TellerNovel

テラーノベル

アプリでサクサク楽しめる

テラーノベル(Teller Novel)

タイトル、作家名、タグで検索

ストーリーを書く

シェアするシェアする
報告する

風呂から出た遥は、タオルで髪を拭きながら、鏡の中の自分を見た。頬骨の下にはまだ赤黒い打撲の跡が残り、口の端には薄く裂けた皮膚が血のあとを滲ませている。

肩、背中、太もも──すべての筋肉が、熱を持っていた。


それでも、風呂は温かかった。

あの家の、あの浴室とは違った。

足音が近づいてこない。叫び声も、扉を叩かれる音もしない。

……それなのに、遥は、心のどこかが休まらなかった。



「……これが、自由だと思うなよ」


タオルを乱暴に洗面所に投げ、居間に戻る。


日下部はソファでスマホをいじっていた。

画面にはSNSか、あるいは誰かとのチャットのやりとりが表示されていた。



「……誰と?」


「別に」


「玲央菜か?」


「……気になるのかよ?」


遥は、言葉に詰まった。

気になる、わけではない。けれど──あいつと、何を話しているのかは気になった。


「……あいつ、父さんと晃司、どうやって説得したんだよ」


「さあな。何か、取引でもしたんじゃねぇの」


「冗談で言ってる?」


「おまえが“休みたがってる”から、って言ってたよ。……オレにはそう見えなかったけど」



遥は、その言葉にほんの一瞬、目を見開いた。


「……誰が、休みたいなんて言ったよ」


「じゃあ、明日、行く?」


「……ああ。オレは、休まねぇよ」


「……勝手にしろ」



リビングの時計が、夜の九時を回っていた。

テレビの音も、生活音もない部屋の中に、ふたり分の呼吸だけが残されていた。


遥はソファの端に腰を下ろし、片膝を立ててじっと前を見つめる。

誰も笑わない。誰も命令しない。

それが、逆に息苦しかった。



「なあ、日下部」


「ん」


「……おまえ、本当に何もしないのか?」


「してねぇだろ」


「……なのに、何で、みんな“おまえの指示だ”って思ってんだよ」


沈黙。


日下部は、顔を上げなかった。

スマホの画面から、視線を外すことなく、低く言った。



「言いたい奴には、言わせとけ。オレは何もしてない」


「それで済むと思ってんのかよ」


「じゃあ、どうしたらいいんだよ。おまえの代わりに、全部否定して回れってか?」


遥は息を呑んだ。


……それを言われたら、何も言い返せなかった。

本当は、わかってた。

日下部が明確に命じたことなんてない。

けど──黙ってた。否定しなかった。訂正しなかった。


だからこそ、「オレが言わなかったのが悪いのか」と、自分で自分を殴りたくなる。



「……もう、わかんねぇんだよ」


そうつぶやいて、遥は立ち上がった。

足元がふらつく。膝の痛みが、容赦なく走る。

立ち直りきらない身体が、まるで拒絶しているみたいだった。


日下部が、ぼそりと呟いた。


「……休めよ、明日も」


遥は、ピクリと振り返る。


「……なんで」


「誰もおまえを待ってねぇよ。……あそこには、何もない」


「……あそこしかねぇんだよ」


遥の声が、かすかに震えていた。


「学校しかねぇんだよ。家は──もう、戻れねぇ」


沈黙。


日下部は少し間を置いてから、いつも通りの軽い声で言った。


「じゃあ、学校も、壊れたらどうすんだよ」


遥は、答えなかった。

答えられなかった。


自分でも、わかっていた。

もう、どこにも“戻る場所”なんてない。


だからこそ、「壊れるまでそこにいる」しかなかった。



──行き先のない自分を、どこかに縛りつけるために。


この作品はいかがでしたか?

43

コメント

0

👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!

チャット小説はテラーノベルアプリをインストール
テラーノベルのスクリーンショット
テラーノベル

電車の中でも寝る前のベッドの中でもサクサク快適に。
もっと読みたい!がどんどんみつかる。
「読んで」「書いて」毎日が楽しくなる小説アプリをダウンロードしよう。

Apple StoreGoogle Play Store
本棚

ホーム

本棚

検索

ストーリーを書く
本棚

通知

本棚

本棚