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風呂から出た遥は、タオルで髪を拭きながら、鏡の中の自分を見た。頬骨の下にはまだ赤黒い打撲の跡が残り、口の端には薄く裂けた皮膚が血のあとを滲ませている。
肩、背中、太もも──すべての筋肉が、熱を持っていた。
それでも、風呂は温かかった。
あの家の、あの浴室とは違った。
足音が近づいてこない。叫び声も、扉を叩かれる音もしない。
……それなのに、遥は、心のどこかが休まらなかった。
「……これが、自由だと思うなよ」
タオルを乱暴に洗面所に投げ、居間に戻る。
日下部はソファでスマホをいじっていた。
画面にはSNSか、あるいは誰かとのチャットのやりとりが表示されていた。
「……誰と?」
「別に」
「玲央菜か?」
「……気になるのかよ?」
遥は、言葉に詰まった。
気になる、わけではない。けれど──あいつと、何を話しているのかは気になった。
「……あいつ、父さんと晃司、どうやって説得したんだよ」
「さあな。何か、取引でもしたんじゃねぇの」
「冗談で言ってる?」
「おまえが“休みたがってる”から、って言ってたよ。……オレにはそう見えなかったけど」
遥は、その言葉にほんの一瞬、目を見開いた。
「……誰が、休みたいなんて言ったよ」
「じゃあ、明日、行く?」
「……ああ。オレは、休まねぇよ」
「……勝手にしろ」
リビングの時計が、夜の九時を回っていた。
テレビの音も、生活音もない部屋の中に、ふたり分の呼吸だけが残されていた。
遥はソファの端に腰を下ろし、片膝を立ててじっと前を見つめる。
誰も笑わない。誰も命令しない。
それが、逆に息苦しかった。
「なあ、日下部」
「ん」
「……おまえ、本当に何もしないのか?」
「してねぇだろ」
「……なのに、何で、みんな“おまえの指示だ”って思ってんだよ」
沈黙。
日下部は、顔を上げなかった。
スマホの画面から、視線を外すことなく、低く言った。
「言いたい奴には、言わせとけ。オレは何もしてない」
「それで済むと思ってんのかよ」
「じゃあ、どうしたらいいんだよ。おまえの代わりに、全部否定して回れってか?」
遥は息を呑んだ。
……それを言われたら、何も言い返せなかった。
本当は、わかってた。
日下部が明確に命じたことなんてない。
けど──黙ってた。否定しなかった。訂正しなかった。
だからこそ、「オレが言わなかったのが悪いのか」と、自分で自分を殴りたくなる。
「……もう、わかんねぇんだよ」
そうつぶやいて、遥は立ち上がった。
足元がふらつく。膝の痛みが、容赦なく走る。
立ち直りきらない身体が、まるで拒絶しているみたいだった。
日下部が、ぼそりと呟いた。
「……休めよ、明日も」
遥は、ピクリと振り返る。
「……なんで」
「誰もおまえを待ってねぇよ。……あそこには、何もない」
「……あそこしかねぇんだよ」
遥の声が、かすかに震えていた。
「学校しかねぇんだよ。家は──もう、戻れねぇ」
沈黙。
日下部は少し間を置いてから、いつも通りの軽い声で言った。
「じゃあ、学校も、壊れたらどうすんだよ」
遥は、答えなかった。
答えられなかった。
自分でも、わかっていた。
もう、どこにも“戻る場所”なんてない。
だからこそ、「壊れるまでそこにいる」しかなかった。
──行き先のない自分を、どこかに縛りつけるために。