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テラーノベルの小説コンテスト 第3回テノコン 2024年7月1日〜9月30日まで
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 無音の草原を、一体の魔物が歩いている。

 その姿は一部を除けば人間そのものだ。

 美しい顔も。

 すらっと長い四肢も。

 それらだけは人間の女性と瓜二つだ。

 しかし、胴体と頭髪が異質な以上、これを人間とは見間違えない。

 体は真っ赤な火の玉だ。他の部位は人間を真似るように配置されており、胴体とは繋がっていない。

 髪の毛も同様に赤色だ。一本一本が轟々と燃えており、その姿は神秘的でさえある。

 大空を埋め尽くす、灰色の雲。

 それゆえに、頭上を見上げても太陽は見当たらない。

 マリアーヌ段丘は今日も雑草が生い茂っている。そうでない部分はむき出しの地面が土色を主張しており、その広さは人間の小ささを再認識させるほどだ。

 平和的でさえあるこの場所で、二人と一体は出会ってしまった。

 ならば、取りうる行動はシンプルだ。

 人間は魔物を狩る。

 魔物は人間を殺す。

 この世界の理ゆえ、抗えるはずもない。

 ましてや、互いが互いを殺したがっている以上、衝突は必然だ。

 しかし、今回は例外らしい。意志疎通が出来るという稀有な状況ゆえ、少年は震えながらも懇願する。


「僕が目的なら、この人には手を出さないでくれ! お、お願いだ、僕ならどうなっても構わないから……」


 傭兵でありながら、エウィンは戦意を手放した。

 眼前の魔物はそれほどのの化け物だ。一見すると隙だらけのようにも見えるのだが、その分析自体は正しい。

 なぜなら、こちらを微塵も警戒していない。する必要がないのだから、自然体を貫いて当然だ。

 無風だった野原に、冷たい風が吹き始める。

 若葉色の前髪を乱しながら、エウィンは瞬き一つ出来ない。

 恐怖心を抱くという意味では、後ろのアゲハも同様だ。長い黒髪と上着代わりのジャージをたなびかせながら、無言を貫くように立ち尽くしている。

 決定権は誰にあるのか?

 もちろん、言葉を話すこの魔物だ。


「殊勝だネ。ダけど、キミの要望には応えられないかナ。望むのなラ、力を示さないト。ソうだネ、力尽くでワタシのことを止めてみせてヨ。ウん、我ながら妙案ダ」


 ふざけているのか?

 人間には理解出来ない思考の持ち主なのか?

 どちらにせよ、この魔物は一旦立ち止まる。

 残念ながら対案が出されたところで、エウィン達の状況は好転していない。

 なぜなら、それが出来ないと察しているからこそのお願いだ。

 一目見ただけで、わかってしまった。

 この魔物には敵わない、と。

 蝶の幼虫が野鳥に食べられるように。

 小さな子供が大人の暴力に屈しるように。

 今のエウィンではこの異形に手も足も出せない。

 傭兵だからこそ、理解させられた。

 試しに殴りかかっても良いのだが、次の瞬間には自身の首が消し飛ばされるかもしれない。

 もしくは、体が引き裂かれる?

 死因は不明ながらも、死ぬことは確定だ。

 本能がそうだと告げており、だからこその懇願だった。

 しかし、聞き入れてはもらえなかった以上、敗戦覚悟で挑むしかない。

 そんな中、背後のアゲハがささやく。


「に、逃げられない、かな?」


 随分と離れてしまったが、エウィンが本気で走れば王国まであっという間だ。

 そういう意味では、彼女の意見を無視すべきではない。

 もっとも、それが愚策であることをエウィンだけが看破済みだ。

 表現を変えるなら、彼女だけが何もわかっていない。眼前の魔物に対して畏怖しながらも、その力量までは見抜けてはいなかった。


「一か八か!」


 少年は叫ぶ。

 一人なら、死を受け入れていた。

 しかし、今は二人だ。

 抗わなければ彼女を救えない以上、その案を採用するしかない。

 振り返り、間髪入れずにアゲハを左腕だけで抱え、逃げるように走り出す。

 ここまでは順調だ。

 ここまでが限界だった。

 わかってはいたが、改めて実力差を思い知らされる。


「イイネ、イイネ! ソうやっテ、モがいてくれないト」


 二人が加速するより先に、道化師は退路を塞ぎ終えていた。

 炎の髪を揺らしながら。

 炎の体を燃やしながら。

 その顔は心底嬉しそうに笑っている。

 人間の無力さを蔑んでいるわけではない。

 その努力を、心底評価している。魔物らしからぬ思考と言えよう。

 そんなことは露知らず、エウィンは悔しそうに踏みとどまる。


「は、速すぎて目で追えない……」


 アゲハを地面に降ろしながら、力の差を嘆いてしまう。

 逃亡は却下された。そうなることはわかっていたのだが、退路が断たれた以上、エウィンは引きつるしかない。


「サァ、切り開いてみなヨ。諦めるにハ、マだ早いんじゃなイ? サもないと、ソレを殺しちゃうヨ?」

(な、なんなんだコイツ……。僕を殺そうとするわけでもなく、だけど逃がすつもりもない? ふざけてるのか、遊んでるのか、意味がわからない)


 魔物の思惑はどうあれ、残された選択肢は一つだけ。

 アゲハを守るためにも、立ち向かうしかない。

 傭兵は一歩を踏み出すも、飛びかかるためではなく、先ずは彼女を庇うためだ。この行為に意味などないのだろうが、本能的にそう欲してしまった以上、立ち位置を正さずにはいられなかった。


「アゲハさんだけは何としても……!」

「ソの調子! キミの強さ、心の強さ、ワタシに思う存分披露しテ!」


 エウィンの決意表明を魔物が褒める。常識を逸した状況ながらも、この個体こそが非常識ゆえ、是非を問うことに価値などない。

 草原に訪れた、一瞬の静寂。

 三人の立ち位置は明白だ。

 風上には一体の魔物が君臨しており、二人の人間は明らかに見下されている。

 もしくは、品定めか。

 戦闘はまだ始まってはいない。

 にも関わらず、格付けは既に済んでしまった。

 魔物から漏れ出る圧迫感はそれほどだ。守りたいと願ったところで、実力差を埋めるには到底足りていない。

 そうであろうと、残された選択肢は一つだけだ。


(勝てるとは思えない。だけど、万が一があるとしたら今だけ?)


 希望的観測でしかないが、傭兵はそう結論付ける。

 眼前の化け物は無防備過ぎた。エウィン達を警戒していないばかりか、殺意をアゲハにしか向けていない。

 隙など無いが、隙だらけだ。

 ゆえに、恐怖に震えながらも体を稼働させる。


(あとさき……!)


