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「弁護士の知り合いがいます」
遼介に仕事まで脅された翌日、昼休みの休憩室で慧に言われた。
私はイヤホンを外し、再生していた録音を止める。扉を閉めたつもりだったが、最後まで閉まりきっていなかったらしい。
「聞いていたんですか」
「内容を聞くつもりはありませんでした。ただ、医局と離婚という言葉が聞こえました」
「誰にも話さないでください」
「話しません」
スマートフォンへ一件の連絡先を表示した。
「橘智哉。大学時代の友人で、離婚と医療法人の案件を扱っています。必要なら紹介します」
「事情も知らないのに?」
「ご主人が医局の影響力を持ち出した時点で、夫婦だけで話す段階ではありません」
「紹介したあと、あなたにも報告しろと言われる?」
「言いません。相談するかどうかも、何を話すかも先生が決めてください」
必要な道だけを教えて、その先へ勝手についてこようとはしない。
こういう距離の取り方もあるのだと、少し驚いた。
遼介は私のためだと言いながら、私の進路も婚姻も決めた。慧は選択肢を渡し、私が選ばなくても責めない。
「連絡先、送ってください」
「分かりました」
その日のうちに相談予約を取り、三日後、駅前の法律事務所を訪れた。
橘智哉は、柔らかな口調で最初に線を引いた。
「榊原から聞いているのは、久世先生が離婚問題で専門家を探しているということだけです。相談内容を彼へ伝えることもありません」
私は時系列をまとめた紙を机へ置いた。
病院では結婚後も旧姓の高瀬を通称として使っているが、戸籍や契約上の氏名は久世千紘だ。医療現場での呼称と法的な氏名を分けて記録してもらう。
真帆の妊娠を診察した日。遼介の通知。ホテルの予約。電話越しの声。結婚記念日の領収書。ネックレスとカード。莉央が夫婦の家へ居座っていること。そして、遼介が久世家と医局を使って私の仕事を脅した録音。
結論を急がず、知った経路を一つずつ確認していく。
「水野さんの妊娠週数や検査結果は、医師として得た情報ですね」
「はい」
「それは不貞の証拠へ使いません。ホテルの利用履歴、私生活での本人の発言、相手が任意に提供したメッセージと分けます」
「診察中に見た通知は?」
「疑いを持った経緯としては伺いますが、争いの中心には置かない方が安全です」
胸の奥にあった不安が少し薄れた。
医師として守りたいものと、離婚のために必要なものを、混ぜずに進められる。
「夫との会話を録音するのは?」
「ご自身が会話へ参加している場合、交渉や手続きで検討できます。原本を加工せず保存してください。挑発して発言を引き出す必要はありません」
「夫のスマートフォンは見ていません」
「今後もロックを解除して調べることは避けてください。共有口座、共有カード、共同生活のため自宅へ届いた書類は、範囲を確認しながら保全しましょう」
遼介の録音を聞き、再生を止めた。
「離婚へ応じなければ医局で働けなくなる、という趣旨ですね」
「本人は現実を説明しただけだと言っています」
「その発言が事実かどうかと、圧力として使ったことは別です。勤務先へ今すぐ申告するかは、証拠と影響を見て決めましょう」
続いて、久世記念病院の理事就任について尋ねられた。
「婚約時にも、結婚後にも、正式な説明はありません。義父は銀行へ、私が産婦人科を担うと話していました」
「今後、理事就任、出資、連帯保証、事業承継に関する書類を出されても、その場で署名しないでください」
「病院の経営に問題があると思いますか」
「まだ推測です。ただ、ご主人が離婚を拒む理由として病院を挙げている。家庭問題だけではない可能性があります」
私は正式に依頼することを決めた。
費用と手続きの流れを説明し、委任契約書を一項目ずつ読み上げていく。急いで署名を求めず、分からない言葉があれば止める。
「受任後、ご主人へ通知を送ります。離婚に関する連絡は、原則として私を通すよう求めます」
「同じ病院なので、完全には避けられません」
「業務上必要な会話と、私生活の交渉を分けてください。面談を求められても、一人では応じないこと」
旧宅へ残した私物は一覧を作り、第三者と取りに行く。施錠された場所を開けたり、遼介の端末へ触れたりしない。給与の振込先は個人口座へ変更するが、共有口座の金を一方的に移さず、現時点の残高と履歴を保存する。
離婚を決めても、翌日から生活の全てが分かれるわけではない。
「勤務先へ報告する必要はありますか」
「現段階で私生活の詳細を説明する必要はありません。ただし、ご主人や義父が医局を使って圧力を掛けた場合は、録音とともに正式な窓口へ相談します」
「先に、私が家庭を捨てたと話されるかもしれない」
「全員へ反論して回らないでください。法的、職業的な不利益へ繋がる説明には対処します。それ以外の人にまで理解してもらおうとすると、先生の時間がご主人のために使われ続けます」
私が怖かったのは、離婚そのものだけではない。
遼介と久世家が先に都合のいい話を作り、私を『仕事のために夫を捨てた冷たい妻』へ変えてしまうことだった。
違うと叫んでも、声の大きい方が真実になる。そんなことだけは、絶対に嫌だった。
「全ての嘘を暴かなければ、私は負けたことになりますか」
「何にですか」
「妻として、何も見抜けなかったことに」
ペンを置いた。
「水野さんとの不貞だけでも、離婚手続きを進める材料はあります。ほかの女性を全員見つけることは、法的には必要ありません」
「全貌を知らないまま終わらせたくないんです」
「知る目的を決めてください。財産を守るためか、病院へ巻き込まれないためか、ご自身が納得するためか。最後の目的なら、知るほど傷が増える可能性もあります」
夫がどこまで私を騙していたか分かれば、結婚生活のどこかに本物が残っていたと確認できる気がした。
けれど、遼介の不貞の全貌を完成させることが、私の人生の完成ではない。
「まずは重要書類と、既に見えている取引だけ確認します」
「それで十分です。眠る時間も予定へ入れてください。判断力が落ちれば、相手へ有利な行動をしてしまいます」
弁護士に睡眠まで注意され、初めて、自分が二日ほとんど眠っていないことに気づいた。
契約書へ署名し、控えを受け取った。
事務所を出ると、外は強い雨。
スマートフォンへ慧から一通だけ届いている。
『駅までは地下通路で行けます。入口はビルを出て右です』
相談の結果も、私の気持ちも尋ねない。
『紹介、ありがとうございました』
送ると、電車へ乗った頃に返信が来た。
『依頼を決めたのは先生です。礼は橘へ』
助けたことまで自分の手柄にしない人。
その夜、橘の指示に従い、共有口座とカード明細を二年分だけ確認した。
ホテル、宝飾店、見覚えのないアプリ利用料。少額の送金先が複数あり、その中に毎月ほぼ同じ日に十万円が振り込まれている女性名義があった。
桐生沙耶。
東央大学病院の産科病棟で働く助産師と、同じ名前。
さらに、年に一度だけ金額が三十万円へ増えている。
摘要欄には、短く記されていた。
『供養料』
コメント
1件
うわ、橘弁護士の導入回、めっちゃ良かったわ……。あの「知るほど傷が増える」って台詞、現実的すぎて刺さる。慧さんの距離感も相変わらず絶妙で、助けたことを自分の手柄にしないスタイル、かっこよすぎんだよな。最後の「供養料」で一気に空気変わったのがヤバい。桐生沙耶、何者だよ……続き気になりすぎる🔥
白波 灯
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鬼霧宗作
303