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白波 灯
219
鬼霧宗作
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おお、また進んだね!千紘が「離婚したい」って迷わず言えたシーン、鳥肌立ったわ。遼介の「君は俺と離婚できないよ」って言い放つ余裕、むかつくけどちゃんと夫のリアルな支配欲が描かれててリアリティあるな。そして母の「医師である前に、裏切られた人間でしょう」の台詞、めちゃくちゃ沁みた。録音してる千紘、頭いいなあ。続きめっちゃ気になるよ!
喫茶店を出たあと、私はそのまま実家へ向かった。
玄関を開けると、母が台所から顔を出した。私の肩に掛かった旅行鞄を見ても、すぐには何も尋ねなかった。
「おかえり。味噌汁、温め直すね」
食卓には父が使っていた湯呑みが残っている。父を亡くして十七年。母は再婚せず、仕事を続けながら私と莉央を育てた。
湯気の立つ椀を前にして、私は夫と真帆のことを話した。
二年間の不倫。妊娠。航平が自分の子だと信じていること。遼介が私との離婚を真帆へ約束しながら、私には離婚しないと告げたこと。
最後まで口を挟まなかった。
「離婚したい?」
「分からない」
「遼介さんをまだ好き?」
「私が好きだった遼介が、本当にいたのか分からなくなった」
研修医だった頃、遼介は父親への劣等感を隠しきれずにいた。二浪した過去を恥じる彼へ、私は諦めずに続けた時間だと言った。
彼は救われたと笑った。
あの笑顔まで全部嘘だったとは、まだ思いたくなかった。
でも、私が支えて、少しずつ取り戻したはずの自信を、遼介は親友を口説くために使った。
私が渡したものを、私を傷つけるために使われた。その事実が、ひどく苦しかった。
「今すぐ決めなくていいよ」
私の前へ漬物の小皿を置いた。
「ただし、帰る場所がないと思って耐えるのはやめなさい。離婚しても、あなたが医師として積み上げたものも、娘として生きてきた時間もなくならない」
「私、産婦人科医なのに、真帆のお腹の子を見たくないと思った」
「医師である前に、裏切られた人間でしょう」
私は椀を持ち上げた。味噌の匂いが鼻へ抜けた瞬間、張りつめていた喉が震える。
「真帆さんのお腹の子に罪がないことと、あなたが傷ついたことは別の話よ。子どもを憎んではいけないからといって、母親まで許す必要はない」
涙が一滴、味噌汁へ落ちた。
慰めるように肩を抱くことはなかった。ただ、冷めた椀を台所へ運び、新しいものをよそってくれた。
その夜はほとんど眠れなかった。
翌朝、鏡の前で目元を冷やし、病院へ向かう。夫の不倫を知った医師だからといって、外来の予約は減らない。
診察室へ入る前、検査資料を持った慧に呼び止められた。
「顔色が悪いですね」
「寝不足です」
「診療はできますか」
「できます」
私が即答すると、数秒こちらを見た。
「なら、患者の前では普段どおりに。無理になった時点で交代を申し出てください」
「命令ですか」
「確認です。先生が倒れれば、患者にも負担が掛かります」
余計な励ましも、事情を聞き出す言葉もない。
「分かりました」
腹は立たなかった。今の私には、同情よりも仕事へ戻るための境界線がありがたかった。
午前の外来を終える頃、遼介が産婦人科医局へ現れた。
「五分だけ話したい」
「勤務中よ」
「だから、ここへ来た」
人目のある場所で断れば、遼介は私が感情的になっていると周囲へ印象づけるだろう。
私は空いている面談室へ向かった。扉を閉める前に、白衣のポケットの中でスマートフォンの録音を開始する。
「真帆ちゃんとは別れる」
椅子へ座るなり、切り出した。
「妊娠しているのに?」
「認知もする。養育費も払う。それで父親としての責任は取れる」
「真帆には、私と離婚すると約束したでしょう」
「あいつが不安定だったから、安心させる必要があった」
「私には、関係そのものを否定した」
「家庭を壊すつもりはなかったんだ」
「壊したつもりがないなら、今も壊れていないと思ってるの?」
額を押さえ、苛立った息を吐いた。
「千紘。俺が愛しているのは君だ。真帆ちゃんは、俺を必要としてくれただけだ」
「私は、あなたを必要としていなかった?」
「君は一人で何でもできるだろう。俺がいなくても医者になれた。患者にも上司にも評価される。家でも俺に頼らない」
「だから、頼ってくれる女性と不倫したの?」
「そうやって何でも正論にするところが息苦しいんだ」
私の能力を愛したと言って結婚した男が、今はその能力を裏切りの理由へ変えている。
「私たちの子どもは、専門医を取るまで待とうと言ったよね」
「君のキャリアを考えたんだ」
「私との子どもは待たせて、外では父親になった」
「真帆ちゃんの妊娠は予定外だ。俺たちの夫婦関係とは別だろう」
胸の奥で、張りつめていたものがぷつりと切れた。
もう、この人に分かってもらおうとするのはやめよう。
「離婚したい」
初めて、迷わず言えた。
遼介の顔から苛立ちが消える。
「それは認めない」
「あなたの許可は要らない」
「感情的になるな。親父の病院のこともある。君が産婦人科を担う話は、金融機関にも伝わってる」
「私は了承していない」
「夫婦で話してきただろう」
「あなたとお義父さんが、私のいない場所で話しただけでしょう」
椅子の背へ体を預けた。
「大学病院で勤務医を続けるより、久世記念病院で責任者になった方が君のためでもある」
「私の将来を、不倫を隠すための道具にしないで」
「君は何でも自分で決めたがる。そういうところが男を追い詰めるんだ」
白衣のポケットの中で、録音時間が進んでいる。
「今後の連絡は文章で残して。離婚については弁護士へ相談する」
「そこまでするのか」
「二年間の不倫と妊娠を、夫婦喧嘩として処理するつもりだった?」
椅子から立ち、扉へ手を掛けた時、遼介の声が背中へ刺さる。
「君は俺と離婚できないよ。久世家を敵に回して、大学病院で今までどおり働けると思うのか」
遼介は脅しているつもりすらない顔をしていた。
それが、自分に与えられた当然の権利だと信じていた。