 考えている場合ではない。

 前傾姿勢への移行。その直後、エウィンは弾丸のように走り出す。魔物の顔に拳をめり込ませるためだ。

 不敵に笑っていようと関係ない。

 美人なのかもしれないが、お構いなしだ。

 女の鼻骨を砕く勢いで、全力の打撃を叩き込む。

 その結果、静かなマリアーヌ段丘に雷のような轟音が発生した。

 今のエウィンが繰り出す拳にはそれほどの威力が備わっている。

 助走をつけての一撃だ。ましてや、手は一切抜いていない。歯を食いしばり、必死の形相で打ち込んだことからもその様子はうかがえる。

 殴打の際に生じた衝撃波が紛れもない証拠だ。

 近隣の魔物なら、これで絶命するだろう。

 そのはずだが、魔物はわずかに仰け反りながらも、不満そうに語りだす。


「ン~? コの程度かイ? 将来性に期待したいけド、ダとしてもこれハ……」


 期待外れだ。

 握り拳が顔面に当たったままながらも、それは平然と感想を述べる。発言の真意は彼らに伝わらないものの、力量差は実演し終えた。

 感じ取れてはいたのだが、やはり格上の存在だ。

 エウィンは拳を突き出しながらも、悲痛な表情を浮かべる。

 通用しない。改めてそう実感するも、一縷の望みにかけて両腕を動かす。

 一撃で倒せないのなら、何度でも打ち込むまでだ。

 その行為は自身の拳が壊れるまで、飽きることなく継続された。

 殴る側が力尽きるという事実を、少年は受け入れられるはずもない。


「そ、そんな……」


 親指以外が折れ曲がり、手の甲は血まみれだ。両手は完全に損壊しており、これ以上の殴打は現実的ではない。

 対して、魔物は美麗な顔を保っている。出血はおろか、痣すら見当たらず、敗者の姿が面白いのか、笑みを浮かべてさえいた。


「ドうしようかナ? キミだけは生かすつもりだったけド、ナんだか気が変わっちゃっタ。ウ~ん……、ソうだナ、一度は楽しませてくれたかラ、キミは後回しにしてあげル」

「な⁉ お、おい!」


 有言実行なのだろう。炎の体を揺らしながら、魔物がすっと歩き出す。

 進行方向の先ではアゲハが四つん這いのような姿勢で戦局を見守っており、逃げ出す素振りすら見せていない。

 理性を手放す時だ。エウィンは己を鼓舞するように声を荒げると、血まみれの右手で殴りかかる。

 しかし、無駄な足掻きでしかない。女は嬉しそうに振り向くと、少年の拳をあっさりと受け止めてみせる。


「く、このぉ!」


 エウィンは怯みながらも左手を突き出すも、それすらも右手で掴まれてしまう。

 この時点で激痛に耐えているのだが、次の瞬間、少年は悲鳴のような叫び声を響かせる。

 なぜなら、潰された。

 既に壊れていた両手を、完膚なきまでに砕かれてしまった。

 受け止められ、握りしめられただけだ。

 そうであろうと、この現実から目を背けることは叶わない。

 手のひらはその形を保てないばかりか、指は一部が折れており、残りは千切れた挙句に脱落してしまった。

 手首から先が完全に破壊された瞬間だ。

 ピンク色の骨が空気に触れている様は、あまりにも痛々しい。

 滴る血液はその勢いを失うことなく、大地に赤色の水たまりを作る。

 戦闘不能だ。蹴り技は繰り出せるだろうが、そうするにも先ずは治療が必要だろう。

 ましてや、戦意も完全に砕かれた。こうまで痛めつけられてしまっては、エウィンとしても死を受け入れるしかない。

 激痛に晒されながら。

 泣き叫びながら。

 敗者らしく、錯乱し続ける。

 矢で射られた時と同等かそれ以上の痛みだ。命に関わる負傷ではないのだが、耐えられないという意味では同類だ。

 強者と弱者。

 勝者と敗者。

 最初から両者の関係は確定していたのだが、この光景が改めてその事実を突きつける。

 見下ろす魔物と、這いつくばる人間。

 弱肉強食の世界において、強い者こそが絶対だ。


「モう諦めちゃうノ? フーん、今回もハズレか、残念。ダけど、暇潰しにはなったかナ。ウん、楽しかったヨ」


 悪びれることなく、それは堂々と歩き出す。もがき苦しむエウィンを置き去りにして、先ほどの宣言通りに先ずはもう一人の人間から始末するつもりだ。

 耳を覆いたくなるほどの悲鳴に包まれながら、アゲハはつぶやくことしか出来ない。


「エウィン、さん……」

「キミには興味ないかラ、サっさと殺しちゃうネ。時間なんて無限にあるけド、雑魚には興味ないかラ」


 アゲハと魔物の視線が交錯する。

 しかし、実際には交わってすらいない。

 彼女の瞳にはエウィンしか映っておらず、迫り来る化け物には目もくれていない。

 だからこそ、歩き出せた。

 恩人が泣き叫んでいるのだから、治療は最優先事項だ。そのための能力を宿しており、その動作に迷いなど生じない。

 魔物との距離がいっきに縮まるも、ぶつかることなく二人はすれ違う。

 行先が異なるのだから、当然と言えば当然だ。

 だからこそ、女はつまらなそうにぼやいてしまう。


「逃がさないヨ」


 冷え切った声が合図だ。

 アゲハの両脚、正確には膝から下側が一瞬にして消滅してしまう。

 斬り落とされたわけではない。

 溶かされたわけでもない。

 足払いのような動作で、背後からジーンズごとその脚を蹴った。それ以上でもそれ以下でもないのだが、その負荷に人体が耐えられるはずもなく、アゲハの脚部は下側だけながらも粉みじんに吹き飛んでしまう。

