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その家は静かだった。 怒鳴り声がない。
足音に怯えなくていい。
ドアの開く音に体を強張らせなくていい。
それだけで、澪には落ち着かなかった。
静かすぎて怖い。
優しすぎて怖い。
いつか壊れる前触れみたいに思えた。
「無理に話さなくていいからね」
そう言ったのは、高校三年生の榊 悠真だった。
澪にとっては義理の兄になるらしい。
悠真は変な人だった。
怯えても追いかけてこない。
でも放っておくわけでもない。
毎日ちゃんと「おはよう」と言う。
毎日ちゃんと待ってくれる。
だから余計に分からなかった。
優しくされる理由が。
夜。
新しい部屋のベッドの上。
澪は眠れずにいた。
静かなのに、頭の中だけがうるさい。
突然、コンコンとノックが鳴る。
「……入るよ」
ドアの隙間から悠真が顔を出した。
「母さんがホットミルク作ったけど飲む?」
澪は反射的に肩を震わせる。
その反応を見た悠真はすぐ一歩下がった。
「ごめん、近かった」
その一言に、澪は少し目を見開く。
今まで“怖がらせた側”が謝ることなんてなかったから。
「……置いとくから」
それだけ言って悠真は部屋を出た。
澪はしばらく動けなかった。
机の上のマグカップから湯気が立っている。
怖くなかった。
その事実が、どうしようもなく涙を誘った。
澪はその後、正式に榊家へ引き取られることになった。
『榊 澪』
書類の名前を見た時。
最初は何も感じなかった。
でも。
昔の名字を呼ばれるたび苦しかったことに、その時初めて気づいた。
過去は消えない。
傷も消えない。
それでも。
榊という名前は少しだけ逃げ場みたいに思えた。
悠真 side
最近。
澪は少しだけ笑うようになっていた。
本当に少しだけ。
でも悠真は安心できなかった。
笑っているのに。
どこか無理をしている気がしたから。
夕飯のあと。
「ごちそうさま」
そう言って小さく笑った澪を見ながら思う。
この子は今でも怖いんだろうな、と。
傷が消えたわけじゃない。
隠すのが上手くなっただけだ。
だから悠真は毎晩確認してしまう。
ちゃんと眠れているだろうか。
また悪夢を見ていないだろうか。
そんな自分に気づいて苦笑する。
妹だからじゃない。
もっと前から。
守りたいと思ってしまったのだ。
ある日の夜。
澪はリビングのソファでうとうとしていた。
眠るつもりはなかった。
けれど気づけば意識が落ちていたらしい。
夢の中で、また昔の家にいた。
暗い廊下。
重たい足音。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間。
肩に何かが触れた。
「っ……!」
身体が跳ねる。
喉が塞がる。
息が吸えない。
視界がぐらりと揺れる。
夜。
逃げられない部屋。
閉ざされた空間。
押さえ込まれる感覚。
やめて。
怖い。
来ないで。
夢と現実の境界が分からなくなる。
澪は反射的にソファの端まで身体を縮めた。
目を開ける。
そこにいたのは悠真だった。
けれど悠真は、澪が怯えた瞬間、火傷したみたいにすぐ手を離して距離を取った。
「ごめん」
静かな声。
「起こそうとしただけ」
怒っていない。
責めてもいない。
それが逆に澪を混乱させた。
今までなら。
怖がった自分が悪かった。
怯えた自分が怒られた。
だから謝らないといけないはずなのに。
悠真は困ったように頭を掻いた。
「……人に触られるの、苦手?」
澪は答えられない。
でも否定もできない。
すると悠真は少し考えてから言った。
「じゃあ気をつける」
当たり前みたいに。
「急に触らないし、近づく時も声かけるから」
その言葉に澪は目を見開いた。
嫌がることを避けようとしてくれる人なんて、初めてだった。
悠真は立ち上がり、テーブルにマグカップを置く。
「ホットココア。甘いの平気?」
少し迷ったあと。
澪は小さく頷いた。
その瞬間。
悠真がほんの少し安心したように笑った。
その笑顔を見た時。
澪の中で凍っていた何かが、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
新しい学校でも、澪はあまり喋らなかった。
特に男子は 後ろを通られるだけで肩が強張る。
近くで笑われるだけで身体が警戒する。
自分でもどうにもできない。
怖いものは怖かった。
昼休み。
澪はいつものように本を読んでいた。
すると男子グループのひとりが机に寄りかかる。
「榊ってほんと喋んないよな」
軽い調子だった。
悪意なんてない。
それは分かる。
でも。
澪の身体は一瞬で固まった。
「俺ら嫌われてる?」
周囲が笑う。
逃げたい。
でも足が動かない。
「なあ、聞いてる?」
顔を覗き込まれる。
近い。
男の人の匂い。
笑い声。
逃げられない距離。
頭の中で何かが弾けた。
暗い部屋。
逃げられない夜。
押さえ込まれる感覚。
怖い。
怖い。
怖い。
息ができない。
男子のひとりが肩を軽く叩く。
その瞬間。
澪は椅子から落ちた。
「えっ!?」
周囲がざわつく。
息が吸えない。
肺が潰れる。
喉が震える。
視界の端が暗くなっていく。
机の脚を掴む。
それしかできない。
