「あんた、明日も泣かずに働きなさいよー」
玄関ロビーで元田利南子が言い、夏菜が、
「はいっ。
頑張りますっ」
と元気に答えていた。
いや、問題の洗礼をしているのは利南子のような気がするのだが……。
そう思いながら、指月は物陰から夏菜を窺っていた。
夏菜は初めてのオフィスでの仕事が楽しかったのか、満足げだ。
ちょっぴり飲み残しているあのペットボトルを手に、やり遂げた感を醸し出し、夕日に向かって歩いている。
……いや、お前、社長を殺しに来たんだろうが。
なにもやり遂げてない、と思いながら、指月は少し遅れて、夏菜を尾行する。
エレベーターで、夏菜は自分の耳を見て、
「あ、ギョーザ」
と呟いていた。
柔道やレスリングなどの格闘技をやり込んでいると、耳がつぶれてギョーザのようになってしまうことがあるのだ。
すぐに自分のギョーザ耳に気づいたようなので、本人か、周囲に誰か格闘技をやっている人間がいるのだろうとは思っていたが……。
「うん?」
指月は交差点の辺りを見回した。
さっきまで、夏菜は交差点のところで信号待ちをしていた。
青になって一斉に人が動き出して――
そして、夏菜の姿は消えていた。
何処にもいない。
……撒かれた?
まさか、この俺が?
指月は焦って夏菜を探すが、もう彼女の姿は何処にもなかった。
こうして働いていると、社長って雲のうえの存在だな~と思いながら、次の日、夏菜は郵便物の仕分けをしていた。
いきなり雲の上の人を襲うなんて無茶だったよな。
って、下の人を襲う理由は特にないんだが……。
そういえば、昨日、社長の命を狙ってきたおじさんは警察に連れて行かれたのかな。
……私はなんで連れて行かれないのかな。
会議のお茶出しが終わったら、連れて行かれるのかな。
……もしや、こうして、向こうの七代目を私に襲わせて、刑務所に入って人生が終わるという呪いだったのだろうかとか、機械的に仕分けをしながら、ぐるぐる考えていたとき、
「水原さーん。
ボールペン……
あっ、新しい可愛い子がいるっ」
と声がした。
「こんにちは」
にゅっと後ろから顔を出してきた可愛らしい顔の男が、
「初めまして。
派遣さん?
僕、営業の柴田です」
と笑顔で挨拶してくる。
「あ、は、初めまして。
藤原夏菜です」
いきなり後ろを取るとは、この男、かなりの手練れかっ、
と身構えたが。
「ちょっと柴田ー。
あんた、すぐ新しい子にちょっかいかけるのやめなよ。
そして、私が此処にいるのに、いない美鳥を呼ぶのはなんなのよ。
夏菜、こいつ、可愛い顔してタラシだから気をつけてー」
そう近くにいた利南子が言う。
ただのタラシの人だったようだ……。
特に殺気を感じなかったから、なにも思わなかったんだな。
と言うことは、やはり、あの先輩には殺気を感じたということなのだろうかと思ったが、おそらく、有生が言うように、強い下心を感じただけなのだろう。
「いやいやー。
総務系は美女ぞろいなんで、挨拶しとかなきゃと思いましてー」
と柴田は調子よく利南子と話している。
そのとき、背後から、今度は確かに、なにか危険な気配を感じた。
指月さんかっ? と振り向く。
あの人は危険なオーラがあるからな。
秘書と言っているが、本当のところ、ボディガードなんだろうと思いながら振り返ったが、総務のガラス張りの入り口の向こうに居たのは有生だった。
腕を組み、こちらを見ている。
夏菜が振り向いたのに気づくと、ちょいちょい、と手招きしてきた。
なんなんですか。
凛々しい顔立ちとその動きが不似合いで可愛いんですが、と思いながら、夏菜は席を立つ。
「おはようございます」
と有生に挨拶すると、
「夏菜。
指月を知らないか」
と有生は言ってきた。
「え? そういえば、今朝は顔見てないですね」
「そうか。
困ったな。
何故か出社してこないし。
携帯にも出ないんだ」
「おかしいですね。
すごく責任感ありそうな人なのに」
「実は俺のこのあとのスケジュールは指月しか知らないんだ。