 まさしく地獄絵図だ。

 両の拳を破壊された傭兵。

 膝から下を失った転生者。

 完全なる敗北だ。

 苦しむエウィンと唖然とするアゲハを見比べながら、道化師だけが声高々に笑い続ける。

 楽しいのだろう。

 楽しんでいるのだろう。

 炎の髪を躍らせながら、満面の笑顔で曇り空を見上げている。

 その姿は絶望そのものだ。

 人間如きが敵うはずもない。そう自覚しているからこそ、つまらなそうに笑ってしまう。

 その時だった。

 魔物は眼下からの物音を聞き逃さない。

 発生源は足を失った人間だ。

 額に脂汗を浮かべながら。

 大粒の涙を堪えながら。

 這うように両腕だけを動かして、ほふく前進を試みている。

 その姿は芋虫のようだ。

 滑稽過ぎる光景だ。

 それでもなお、魔物を驚かせるには十分過ぎるインパクトだった。


「マだ諦めていなイ? マさか、コっちのニンゲンが……? 正解はあっちじゃなくて、こっチ? コんなにも脆いのニ、イったいどういウ……」


 アゲハも瀕死であることに変わりない。

 それでも進む。そうすることが、彼女の全てだからだ。


「エウィン、さん……、エウィン、さん……」


 意識が混濁するほどの激痛だ。

 ましてや、出血も酷い。ズリズリと地面を這っているのだが、太い赤線を二本も描けてしまっている。

 負傷具合はアゲハの方が危険だろう。

 ゆえにエウィンの心配よりも、自身の手当を優先すべきだ。

 そのはずだが、そんな当たり前すら失念してしまうほどに、彼女の意識は少年に向けられている。

 坂口あげは。二十四歳の日本人。

 人間不信に陥ってしまい、大学を中退。

 その後は母からの仕送りに甘えて独り暮らしを継続するも、実態は完全なる引きこもりだ。

 その挙句にアパートの火事に巻き込まれ、その若さで命を落とす。

 しかし、人生は終わらなかった。

 そこから始まってしまった。

 その世界の名は、ウルフィエナ。

 彼女にとっては異世界であり、新天地そのものだ。

 残念ながら、泣くことしか出来なかった。

 自分の置かれた境遇が理解出来ない上、ここがどこかもわからない。恐怖の余り、その場から動くことさえ困難だった。

 大人であろうと、怖いものは怖い。

 ましてや、彼女の心は誰よりも壊れやすい。既にひび割れていたのだから、神は転生における人選を誤ったのだろう。

 腹を空かせ、砂ぼこりにまみれながら、アゲハは一人孤独に泣き続けた。

 これでは引きこもっていた頃と何ら変わらない。

 むしろ、空腹という要素が加わったのだから、より劣悪な境遇だ。

 廃墟のような場所で、泣きながら飢え死ぬしかなかった。

 彼女に出来ることは一つ。己の弱さを嘆くことだけ。

 神でさえ、その在りようには胸を痛めてしまう。

 それほどに、救いのない姿だった。

 しかし、彼らは出会うことが出来た。

 少年の名前は、エウィン・ナービス。貧困街の片隅に住み着いた、十八歳の傭兵。

 手を差し伸べ、匿い、干し肉を分け与えた。

 たったそれだけのことかもしれないが、彼女にとっては十分過ぎた。

 アゲハの最大の目的は、地球への帰還および母親との再会だ。

 しかし、この少年になら命を捧げても構わない。

 救えるのなら、なりふり構ってなどいられない。

 治療のため、地面を這ってでも近づきたい。

 もっとも、エウィンは既に折れてしまった。

 自身の敗北が原因ではない。

 守るべき対象が致命傷を負ってしまった。

 その傷はもはや治せない。

 なぜなら、回復魔法は傷口を塞ぐことは出来ても、失った部位の再生までは不可能だからだ。

 それをわかっているからこそ、少年は起き上がることが出来ない。両膝をついたまま、地を這う彼女を眺めつつも謝罪が精一杯だ。


「ごめん。こんなことに、なってしまって……」


 敗北確定だ。

 それ自体は受け入れられるのだが、アゲハを逃がすことが大前提だった。

 しかし、それすらも砕かれた。

 逃げることすら叶わない。

 彼女のために時間を稼ぐことすら、不可能。

 心が受け入れてしまった。

 自身の死を。

 アゲハの死を。

 二人揃っての、終焉を。


「エウィンさん……、今、治してあげる、から」


 アゲハだけが、否定する。残念ながら、現実を正しく認識出来ていない。

 そうであろうと彼女だけは前へ進もうとしている。その先で恩人が苦しんでいるのだから、治療のためにも直接触れたいに決まっている。

 希望的観測だ。

 無意味な行為だ。

 なぜなら、魔物は未だ健在な上、合流が可能かどうかすら、この化け物が許可するかどうかにかかっている。

 仮にエウィンの拳が治せたとしても、指は欠損したままだ。

 ましてや、再度立ち向かったところで結果はわかりきっている。

 負けるだけだ。

 今度こそ、完膚なきまでに殺されるだけだ。

 考えるまでもない現実なのだが、今のアゲハは歯を食いしばって進もうとしている。

 だからこそだ。

 見過ごすわけがない。

 見捨てるわけがない。

 愛すべき転生者が追い詰められてしまった。

 愛という感情を宿すに至った。

 ならば、手を差し伸べずにはいられない。

 そのための種子は、既に植えられている。

 ならば、このタイミングで発芽しようと不自然ではないはずだ。

 漆黒の闘志が、この周辺を一瞬にして覆いつくす。

 何が起きた? この魔物さえも、息を飲まずにはいられなかった。

 発生源はただの人間だ。

 正しくは、日本人だ。

 地を這う姿はみっともなくとも、これから起こる奇跡の前触れでしかない。


「アドバンスド・アクセス……、スーパーユーザーアクション、ポリシー、フォレスト、ドメイン、更新。リンク完了、準備完了」


 声の主はアゲハだ。

 そのはずだが、別人のように力強く、呪文のような何かを言い淀むことなく詠唱してみせる。

 別人と思わせる最大の要因は、長い髪があっという間に塗り替わったことだろうか。

 本来は真っ黒だった。

 しかし、今では輝かしい青色に変色している。その色は毛先と同色であり、その領域が拡張されたという認識で正しい。


「コれは? ニンゲン、何をしタ?」


 勝ち誇る余裕などない。魔物は目を見開きながら、行く末を見守る。

 始まりだ。

 奇跡が起こる理由は、世界がそれを望むからだ。

 ゆえに、必然と言えよう。

 儀式は続く。

 次の一手が、繰り出される。


「スーパーユーザーアクション、再構築」


 アゲハはなおも無表情のままだ。

 そうであろうと手続きは順調に進む。その合図は、常識を覆す第一歩だ。

 アゲハの失われた足が、一瞬にして再生される。

 細胞。

 骨。

 肉。

 皮。

 それらが断面図から膨張すると、足の形をあっという間に再現した。


「ごめんなさいね、初めての切り替えだったから、少し手間取った。痛かったでしょう? だけど、もう大丈夫。今はそこから眺めてて」


 ジーパンの裾付近は復元されず、残念ながら破れたままだ。靴下も靴も消滅してしており、つまりは素足を晒してしまっている。

 そうであろうとお構いなしに、声の主は立ち上がる。

 その視線は、エウィンだけを凝視中だ。

 この少年を救うために。

 そして、かけがえのないアゲハを守るために。

 舞い降りた奇跡。そのための手順を、ここから行使するつもりでいる。

 もっともそれは、邪魔者がいなければの話だ。


「アッチじゃなイ。コッチが本物なんだネ。イイヨイイヨ! 実に愉快! 種明かしなんていらないかラ、先ずはキミそのものを披露してヨ!」


 はしゃぐように。

 演じるように。

 魔物は道化師らしく両手を広げると、眼前の標的を挑発する。

 相対する彼女だが、しかめっ面を作らずにはいられなかった。


「創造物の分際で、よくはしゃぐ」

「ナ⁉」


 感情の余裕だけなら逆転だ。

 アゲハだった誰かがふんぞり返る一方、魔物は炎の体を傾けながら顔をこわばらせる。

 そんな中、エウィンだけが蚊帳の外だ。彼女らから少し離れた位置で、屈したように動けない。両腕を埋め尽くす激痛は依然として健在であり、脳は先ほどから痺れっぱなしだ。


(何が起きてるのか、さっぱりわからない。死ぬほど痛いし、アゲハさんもアゲハさんじゃないみたいだし……)


 その分析だけは正しい。

 しかし、今出来ることは見守ることだけだ。

 この傭兵ではまるで足りていない。これから起こる衝突は、それほどに常軌を逸した領域だ。


「ワタシのことを知っていル?」

「いいえ、知らない。だから、不思議で仕方ないの。せっかくだし、自己紹介してくれない?」

「名前でよけれバ……。オーディエン、ワタシはそう名付けタ。イや、そう定義しタ」


 魔物の名前はオーディエン。それだけがわかったところで、情報は不足したままだ。

 そうであろうと、彼女は微動だにしない。

 そもそもの前提として、名前そのものに興味などなかった。

 だからこそ、やり取りをあっさりと終わらせる。


「ふーん、やっぱり知らない個体ね。まぁ、いいわ。見逃してあげるからさっさと消えて」


 青色の長髪を揺らしながら、アゲハは最終通告を言い渡す。

 彼女の目的はエウィンの治療だ。そのためには目障りな魔物を排除しなければならない。そういった背景から、ここから立ち去ることを要求する。

 しかし、逆効果だ。目当ての人間が見つかったのだから、オーディエンのテンションは最高潮に達してしまう。


「ダったラ、先ずは遊ぼうヨ!」

「ふん、愚かな」


 超常の戦いだ。

 二人の姿が消えた理由は、もちろん透明になったわけではない。エウィンですら目で追えないほどの速さで、戦闘を開始したためだ。


(何が起きてる? これをアゲハさんが? 信じられない……)


 驚く少年の周辺で、空気が爆ぜるように騒音を奏でる。

 彼女らは足の速さを競っているわけではない。互いが互いを殺すために、音速を越えながらぶつかっている最中だ。

 絶え間ない突風がエウィンの頭髪を乱すも、今以上に負傷しない理由はアゲハがそのように配慮しているためだ。

 正しくはアゲハに宿った誰かなのだが、体を共有している以上、彼女は彼女に他ならない。


(右⁉ 左⁉ は、速すぎる……。気配だけは感じられるけど、認識し終えた時にはもう別の場所に……。だけど、アゲハさんは多分、追い付けてるんだ。実力を隠してた…はずないか。髪の毛が青くなったタイミングで何かが起きたんだ)


 恐怖すら覚える轟音だ。さすがの傭兵も困惑せずにはいられない。


「マさかこれほどとハ! キミって本当にニンゲン?」


 急激に映ろう風景の中、魔物は上体を背後に倒してその蹴りを避けてみせる。その表情は笑みを浮かべており、既に数発蹴られてはいるものの、これといった外傷は見当たらない。