「先生呼べ!」
「榊、大丈夫!?」
聞こえる。
でも遠い。
何も届かない。
怖いだけが身体中に広がっていた。
悠真 side
最近。
澪は少しずつ笑うようになっていた。
本当に少しだけ。
だから安心しかけていた。
でも違った。
怖いものは消えていなかった。
押し込めていただけだった。
生徒会室で書類を整理していた時。
扉が勢いよく開いた。
「榊!」
副会長だった。
「一年の榊澪ってお前の妹だよな。教室で…」
その瞬間。
嫌な予感がした。
心臓が冷たくなる。
廊下が妙に長く感じた。
教室へ駆け込んだ瞬間。
床に座り込む澪が見えた。
小さく震えている。
まともに呼吸もできていない。
周囲には困った顔のクラスメイト。
その中に男子生徒たちがいるのを見て。
悠真はすぐ察した。
怖かったんだ。
ただ、それだけで。
誰が悪いわけでもない。
男子たちに悪意はない。
そんなことは見れば分かる。
だから余計に苦しかった。
澪は何も悪くないのに。
普通の高校生なら笑って終わることなのに。
ただ近づかれただけで。
ただ肩を叩かれただけで。
ここまで壊れそうになってしまう。
その事実が苦しかった。
「澪」
静かに呼ぶ。
聞き慣れた声。
澪の肩が少しだけ揺れた。
「大丈夫。ゆっくり」
急かさない。
触れない。
ただ声だけを届ける。
本当は抱きしめたかった。
安心させてやりたかった。
でも。
それすら恐怖になるかもしれない。
だから我慢する。
「吸って」
「吐いて」
何度も。
何度も。
その声に合わせるように。
少しずつ澪の呼吸が戻っていく。
教室が静まり返る。
「え、会長……?」
男子のひとりが呟いた。
悠真は有名だった。
三年生の生徒会長。
知らない生徒の方が少ない。
だからこそ皆戸惑っていた。
悠真は男子たちを見る。
責めるつもりはなかった。
ただ知ってほしかった。
「……悪気ないのは分かってる」
静かな声。
「でも、澪は男の人が少し苦手なんだ」
教室が静まる。
「急に近づかれたり、触られたりすると……駄目になる時がある」
男子たちの顔色が変わる。
罪悪感。
後悔。
戸惑い。
その全部が見えた。
その時。
ひとりが恐る恐る聞いた。
「会長って榊の……?」
悠真は少しだけ黙る。
それから答えた。
「お兄ちゃん」
短い言葉だった。
でも。
その瞬間。
胸の奥で自然とそう思った。
義理とか。
血の繋がりとか。
そんなものじゃなく。
守りたい妹だった。
教室を出る時。
澪は俯いたまま悠真の袖を掴んだ。
ほんの少しだけ。
本当に少しだけ。
その感触に。
悠真は泣きそうになった。
信じてもらえた。
そう思った。
ほんの少しだけ。
でも確かに。
帰り道。
「……ごめんなさい」
澪が呟く。
反射みたいな謝罪だった。
悠真は首を傾げる。
「なんで?」
「迷惑……かけたから」
その言葉に胸が痛む。
怖かった。
苦しかった。
それなのに。
澪は自分を責めている。
「迷惑じゃないよ」
即答だった。
「怖かったんだろ」
「それって悪いことじゃない」
澪は何も言わなかった。
でも。
少しだけ肩の力が抜けた気がした。
翌日。
澪は学校を休んだ。
朝から身体が重かった。
教室に入ることを考えただけで息が苦しくなる。
リビングへ行く。
そこには私服姿の悠真がいた。
「……学校は?」
小さく聞く。
すると悠真は困ったように笑った。
「サボり」
冗談みたいな声。
でも目だけは真剣だった。
「今日は澪ひとりにしたくなかったから」
その言葉に。
澪は目を伏せる。
嬉しい。
でも。
申し訳ない。
自分のせいで。
また迷惑をかけている。
そう思ってしまう。
「……ごめんなさい」
また謝る。
反射だった。
悠真は少し黙った。
それから静かに言う。
「澪さ」
「謝るの癖になってるよね」
責める声じゃなかった。
ただ。
少し悲しそうだった。
澪は息を詰まらせる。
「だって……ぼく、普通じゃないから……」
怖がりすぎる。
男の人が怖い。
触られるだけで壊れそうになる。
そんな自分が気持ち悪かった。
でも。
悠真は即座に否定する。
「違う」
強い声だった。
「澪がおかしいんじゃない」
静かな沈黙。
そして。
「怖い思いしてきた人が、簡単に平気になれるわけないだろ」
澪は俯く。
涙が滲む。
「みんな普通にできるのに……」
「澪は普通じゃないんじゃない」
悠真は言った。
「ずっと頑張ってきたんだ」
その言葉が。
胸の奥に突き刺さった。
頑張った。
そんな風に言われたこと、一度もなかった。
澪は唇を噛み締める。
ぽろり、と涙が落ちた。
そして一粒では終わらなかった。
悠真は何も言わない。
ただ近づきすぎない距離で座っている。
急かさない。
慰めすぎない。
でも離れない。
その存在だけが。
今の澪には、少しだけ温かかった
コメント
1件
読了しました…!😭💕 澪が「謝るの癖になってるよね」って悠真に言われたところ、もう胸がぎゅうってなった…。自分が悪いって思いすぎちゃうの、過去の経験がそうさせてるんだよね。でも悠真の「澪がおかしいんじゃない」って言葉が、ちゃんと澪の傷を抱きしめてて、エモすぎて泣いた。 触らない距離で待ってくれる優しさ、めちゃくちゃ沁みます…。次の話、早く読みたいです!みことさん、ありがとうございます🌸