テラーノベル
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「え〜まじで」
夏の弾けるような暑さが過ぎて、少しだけ朝晩の呼吸がしやすくなってきた。ただし、じっとりとした残暑のしつこい熱には変わらず気分が滅入る。
わがままだけど、爽やかな真夏が懐かしくて恨めしい気持ちになる。
開け放された個室から、豆さんのずいぶん砕けた声が聞こえた。チラリと見ると、スマホを耳に当てて背もたれに大きく背を預けている。
まだ午前中だというのにそのだらけた姿勢は珍しいな、と思いながら彼のスケジュールを確認する。あと15分後に会議があるけれど、珍しく今は何も予定が入っていなかった。
あの食事の後、何が起こると期待したわけではないけれど…だとしても、驚くほどに世界は何も変わらなかった。
毎日変わらず出社して、メールやチャット、電話、対面諸々で飛んでくる無茶振りを捌いて。強いて言うなら、別れ際に交わした「夕方に帰れ」の指示だけは有効だったようで、今は一旦18時には退社するようにしている。
ま、家で残業するから総労働時間はあまり変わってないんだけど。
もうすぐ話が終わりそうな気配がする。
申請書類の承認をして欲しいのに、もう3日ぐらい放置されている。相変わらずそういう作業には向かない彼なので、電話終わったら突撃して作業してもらおう。
今すぐに承認ボタンをクリックしてもらいたい案件をいくつか思い浮かべながら、タイミングを伺う。
視界の端で、彼がスマホを耳から離し、胸ポケットにしまう。
今だ、と勢いよく立ち上がった私は、意外な形でその出鼻を挫かれた。
「弓家さん、ちょっと人集めて」
相変わらず開きっぱなしのドア越しに放たれた言葉は私にまっすぐ届く。
どうやら、彼も私に急ぎの用事ができたらしい。
「…先越された」
はーい、と返事をしながら彼の個室に向かう。
大体豆さんが振ってくるタスクは碌なものがないのは言わずもがな。それに惑わされて私の用事を忘れないようにしないと。
いい加減承認してもらわないと後ろの作業がつっかえるし。
自分のミッションを再確認して、「失礼します」と個室の中に入る。
「ちょっと扉閉めてもらえる?」
デスクに寄りかかり、腕を組む姿に陽の光が当たる。
あのディナーの夜以来、表面上はおよそ変化がないけれど、私が仕事中に軽率に胸を高鳴らせる頻度は増えてしまった。
特に、この苦味のあるシトラスの香りが少し強く香った時は、頭が半分ぐらい働かなくなる気がしていて、自分が怖い。
「なんでしょうか」
「実は、とあるプロジェクトで1人スタッフが必要になりまして」
珍しい。
プロジェクトへのスタッフのアサインは、マネージャー以上の仕事であって、秘書は基本的に一切関わらない業務の1つなので、こんな切り出し方をされること自体滅多にない。
「今正規のルートでユニット内から全社まで探してもらってるんだけど、ちょっとすぐには出てこなさそうで」
「…そうかもしれないですね。スタッフのスキル要件は何かあるんですか?」
「これと言って特殊なものはないんだけど、そこそこ自走できるオールラウンダーがいいかな」
「無茶言ってる自覚あります?」
思わず呆れて本音をこぼせば、「さすがよくお分かりで」とクククと笑い声が聞こえる。
「そこが一番欲しくて、且つ、一番いない層だからね」
どこの企業もそうだろうけど、マネージャーに昇格前の”脂の乗った”スタッフというのが一番薄い。どの業界でも引くて数多で、離職率が一番高いから。
「つーわけで」
豆さんはパン、と両手を叩く。
「弓家さんのツテで、同期で優秀なスタッフ集めてくれない?」
俺面接するから。
「…いやいやいや」
今軽く仰いましたけども、私にはアサイン権一切ないし、下手したらそのスタッフの向こう数ヶ月の生活を大きく変えてしまうなんて責任が重すぎる。
「えー。仕事選んじゃダメって言ったでしょう、悪い子だな」
腕を組みながらニヤリと笑うけれど、逆になんでそんなにあなたはそんな軽い態度なの!
「大丈夫よ。推薦してもらっても必ずアサインするわけじゃない。適性は俺が判断するし、もしプロジェクトの掛け持ちになるなら負荷調整する」
薄く微笑みながらも表情は真剣だ。
「俺、スタッフは潰さない主義なのご存知でしょ」
「…それはそうですね」
これまでの実績から、その言葉だけは事実で重みがある。
「で、誰かいる?」
「…スケジュールはわからないですが、心当たりなら2人ほど」
「最高」
それでこそ俺の秘書。
あと数分で午後2時半になろうかという頃。
「弓家ぇぇ」
背後から地を這うような低い声と共に、パシリと頭に軽い衝撃を感じる。
「同期売ってんじゃねぇよ」
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