「スーパーユーザーアクション、再構築。まさかはこちらのセリフ……、おまえこそ、本当に何者なの?」


 実は、アゲハの体では戦闘の負荷に耐えられない。

 オーディエンは最初こそ掴みかかろうとしたものの、以降は防戦一方だ。

 にも関わらず、アゲハは体を再生し続ける。ただ走るだけで、つまりは追いかけるだけで、脚部が壊れてしまうからだ。

 変化の時点で肉体は十分強化された。

 しかし、まだまだ足りていない。

 この魔物の相手を務めるには、器の強度が完全に不足している。

 食い下がれてはいるのだが、互角とは言い難い。

 そうであろうと、オーディエンは称賛せずにはいられなかった。


「ワタシはただの観客だヨ! 主役にはなれないシ、ナりたいとも思わなイ! ソして、キミのようなニンゲンをずっと探していタ!」

「意味のわからないことを……。スーパーユーザーアクション、再構築」


 口を動かしながらも、彼女は打撃を繰り出す。脇の開いた、素人のような動作ながらも、その威力は空気が震えるほどの破壊力だ。

 しかし、当たらない。

 かすりもしない。

 オーディエンという化け物との差は随分と縮まったが、優劣を覆すには至らなかった。


「キミのことをもっと知りたイ。ダから、少し試させてもらうヨ?」


 戯言ではあっても、虚言ではない。炎の胴体から独立している右腕を、アゲハよりもスムーズに稼働させる。

 真っすぐ伸ばすそれは単なる打撃だ。俗に言うストレートパンチでしかないのだが、スピードで勝る以上、着弾は必然だった。

 もちろん、彼女も無防備のまま受けるつもりなどない。後方へ跳ねるも瞬く間に追い付かれた時点で、体を捻ってやり過ごそうとした。

 その結果、魔物の拳が対戦相手の左肩近くを消し飛ばす。

 先ほどの再現だ。部位は異なるものの、アゲハは首から肩にかけてを大きくえぐられてしまう。

 僧帽筋の完全破壊だ。肩が凝った際に揉む筋肉なのだが、ここが壊されてしまうと物を持ち上げることが出来ない。


「アゲハさん!」


 噴水のように漏れ出る血液が、エウィンに叫び声をあげさせる。

 あまりに酷い損傷だ。

 そのはずだが、負傷した当人は無表情を貫けている。


「大丈夫、心配しないで。スーパーユーザーアクション、再構築。ほらね」


 敗れてはいないと主張するように、損壊部分があっという間に復元される。

 羽織っていたジャージは左半分が吹き飛んでしまったが、そのことについてもアゲハは気にも留めてはいない。


「スごいすごイ! 反応すら出来ないと思ったのニ、致命傷は避けられたネ。上出来だヨ、合格をあげてもイイ」


 オーディエンは心底満足そうだ。余裕ぶれるほどには余力を残しており、先ほどまでの激戦は玩具を壊さないよう手加減した結果だった。

 ゆえに、次の発言が彼らに恐怖心を抱かせる。


「モう少しだケ、加減を入れてみようかナ。見極めたくてネ、キミの奥底ヲ」


 明らかに遊んでいる。

 道化師のようで、そうではない。他人を楽しませたいのではなく、自分自身が愉悦を極めたがっている。

 アゲハはそう看破するも、その根底について分析するよりも先に、戦況が動き出してしまう。

 気づいた時には遅かった。

 そこにいたはずの魔物が、音もなく姿を消した。

 踏まれていた雑草はゆっくりと揺らいでおり、対照的に彼女自身は棒立ちのままだ。


(どこに?)


 未知の力を扱えるアゲハにさえ、わからない。

 無意味ではあるのだが、候補だけなら思い描けている。

 右か。

 左か。

 後ろか。

 頭上か。

 つまりは、全く絞れていない。前方にいないという事実から消去法で導き出しただけであり、行為としては全くの無意味だ。

 しかし、この中からオーディエンの現在地を当てなければならない。

 なぜなら、その方向から攻撃を仕掛けてくる。

 もしも不正解だった場合、死に直結するほどの致命傷は避けられない。

 確率にすると二十五パーセント。

 残念ながら、分の悪い賭けだ。

 それでも、この内のどれかにベットしなければならない。

 賭けるものは、アゲハの命だ。

 即死さえ免れれば、魔法以上の治療法で人体そのものを復元出来る。

 しかし、最悪のケースを想定するのなら、魔物の位置を見抜いた上でその攻撃を避けるべきだ。

 既に劣勢を強要されているのだから、運否天賦に身を委ねたくはない。

 ゆえに、アゲハは体を動かす。

 どの方角へ?

 最も大事な意思決定がなされない以上、当然ながら回避行動など不可能だ。

 迷っている場合ではない。

 当てずっぽうでも、攻撃の方向を予測して動き出すべきだ。

 二十五パーセントという数値を高める手段などない。

 通常ならば、頭上からの奇襲は排除しても良いのだろう。

 そのはずだが、オーディエンは例外だ。

 この魔物は空を飛べる。エウィンによって開示された貴重な情報であり、今回ばかりは無視出来ない。

 ゆえに、候補は四つ。

 だからこその二十五パーセント。

 あまりに低い確率だ。

 そのはずだった。


「右!」


 少年の声がマリアーヌ段丘に響き渡る。パーセンテージが百に達した瞬間だ。

 その数字が嘘でないことを、アゲハは回避を成功させることで証明してみせる。

 眼球を即座に右へ動かすと、叫び声通りに魔物の姿がそこにはあった。

 炎の髪を躍らせながら、オーディエンが体当たりのような動作で距離を詰め終えていた。

 間髪入れずに右腕の握り拳が疾走するも、鉄拳はアゲハの顔面に当たらない。

 踊るようなステップで、後方へ半歩下がる。シンプルな動作ながらも洗練された仕草だ。迫り来る打撃は、当然のように眼前を通り抜ける。

 そのはずだった。


「ドういうことかナ?」


 空振りに終わるはずの拳が、途中でピタリと静止する。伸ばしきったところで対戦相手には当たらないのだが、そんなことはオーディエンにとっては些末な問題だ。

 今、議論すべきことは別にある。

 直前の声だ。

 つまりは、アゲハを救ったアドバイスなのだが、それがありえないことをこの魔物は誰よりも理解していた。


「エウィン、ナぜわかっタ? キミ如きではワタシのスピードについてこれなイ。ソのはずなのニ……。ドうしてわかったのかナ? 今回ばかりハ、教えてヨ。サすがに看破出来ないシ、微塵もわからなイ」


 魔物の興味は再度エウィンに向けられた。それは戦闘の中断を意味するのだが、随分と一方的な立ち振る舞いだ。

 しかしながら、アゲハは口出ししない。おかげで命拾いしたことも事実であり、オーディエン同様にその傭兵へ視線を向ける。


「信じてもらえないだろうけど、時々、勘が良くなると言うか、魔物のしたいことがわかるんだ。例えば、草原ウサギが僕を蹴る際、どこを狙っているのか。おまえがどこにいて、アゲハさんにどう仕掛けるのか、そういったものが事前にわかる」


 嘘偽りない独白だ。

 目で見ずとも、魔物の居場所がわかる。これも勘のおかげであり、少なくともエウィンはそう自覚している。


「カン? ニわかには信じがたいけド、ウン、信じるヨ。ダって、実際に披露してくれたかラ……」

「そうね。戦技の心眼に似ているけれど、全くの別物。魔物の探知なんて不可能だもの」


 アゲハの言う通り、心眼という戦技でも似たようなことは可能だ。

 攻撃の気配を先んじて感知するという意味では瓜二つながらも、この戦技は効果範囲を己自身に限定している。

 ましてや、発動時間はたったの十秒。

 少なくともエウィンのそれには時間の制限がない。

 戦技とは異なり、スイッチのオンオフすらも必要ないのだから、そういった意味でも破格の性能だ。


「ダけど、心が弱イ。ソの上、弱イ。モッタイナイと思うヨ、出来過ぎた玩具ダ」


 オーディエンはそう切り捨てる。

 エウィンを一度は評価したものの、今ではすっかり弱者扱いだ。決してひ弱な少年ではないのだが、この魔物やアゲハと比べれば、確かに未熟なのだろう。

 しかし、彼女は既に確信を終えている。


「いいえ。この子の目に狂いはなかった。そういった打算は一切なくとも、結果的に巡り会えていた。だったら、それを運命と呼んでも差し支えない」

「言ってる意味がわからないナ。キミの方が遥かに優秀で、エウィンは残念ながら不合格だヨ」

「少し時間をくれない? この子の体では、とてもじゃないけど負荷に耐えられない。だけど、問題ない。だってそうでしょう? あなたを満足させるのは、ワタシ達じゃないもの」

「ソれってどういウ……」


 何も理解出来ていないオーディエンを他所に、アゲハは歩き出す。長い青髪は透き通るような輝きを見せており、衣服がいかにボロボロであろうとその尊厳は失われていない。


「契約するの。まぁ、見てなさい。それとも怖い? そんなはずないわよね? 探しているのでしょう? 将来、あなたを越える存在を……」

「ケイ、ヤク? ソんなことガ、キミにも出来るのかイ?」


 その問いかけは無視して構わない。今から実演するのだから、観客は観客らしく、客席から舞台上を見守っていればよい。

 彼女は歩く。

 そして、合流を果たす。


「待たせたわね。今、その手を治してあげる」

「あなたは……?」


 エウィンが戸惑うのも無理もない。眼前の女性はアゲハのはずだが、外見以外は完全に別人だ。

 自信に満ち溢れた態度。

 オーディエンに食らいつける実力。

 髪の色も今では青一色だ。豊満な肉体やその顔は彼女そのものながらも、心が入れ替わっているとしか思えない。


「ワタシは、そうね……、この子の母親代理ってところかしら」

「え⁉」

「さぁ、手を見せて。酷い有様、痛かったでしょうに。スーパーユーザーアクション、再構築、エウィン」


 本人でないことを認めながら、腰をかがめる誰か。その眼差しは依然としてアゲハのものではないのだが、寄り添うような態度はエウィンを想っている証左だ。

 砕かれ、潰された拳は原形をとどめていない。

 しかし、我慢の時間は終了だ。アゲハの両手が支えるように寄り添うと、少年の右手と左手は一瞬にして復元される。

 エウィンは珍妙な自己紹介と激痛が消え去ったことに驚きを隠せない。


「すごい。ありがとうございます。えっと、その、アゲハさんの、お母さん?」

「ただの代役よ。それすらもおこがましいのだけど」

「それって、やっぱりあなたはアゲハさんじゃないってこと、ですか?」

「ええ。眠っていると言えば近いかしら。実際には夢を見るような感じで眺めているのだけど」


 その返答がエウィンをかろうじて納得させるも、わからないことは多い。

 母親代理とはどういうことなのか?