よそにもれて狙われないよう、指月だけが管理している」
「……常に誰かに狙われてるのも大変ですね。
他に誰か知ってそうな人はいないですか、貴方のスケジュール」
有生は上を向いて、少し考え、
「いるな」
と言う。
「ちょっと訊いてみよう。
来い、夏菜。
総務に話は通しておく」
と言って腕をつかんでくるので、
「えっ、何故ですかっ」
と踏ん張ってみたのだが、振り返った有生は睨み、言ってきた。
「お前、俺のボディガードになるんだろうが。
指月がいないから、繰り上げて今日から採用してやる。
逆らうなよ。
お前が殺る前に、俺が殺されたら、お前も無念だろうが」
いえいえ、私は一発、ぼこりとさせていただければ、それで満足なのですが。
なんでしたら、今、やりましようか、と思っているうちに、有生は樫本部長に話をつけ、夏菜を連れて、あの黒い車に乗り込んだ。
「新しい秘書だ」
と有生が運転手に言う。
運転手は、こくりと頷いた。
常に命を狙われている人の運転手だ。
この人もただものではないんだろうな、と帽子の下のその四角い顔を窺っている間に、車は狭い路地を入り、小さな古いアパートの前に着いていた。
ピンポン、と有生が二階の隅の部屋のチャイムを鳴らすと、何処かで見たおじさんが出てきた。
「あ」
昨日、ナイフを持って突っ込んできたおじさんだ、と思ったとき、有生がおじさんに向かって言った。
「お前、俺のスケジュール。
事細かに調べてたろう。
あの時間、俺が戻ってくるのもわかっていたと言っていたな。
あの時間帯の行動は社内の連中にも秘密にしてあったのに。
このペットボトル女のように行き当たりばったりでなかったのなら。
此処しばらくの俺のスケジュールをお前は把握しているはずだ」
なんか微妙に今、ディスられなくていいところでディスられたような……と思う夏菜の横で、有生が言う。
「上林。
俺の今日の3時からのスケジュールを教えろ」
「俺の3時からのスケジュールを教えろ。
それともやっぱり警察に捕まりたいかっ」
その迫力に、は、はいっ、と上林は部屋の中に駆け戻っていった。
いや……スケジュールと引き換えに、殺人未遂犯を野放しもどうかと思うんですが、と夏菜が思っている間に、上林がタブレットとスマホを持って戻ってきた。
有生に見せている。
「……そうか。
やはり、このあとが例の会合だったんだな。
俺のスケジュールはこういうネットにつながるようなものに入れるな。
何処から誰がハッキングしてくるからわからないからな」
「はいっ」
「指月は決してネットにつながるものに情報を入れることはなかった。
なのに、俺のスケジュールを洗い出すとは、たいした腕だな」
「はいっ」
「指月はいつも会合に必要と思われる裏情報を移動中に見せてくれてたんだが。
お前、それに匹敵する情報は持ってないか。
やり手の秘書だったんだろう?」
「……持っておりますっ!」
「そうか。
よし、今すぐ着替えてこいっ。
3時までに湾岸沿いのホテルだ。
急げっ」
「はいっ」
と巨大な獣に命じられた仔ネズミのように、上林は走って部屋に戻っていった。
……この男の命令には、はいっ、と返したくなる迫力があるな、と思っている間に、上林はスーツに着替えてきた。
ちゃんとした店で仕立てたスーツのようで、さっきまでの薄汚れたトレーナー姿とも、ナイフを手に突っ込んできたときの姿とも別人のようだ。
「素敵じゃないですか、上林さんっ」
と夏菜が手放しに褒めると、上林が照れる。
「すぐに出ろ。
ああ、ちゃんと戸締りはしろ。
車で待ってる」
そう言うと、有生は、さっさっと階段を下りていく。
夏菜が慌てて有生について下りようとしたとき、
「はいっ!」
と言う声が、後ろから聞こえてきた。
ああ、此処にも強引なケモノに調教された人が……。
……上林さんは秘書になりました。
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