんてハル兄さんの恋人? レンナ、お姉さんも欲しかったんだよね。ちなみにそっちのテル兄さんは都で振られちゃったんだよ。ユカリさんはどこの人なの? それにしても背が高いね。ハル兄さんよりも大きいんじゃない? これ知ってるよ、狩人装束だよね。麓の村の狩人をたまに見かけるの。それに似てる。でも女の人がそういうのを着ているのは初めて見るかも。やっぱり羚羊や鹿を狩るの? そういう長衣も良いかもね。兄さんもたまに狩りに行くんだよ」
その間に彼らの母ビオーテによって温かい羊乳が全員に振舞われた。羊乳は柔らかくなった胡桃がいくつも入っていて、とても甘く薄荷らしき清涼感が口の中を洗う。それを飲んでいる間はレンナも黙っていた。一息ついて、口の周りを白くしたレンナが喋り始めるのをテーリオが食い止め、三人ともユカリが話し始めるのを待つ。ユカリもそれに応える。
「えっと、まず霊薬ですね。それは……」
ユカリは合切袋の中を探り、霊薬を握る。その時、玄関の扉が静かに開かれた。家の中が少しばかり明るさを増す。
ユカリはその光景に目を奪われた。そこに立っていたのはハルマイトだった。自信に満ち溢れた笑みを浮かべて、開いた扉に寄りかかっている。
ユカリの釘付けになった視線を追って、ビオーテ、テーリオ、レンナの三人も故郷に帰ってきた次兄に気づく。まず初めにレンナが飛び上がって、子兎のようにハルマイトに駆け寄り、力の限り抱きついた。
「ハル兄さん、お帰りなさい! ずっとずっとずっと待ってたんだよ。すぐに帰るって言ったのに随分待ったんだから。今日は朝から気分が良いの。きっとハル兄さんが帰ってくる日だったからだね。それに……」
その後もずっとレンナは喋り続けていたがユカリの頭にその内容は入って来なかった。ハルマイト自身も三人を一瞥した後はじっとユカリを見つめている。ユカリにはその瞳に怒りと憎しみの炎が灯っているように思えた。
ハルマイトは死んだ。それは揺るぎない事実だ、とユカリは頭の中で繰り返す。事実と嘘と夢幻との違いを確認するように、何度も繰り返す。ハルマイトは死んだ、と。
目の前でまるで生き返ったかのように振舞っているハルマイトを目の当たりにして、心が錯覚し、存在しない希望にすがり付こうとするのを防ぐ。そのハルマイトの体を操っているのはおそらくパピだ。トイナムの港町でユカリや焚書官たちを散々に引っ掻き回した何者かだ。少なくともハルマイトの魂でないのは確かだ。
ハルマイトは死んだ。そのような事実を、ユカリはレンナに知らせたくなかった。
喋り続けるレンナを黙らせるように、ハルマイトはレンナの頭に掌を置いた。はたから見れば久しぶりに再会した兄が妹の頭を撫でているようだったが、ユカリにはそう見えなかった。今にも握り潰してしまいそうな威圧感があった。
反射的にユカリは霊薬の瓶を掲げる。今にも叩き割る素振りを見せる。
ハルマイトは一瞬驚くが、静かに首を横に振った。
「お前にそんなこと出来ないだろ」とハルマイトは呟く。
家族の三人ともがその声音に違和感を覚えたようで、ハルマイトを見、その視線を追ってユカリを見る。その時にはユカリはすでに霊薬を合切袋にしまっていた、決して手からは離さずに。
「何でここが」とユカリが呟くと、クチバシちゃん人形が密やかに笑った。つまりそういうことだ。
ユカリはハルマイトから視線を逸らすことで意志を示す。ハルマイトもそれを察した様子で言う。
「少し二人きりで話させてくれないか。レンナ、兄さん、母さん」
このような不穏な空気が生まれたことすらユカリにとっては望ましくなかった。
「ええ! 何で!?」とレンナが唇を尖らせて不満を表明する。「久しぶりに帰ってきたのに、そんなにユカリさんが大事なの? やっぱり恋人なんだね? 妹よりも大事なんだね?」
「恋人じゃないよ、レンナ」とユカリが否定する。「仕事仲間みたいなものだから」
「ええ! ユカリさん、傭兵なの?」レンナはハルマイトとユカリを何度も何度も見比べる。「でもそう言われてみると、ちょっと強そうかもしれない」
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