 アゲハを乗っ取った理由とその仕組み。

 回復魔法以上の治癒能力。

 そういったことを一つずつ教わりたいのだが、その前に確認すべきことがある。


「あれをどうやって倒すんですか?」


 炎の魔物は未だ健在だ。

 この少年よりも遥かに強く、謎の現象により覚醒したアゲハでさえ、最終的には押し負けた。

 逃げることは叶わない。

 勝つことも不可能だ。

 つまりは詰んでいるのだが、母親代理は平然と言ってのける。


「あなたがやるの」

「えぇ⁉」


 驚いて当然だ。

 幸運にも勘が働いたことでアゲハを救えたが、自分が狙われた場合、そうもいかない。

 なぜなら、攻撃が来るとわかったところで避けられないからだ。殴られると事前に察知したところで、出来ることは死を覚悟するだけ。

 例えるなら、エウィンとオーディエンは赤子と大人。

 もしくは、まな板に置かれた魚と、包丁を握る料理人か。

 ゆえに、彼女の発言には信ぴょう性が感じられない。

 にも関わらず、話は当然のように継続する。


「先ずは契約よ。アイツの気が変わる前に。急ぎなさい」

「契約、ですか?」

「もっとも、これは完全に賭けよ。先ず、契約の履行が既に危うい。ワタシは所詮、残滓。だから、与えられた権限は限りなく狭い。受理してもらえるかどうかは、あの人次第……」

「いったい、何を?」


 説明のようで、そうではない。自身の正体についてぼかしており、契約という単語についても一切が謎のままだ。

 少年は中腰のままアゲハと向かうも、状況の把握も覚悟を決めることも出来ずにいる。


「仮に契約が成されても、あなたがその力を使いこなせるとは思えない。この子よりは器が大きくても、まだまだ未熟過ぎる。おそらくは、もって数秒。もしかしたら、一瞬で解けてしまうかも。だけど、やるの。アレを倒すには、現状それしかない」

「な、なるほど……?」


 両者の手のひらは触れたままだ。拳の再生が終わったのだから、本来ならばその時点で手を離せば良い。

 しかし、彼女がそうしなかった理由は、ここからが本題だからだ。


「正式な手続きを一切無視した、過去に例を見ない干渉。だから、付き合ってもらえるとは到底思えない。だけど、ワタシは賭ける」


 覚悟を伴った独白だ。

 オーディエンという災害を退けるためには、現状の手駒では足りていない。

 エウィンでは歯が立たず、今のアゲハでさえ、明らかに劣勢だ。

 炎の魔物は何かを期待するように待ってくれているものの、道化師らしく気分がいつ移ろうかわからない。

 時間はない。

 残された手段の成否について論じる猶予はなく、二人はその手にすがるしかなかった。


「よくわかりませんが、契約とやらをすればいいんですね。そうすれば……」


 エウィンは一旦言葉を区切る。何をやらされるのか一切わかっていない上、そこに至る過程すら不明瞭だ。

 何かをすれば、アゲハのように強くなれるのだろう。

 そこまでは想像出来ているのだが、一切合切が謎だ。

 それでも、決意は揺るがない。

 一度は心を折られてしまったが、アゲハの変貌によって正気を取り戻すことが出来た。

 またもや、助けられてしまった。

 ならば、今度は自分の番だ。

 眼前の女性は説明が下手らしい。

 ゆえに、何もわからずとも、少年は願望を口にすることでそれを決意表明とする。


「アゲハさんと、あなたを守りたい。だから、僕は何でもしますよ。この命、自由に使ってください」


 面と向かっての宣言だ。

 だからなのか、アゲハは無表情を貫きながらも、頬を赤く染める。

 照れているのか。

 恥ずかしいと思ってしまったのか。

 何にせよ、彼女はゆっくりと視線を外すことで平常心を取り戻そうと努める。


「そ、そう。じゃあ、始めましょうか。そのまま動かないで」

「はい」


 意思を確認し終えた以上、ここからは次のステップだ。

 成功するか否かは、わからない。

 それでも、挑戦しないという選択肢を選べない以上、エウィンとアゲハは中腰のまま見つめ合う。

 互いの両手が重なったまま、儀式は音もなく始まった。

 祈るように。

 すがるように。

 二人はピクリとも動かない。

 見渡す限りの草原は、珍しく無風だ。周囲の草達は静かに日光浴を楽しんでいる。

 ゆえに、本来は揺れるはずがない。

 緑色の短髪。

 青色の長い髪。

 彼らの頭髪がざわめき始めるも、それはまさしく合図だった。

 アゲハの体が黒く輝きだす。発光現象と言うよりは、闇をまとった状態か。

 呼応するように、エウィンの体も闇に包まれる。

 手続き完了だ。

 そうであると主張するように、彼女が説明を開始する。


「どうやらうまくいったようね」

「これで強くなれたんですか?」


 発光現象が終息したことからも、儀式は終わったのだろう。

 成否を知るのはアゲハだけだ。

 エウィンは目を丸くしながら、肩の力を抜くことしか出来ない。


「いいえ。準備が整っただけ。さぁ、詠うの。合言葉は、頭の中に浮かんでるはずよ」

「うた……う? あ、これってそういう……」


 アゲハがその手を引っ込めると、エウィンはそれを合図に立ち上がる。

 脳裏に刻まれた、謎のフレーズ。

 歌詞のようでそうではない。

 呪いの言葉なのか?

 許しを乞おうとしているのか?

 何もかもが不明瞭ながらも、促された以上、口ずさむしかない。

 少年が呼吸を整える一方、彼女も静かに立ち上がる。


「さぁ、ワ、ワタシ達を守ってくれるんでしょ?」


 普段とは比べ物にならないほどに、今のアゲハは凛としている。

 そのはずだが、やんわりと照れているように見えるのは、勘違いではないはずだ。


「はい、いきます……」


 準備は整った。

 申請は承認された。

 ならば、ここからはエウィンの出番だ。

 オーディエンが興味津々に瞳を輝かせており、待たせてしまった以上、期待に応えなければならない。


(僕が守るんだ。守らなくちゃ……)


 そうすることが生きる理由だ。

 生き延びてしまったことへの贖罪だ。

 許しを請うように。

 立ち向かうために。

 エウィンはとつとつと言葉をなぞる。


「色褪せぬ記憶は、永久不変の心を顕す」


 それが合図だ。

 空気が震え、草達も呼応するように騒ぎ出す。

 そんな中、アゲハはやはり冷静だ。手続きが完了した時点で仕事を果たしたと考えており、後は見守ることに徹する。

 一方、炎の魔物はしどろもどろになりながらも、悲鳴のような声をあげてしまう。


「マ、マさか! ソんなことガ!」


 立っていることさえ困難なほどに、エウィンの言動に驚いている。

 そうであろうと関係ない。儀式は始まったばかりだ。


「争いの果てに、涙を散らす者達よ……」


 まるで鎮魂歌だ。

 そうであろうと、今は綴る。その先に希望が待っている以上、中断だけはありえなかった。


「我らの旅路を指し示し、絢爛の明日へと導きたまえ」


 突風の発生源はエウィンだ。

 吹き荒れる風が髪や衣服を騒がす一方、その魔物は離れた位置から歓喜の声をあげる。


「ヤっぱりキミガ! イや、キミ達がそうなんだネ! ソの呪文こそが紛れもない証拠ダ!」


 敵であるはずのオーディエンだが、喜ばずにはいられない。赤い髪を振り回しながら、歓喜に震えている。

 叫び声が鳴り響こうと、エウィンは止まらない。儀式は途中ゆえ、完遂させることが最優先事項だ。


「在りし日の思い出と共に、色褪せぬ幻影を抱きし者よ……」


 もう間もなくだ。

 それをわかっているからこそ、アゲハとオーディエンは見守り続ける。


「揺蕩う理想郷で、色褪せぬ想いに寄り添う者よ……」


 世界の名は、ウルフィエナ。

 人間と魔物が覇権をかけて、今日もどこかで争っている。

 これから起こる戦闘も、その内の一つでしかない。

 見守られながら。

 期待の眼差しを向けられながら。

 少年は舞台の上で、最後のフレーズを唱える。


「祝福されし幼子達を、見守りたまえ。蔑みたまえ」


 その瞬間、吹き荒れる風達が最大風力に達する。

 灰色の雲が急激に移ろうも、マリアーヌ段丘だけが眩い理由はエウィンがまとった光のおかげだ。


「これは……?」

「成功ね」


 白い闘気が体からあふれ出る。何かをまとうという意味では類似の強化魔法があるのだが、それとは本質から別種だ。


(すごい、体から力が溢れてくる……)


 ゴブリンに殺されかけ、アゲハに癒してもらった時の再現か。

 過程も状況も異なるのだが、その実感がエウィンを喜ばせる。

 ゆえに、驚きながらも呆けてしまうのだが、彼女だけは冷静だ。落ち着きながらも急かさずにはいられなかった。


「急ぎなさい。その光、すぐに消えるわよ」

「あ、はい!」


 手順をえて、願いは聞き入れられた。

 ならば、立ち止まる必要などない。

 倒すべき相手は、すぐそこだ。手を叩いてはしゃぐ姿は道化師のそれだが、素性を探るのは再起不能にしてからでも遅くはない。

 左脚を後ろに下げ、腰を落とす。わずかな前傾姿勢は意志の表れであり、標的を視界に捉えれば、余韻もなしにエウィンはそこからいなくなる。


「だぁ!」

「ガフッ!」


 値千金の一発だ。仕返しのような打撃が、魔物の顔を容赦なく打ち貫く。

 先ほどはいくら殴ろうと、己の拳が傷つくだけだった。

 しかし、今回は異なる結末を迎えた。傭兵の右手が女の左頬にぶつかると、オーディエンは弾けるように吹き飛ぶ。


「まだだ!」


 倒せたとは思えない。エウィンは再度駆け出すと、地面にぶつかりながらも遠ざかる魔物に追い付いてみせる。

 その結果、両者の視線は一瞬だけ交錯する。

 しかし、一瞬だ。

 なぜなら、女の顔面を傭兵が容赦なく踏み抜いたからだ。

 オーディエンの頭部が大地にめり込み、その衝撃が地面を引き裂きつつも咆哮のような騒音を生み出す。鳴り響く振動が、ここが戦場であることを想起させるほどだ。

 その中心には二人の姿。

 真っ白なオーラをまとった、みすぼらしい傭兵。

 顔を踏みつけられ、動くことさえ叶わない魔物。

 どちらが優勢かは、誰の目からも明らかだろう。

 しかし、油断は厳禁だ。それをわかっているからこそ、エウィンは足をどかしながらも闘志を霧散させない。

 警戒も継続だ。必要とあらば、更なる追撃を試みるつもりでいる。

 手応え自体は申し分なかったが、魔物の顔に傷は見当たらない。苦悶の表情を浮かべてはいるが、討伐にはほど遠いと傭兵の勘が告げている。

 エウィンが半歩下がった理由は、身構えつつも状況把握のためだ。

 この魔物は人間と同様に頭部があり、四肢も生やしている。

 しかし、胴体部分は大きな火球だ。腕や足はそれぞれが独立するように浮遊している。

 そういった構造ゆえに、非常識な反撃もあり得るだろう。

 強くなれたとは言え、手痛い一撃をもらうわけにはいかず、エウィンとしてもオーディエンの思惑を探らざるをえない。


(ぐったりしてるけど、演技っぽい気もする……)


 半信半疑だ。

 当然だろう。相手はそれほどに手ごわい魔物ゆえ、警戒し過ぎるくらいが丁度良い。

 白い闘気は未だ健在だが、焦ってはならない。今のアゲハでさえ押し込まれてしまったのだから、眼下のこれは紛れもない化け物だ。

 その時だった。


「降参するヨ、ワタシの負けダ」


 仰向けに倒れたまま、オーディエンの口がゆっくりと動く。

 耳を疑う発言だ。

 さすがのエウィンも眉をひそめながら言い淀んでしまう。


「な、え? 何を……」

「キミの実力を見誤っていタ。ホら、コの通り、ワタシはもう戦えなイ」


 魔物は起き上がる素振りすら見せず、苦しそうに口だけを動かす。

 その姿は紛れもなく敗者ながらも、エウィンを納得させるだけの説得力を持ち合わせてはいない。

 しかし、彼女は違う。いつの間にか合流を果たしたアゲハが、見下しながら言い放つ。


「そう。だったら、今日のところは見逃してあげる。さっさとこの場から立ち去りなさい」

「え⁉ アゲハさん……のお義母さん、それでいいんですか?」

「その呼び方には疑問を呈するのだけど。あなた、もう時間切れでしょう?」


 彼女の言う通りだ。

 エウィンがまとう闘気が、本人のやる気とは裏腹に縮み始めている。

 ついには霧散し、そこにはボロボロの傭兵が一人。ドーピング終了のお知らせだ。


「あ、ほんとだ……。本当に時間が短い。戦技みたいなものなのか」


 身体能力を一時的に高める手段として、戦技と強化魔法が挙げられる。

 戦技は魔源を消耗しない代わりに一部を除いて効果時間が非常に短い。

 対して、強化魔法は分単位での持続が可能だ。

 そういった意味では魔法の方が利便性は高いのだが、使用の際は詠唱が必要なことから、即時発現の戦技とは使う用途が異なる。


「言われた通リ、ワタシは大人しく撤退するヨ。敗者は敗者らしク、ネ。ソの前の一ついいかナ?」

「本当はこの場で殺したいのだけど、それはまたの機会にさせてもらうわ。で、何?」


 アゲハとしても、この魔物を生かしたままには出来ないと考えている。

 しかし、とどめを刺すことなど不可能だ。それをわかっているからこそ、口裏を合わせるように話を進める。


「キミの名前は?」


 オーディエンの視線はアゲハに向けられており、だからこそ両者の視線は交錯中だ。


「名前なんてないわ」

「え? じゃあ、今後もお義母さんって呼ぶしかないような……」

「あなたは黙ってて」

「はいぃ……」


 条件反射で会話に乗っかってしまったが、威圧的な態度には屈するしかない。

 エウィンが萎縮する一方、魔物は地面に寝そべったまま、楽しそうに笑みをこぼす。


「奇遇だネ。ワタシの知り合いにも一人、名無しがいるヨ。不便だからつけさせたけド。ダからかナ? キミ達はどこか似ていル」

「そんなはずないでしょう。いったいどこが……」

「キミは世界の根幹に触れていル」


 その瞬間、この場の空気が凍り付く。

 理解していないのはエウィンだけだ。話の内容が意味不明過ぎるため、オーディエンを警戒しながらも、つまらなそうに頭や背中をかいてしまう。

 アゲハは無表情を維持しようと努めるも、実際にはそう見えるだけだ。内心では驚きを隠せない。


「アンタ、何を知っているの?」

「ワタシは何も? ダけど、名無しの彼女は探求者だからネ。世界の謎を解き明かそうと日夜研究に励んでるヨ? 別の世界が存在することに気づいテ、今では行き来することさえ可能だからネ」


 この返答がアゲハに舌打ちをさせるも、エウィンはそれどころではない。

 半信半疑ながらも魔物に寄り添い、食らいつくように問い詰める。


「それって本当⁉」

「ウん、嘘をついても意味ないからネ」

「だったら、地球っていう世界にも行けるってこと⁉」


 これこそが彼らの目標だ。

 日々のほとんどを金策に費やしているのだが、それは生きるために他ならない。

 可能なら、地球への帰還方法を探したいと思っていた。アゲハとそう約束したのだから反故にするつもりなどなく、しかしながら進捗は芳しくない。

 手がかりは皆無だ。

 そもそもの前提として、見つかる方がありえない。

 この世界の住人は、地球という惑星を認知しておらず、夜空に浮かぶ星の一つがそうなのかすら未解明だ。

 スタート地点から動けていない理由は貧困に他ならないのだが、仮に裕福であろうと困難な道のりだろう。

 だからこそ、オーディエンの発言には飛びついてしまう。真偽の確認は必要ながらも、今は藁にも縋る想いだ。


「知りたいかイ?」

「知りたい!」

「ナぜ?」

「この人を……、えっと、この人の中の人? えぇい、面倒くさい! アゲハさんを地球に戻してあげたい!」


 ついに見つかった手がかりだ。内情を明かすことは悪手のようにも思えたが、少年は前のめりに白状してしまう。

 その結果、魔物は弱った演技を止め、満面の笑みを浮かべ始める。


「実に愉快。ファファファファファファファファ!」


 笑いを堪えられるはずもない。

 演劇のシナリオが完成したうえに、それを演じる主役が見つかった。

 至上の幸せだ。正しくは、その果てでこそ願いが叶うのだが、オーディエンは幸福を噛みしめながらゆっくりと浮かび上がる。


「逃がすか!」


 横たわったまま浮上を開始した魔物の足を、エウィンはぶら下がるように捕まえる。

 その結果、両者はじわりじわりと上昇を続けるも、オーディエンは心底笑った後に誤解を解き始める。


「マだ逃げないから安心しテ。ダから、離していいヨ」

「そ、そう、ですか……」


 早とちりだと気づかされた以上、傭兵は恥ずかしそうに落下する。

 その高度は低いとは言え、二階建ての戸建ての屋根から飛び降りる程度の高さか。普通なら足を痛めかねないのだが、エウィンは直立不動のまま着地してみせる。


「キミ達はチキュウに行きたい、ト」

「そうだ! 僕じゃなくてアゲハさんだけど!」

「ナるほどなるほド、キミのことがわかりかけてきたヨ」


 大きな瞳がわずかにずれるとと、その中心にはアゲハの姿。青い髪はわずかに乱れているものの、破けたジャージやジーパンと比べれば些細なものだ。

 見抜けるはずがない。

 理解が及ぶはずもない。

 そのはずだが、彼女は違和感を覚えずにはいられなかった。


(こいつが理外の魔物だった時点で、もっと警戒すべきだった。だけど、今はこの子達が生き延びることだけを考えないと……。これ以上の刺激を避けるためにも、黙ってやり過ごす)


 ゆえに、挑発を受け流すように沈黙を選ぶ。オーディエンは楽しそうに浮かんでいるが、アゲハはその光景を眺めるだけの案山子だ。

 対照的に、魔物のテンションは最高潮に達してしまう。


「エウィン! 知りたいかイ? 知りたいかイ⁉」

「知りたい! 教えてください!」


 当然の願いだ。その結果、アゲハと離れ離れになろうと、ためらう理由にはならない。

 そもそもの前提として、エウィンは自分の命を軽んじている。

 母に庇われ、生き延びてしまった。

 だからこそ、アゲハという人間が眩い。

 彼女は故郷に戻り、母親に会いたがっている。

 その動機はエウィンには決して抱けないものであり、自分達の命を天秤にかけた場合、釣り合うことなくあっという間に傾いてしまう。

 もちろん、アゲハの側にガタンと落ち込む。少なくともこの少年はそう捉えており、だからこそ、彼女の願いを叶えることが最優先事項だ。

 その過程で自分が死んでも構わないと思っている。

 むしろ、そうなりたいと願ってさえいる。

 もはや自殺願望の一種だ。エウィンという人間の根底にはそういった欲求が潜んでおり、呪いという単語の方が適切なのかもしれない。

 そうであろうと、アゲハを手伝いたいという心情も本心の一つだ。

 だからこそ、負けじと声を張り上げた。

 魔物相手にすがるという構図は不甲斐ないのだろう。

 それでも、今は帰還方法を教わりたいと願ってしまう。

 その結果が、これだ。


「イヤだ、って言ったラ?」

「な⁉」


 見下すような返答が、少年に言葉を詰まらせる。

 アゲハだけが冷静さを保つ中、エウィンは悲しむように苛立つも、その仕草でさえオーディエンにとっては娯楽の一つだ。


「ソんなに怒らないでヨ。キミには、キミ達にはやる気を出してもらいたいシ、ソうだナ……。ワタシを殺せたラ、ソのあかつきには異世界に招待しよウ。ソれでいいかナ?」

「いいはずないだろ! 死者がどうやって地球に案内するんだ!」

「ソの点は大丈夫。サっきも言ったろウ? 世界の行き来は、ワタシではなく知り合いの領分だっテ。キちんと手筈は整えておくから安心してくれて構わなイ。ソの時が来たラ、キっとキミ達の前に現れるヨ」


 大きな口がペラペラと動くも、エウィンは半信半疑のままだ。悔しそうに見上げながら、苛立ちをぶつけるように確認する。


「本当だな?」

「ホントウホントウ。デもさ? ワタシはそう簡単には死なないヨ? 今日みたいなサービスも二度としなイ。マぁ、ワタシの方からキミ達の前に現れることもないかもしれないけド」


 つまりは、奇襲の心配は不要ということだ。

 それはそれでエウィンにとってはありがたいのだが、苛立っている頭ではそこまで理解が及ばない。一瞬だけ歯を食いしばると、食い下がらずにはいられなかった。


「だったらどうしろって言うんだ!」


 この問いがオーディエンを心底喜ばせる。

 待ちわびた瞬間だ。誘導尋問が成功したのだから、用意していたセリフを台本通りに読み上げる。


「簡単なことサ。モっともっと強くなっテ、王国を救ってみせてヨ」

「王国を? なんのこと?」

「近い将来、王国は滅びル。ナぜなら、アルジが目覚めるからネ」


 魔物がつらつらと話す一方、地上の二人は両極端の反応を示す。

 エウィンはしかめっ面のまま首を傾げてしまう。

 対して、アゲハに宿った彼女は押し黙ったままだ。しかし、実際のところは理解を終えていた。


(そう、そういうことなの。だとしたら最悪、この時代に解き放たれるなんて……。そんなことってありえる? ううん、あるんだわ。コイツならそれが出来る。だけど、やっぱりわからない。この子達に何をさせたがっているの?)


 この点だけはオーディエンも想定していなかっただろう。

 ここに、事情を知る者が一人。アゲハやエウィンに共有するつもりはないのだが、彼女だけが真相を見抜いてしまった。

 しかし、依然として大きな謎が残っている。

 この魔物は彼らを見逃すつもりでいる。負けた振りからもそれは明らかだ。

 大根役者であることは仕方ない。客席の観客に演技力を求める方が無理な話だ。

 空中に浮かび上がりながら、炎の魔物はなおも演じ続ける。


「デもネ。安心してくれて構わなイ。本当はすぐにでも解放したいけド、サすがに時期尚早ダ。ニンゲンが滅んでしまったラ、ソれはそれでツマラナイからネ」

「はい! 意味がわかりません!」


 先ほどまでの緊迫した空気は消え去った。

 エウィンは生徒のように挙手すると、本音を明かして補足を求める。

 わかるはずがない。

 わかるよう、説明してすらいない。

 全てを明かすつもりがないのだから、オーディエンの挙動は道化師そのものだ。

 そうであろうと教えを乞われたことから、教鞭を振るう。


「ドこがわからなのかナ?」

「全部です! とりあえず主って誰ですか⁉」

「ヒミツ」

「おい! くぅ、こいつはそういう奴だった……」


 少年は苛立つように肩を落とす。大事な情報がぼかされ続ける状況は、ただただ不快だ。

 一方のオーディエンだが、人間の喜怒哀楽ですら楽しめてしまうのか、その表情は満面の笑みを浮かべている。

 しかし、そろそろ終幕だ。他者を見下すように浮遊しながら、〆の言葉を紡ぎ出す。


「キミ達はまだまだ脆弱ダ、モっともっと強くならないト。サもないト、チキュウに戻るなんて到底出来なイ」

「王国が終わるってどういうことだ⁉」

「死にたくないでショ? 楽しみたいでショ? ダったラ! 強くなろうネ!」

「無視された……」


 エウィンの問いかけは届かない。魔物はそれほどに興奮しており、言い換えるなら自分の世界に浸ってしまっている。


「時間をあげるかラ! ソれまではワタシもアルジも待ってあげル! モっともっと強くなっテ、ワタシを楽しませてヨ!」


 別れの言葉としては不適切だが、オーディエンは声高々に叫ぶと、急激に高度を上げて地平線まで飛び去ってしまう。その速度は傭兵の走力以上ゆえ、当然ながら追いかけられるはずもなかった。

 理解が追い付かない。エウィンは呆けるように尻もちをつくと、両手も使って自身を支えながら曇り空を見上げる。

 そろそろ雨が降りそうだ。灰色の雲は不気味なほどに暗く、周囲の空気もヒンヤリと湿っぽい。


(生き延びられたけど……。アゲハさんを元の世界に戻す方法も見つかったような気がするけど……。何だろう、このもやもや感は……)


 頭の中はぐちゃぐちゃだ。疲労感も相まって情報の整理にエネルギーを割けない。

 今はまだ午前中。昼食を食べるにはまだまだ早い時間帯と言えよう。

 しばらくはこの場から動きたくない。濃厚な時間を過ごしたことから、このまま緑色のカーペットに寝転がりたいくらいだ。

 二度寝も許されるだろう。

 戦って、両手を潰されて、また戦って。

 その成果が異世界に関する手がかりだ。

 オーディエンという魔物を倒すことで、地球への帰還が可能となるらしい。にわかには信じられないが、今はすがるしかなかった。


(だけど、勝てるのか? あいつ、絶対手を抜いてた……。でも、何のために? 僕の実力を推し量るため? ほんと、意味わからない)


 心の中で愚痴ろうと、何も始まらない。そんなことは重々承知しながらも、エウィンは渋い顔を作りながら雲の動きを傍観し続ける。

 歩きたくない。

 立ち上がりたくない。

 それゆえに、消去法で導き出した姿勢だ。

 少し休めば体力は戻るだろうが、白いオーラをまとった反動か、今は心身共に限界を越えて疲れ切っている。

 もっとも、そうであろうと彼女はスパルタだった。


「さっさと立ちなさい。そろそろ帰るわよ」

「え⁉ あ、忘れてた……。アゲハさんもといお義母さん、お尋ねしたいことが……」

「何?」


 座ったまま振り向くと、そこには髪の毛が青一色の女性が立っていた。

 アゲハの体に宿った、誰か。彼女のおかげで命拾いしたのだが、少年は時間稼ぎも兼ねて質問を投げかける。


「本当のお母さんではないって言ってましたが、それってアゲハさんの旦那さんのお母さんってことですよね?」


 つまりは配偶者の母親と推測した。それゆえに先ほどから義母と呼び続けているのだが、彼女はあっさりと否定する。


「全然違うわ」

「あ、そうですか……」

「そもそもこの子は、異性と付き合ったこともなければ手を繋いだことすらないもの」

「その暴露は本人を傷つけかねないので、ほどほどにしてあげた方が……」


 なぜかエウィンの方が気を使ってしまう。

 アゲハに宿った彼女曰く、体の持ち主はこのやり取りを眺めているはずだ。

 恋愛経験を他者から明かされることは気まずいだろうと考え、少年はやんわりと諭させるも、その努力は無駄に終わる。


「小さな頃から人見知りで、友達もほとんどいなかった。親譲りの大きな胸にもコンプレックスがあったみたいで、そのせいで男嫌いを加速させて……」

「あの、それ以上は……」

「その挙句に引きこもっちゃって、ついには大学を辞めちゃうなんてね。せっかく通わせてあげたのに、なんて恩義せがましく言うつもりもないのだけど」

(アゲハさん、きっと慌てふためいてるんだろうな)


 エウィンの予想は正しい。

 この問答もしっかり聞こえているのだから、アゲハは体を乗っ取られながら泣き叫んでいるはずだ。


「それでも、かわいい娘なの。だからこうして……、何でもないわ」

「はぁ。と言うか、やっぱりアゲハさんのお母さんじゃないですか」


 そう自白したのだから、疑いようのない事実だ。

 そのはずだが、彼女は首を左右に振る。


「いいえ。ワタシは所詮紛い物。母親の代理って言い方も、ひどく傲慢。そう言いたいだけの、単なるわがままよ」

「い、色々事情があるんですね……。だったら、僕は何て呼べばいいんですか?」


 このままでは、やはり義母と呼ぶしかない。

 エウィンとしてはそれならそれで構わないのだが、事実に反するのなら正したいに決まっている。


「好きに呼んでくれて構わないわ。それに……」

「じゃあ、おばさんとか? うぐっ⁉」


 シンプルな失言が、少年の頭頂部にかかと落としを呼び込む。その威力は凄まじく、あまりの痛みに全身が死後硬直のように固まってしまう。


「もう一度言ってみなさい」

「ごめんなさい……」


 エウィン・ナービス、十八歳。口は禍のもとだと学習した瞬間だ。

 出血の有無を確認するように頭を摩るも、その程度では痛みは和らがない。それでもそうしながら謝罪する姿は、イタズラを叱られた子供そのものだ。


「あなたのように、私もそろそろ時間切れ。この子の負荷を考えるとそうポンポンと出てこないから、次はいつ会えるかわからない」


 名無しの女性が言う通り、アゲハの髪に変化が現れる。

 宝石のように青い長髪が、根本の方からその色を手放してしまう。徐々に黒色が増しており、本来の姿を取り戻そうとしている。

 その様子を前に、エウィンは慌てて立ち上がると、彼女と向き合いながら口を開く。


「あ、その、ありがとうございました」

「この子のこと、頼むわよ」

「はい!」


 ハツラツとした返事と同時だった。アゲハの表情から覇気が消え去る。

 元の人格に戻った瞬間だ。


「エウィン、さん、大丈夫、だった?」

「はい、アゲハさんと……、結局何て呼べばいいんだろう? と言うか、アゲハさんは今の人のことをご存じなんですよね?」

「ううん、知らない人」

「えぇ⁉」


 当然の反応だ。

 つまりは見知らぬ誰かに憑依されていたのだから、驚嘆の声が漏れてしまう。

 にも関わらず、当の本人は平然としている。そのわけを、今から説明してくれる。


「だけど、お母さんに似てる、気がする。それに、すごく優しいと言うか、私のことを、本気で心配してくれてて……」

「ふ~む。じゃあ、いったい……。とりあえず今は、おばさんって呼ぶしかグホッ!」


 エウィンの鳩尾にボディーブローが突き刺さる。


「もう一度、言ってみなさい」

「大変申し訳ございません……」


 アゲハの髪は真っ青だ。つまりはそういうことだった。

 謝罪を受け、髪の毛が先端を除いて黒色に戻るも、少年の瞳からはホロリと涙が零れてしまう。


「あ、その、大丈夫?」

「アゲハさん、その人が出てきそうな時に踏ん張ってせき止めたり出来ないんですか? このままだと僕の体が持たないかもです……」

「ご、ごめん、なさい。勝手がわからなくて……」


 朝食のパンとおにぎりが口から飛び出そうなほどには痛い。自業自得なのだが、傭兵は世の中の不条理を噛みしめる。


「とりあえず、今日はもう撤収しましょう。なんか、その、僕の体もそろそろ限界そうで……」

「あ、うん、そうだね」


 本日の鍛錬は中止だ。

 その案に異論が出るはずもなく、二人は肩を並べて帰路に就く。

 一日は始まったばかりだが、彼らの疲労はピークに達してしまった。

 もしくはそれ以上か。

 トボトボと歩く姿は老人のようだが、歩けているだけありがたいと思うしかない。

 それほどの死闘だった。

 生きていることが奇跡そのものだ。

 オーディエン。炎の体と人間の手足、そして女の顔を持ち合わせた、謎の魔物。

 これに目を付けられたばかりか、戦ったうえで生き延びられたのだから、帰宅後は好きなだけ惰眠を貪れば良い。

 新たな出会いもあった。

 母親の代理を自称する、アゲハのもう一つの人格。本当の母ではなかろうと、アゲハは親近感を持っており、そういう意味でも謎の存在だ。

 わからない。

 わかるはずもない。

 そうであろうと、彼らは受け止め、受け入れるしかない。

 エウィンはアゲハとの約束を果たすため。

 アゲハは母と再会するため。

 地球へ送り出したい。

 地球へ帰りたい。

 そのための手段は提示された。

 オーディエンの討伐だ。

 長い道のりになるのだろう。エウィンはそう感じながら、痛む頭頂部と腹部を交互に摩りつつ、草原地帯をゆっくりと歩る。

 世界の広さを痛感した。

 己が未熟であることを、わからされた。

 だからこそ、前へ進み続ける。立ち止まったところで、彼女を元の世界には戻せない。それをわかっているからこそ、今日は休むが明日からは魔物を狩る。

 ウルフィエナ。人間と魔物が殺し合う、在りし日の理想郷。

 エウィンはこの世界で生を授かった。

 アゲハはこの世界に転生させられた。

 そして、二人は出会った。

 運命であろうと偶然であろうと、道が交わった。

 ならば、ここからは二人で歩く。

 利用していようと。

 依存していようと。

 動機など、どうでもよい。

 時間はいくらである。

 ましてや、彼らは二人っきりだ。

 新たな感情を育むにしても、焦る必要など微塵もない。

 全てを乗り越え、彼らはいつの日かたどり着く。

戦場のウルフィエナ~その人は異世界から来たお姉さん~

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