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叔父様が去った後の九条家は、嵐のあとの静けさに包まれていた。
伊織様は「気にするな」と言って、いつものように地下室で古書に向き合っているけれど
その背中にはどこか無理をしているような、重い緊張感が漂っている。
(伊織様は、私のために全てを捨てると仰ってくださった。…私にできることは、何かないかしら)
私は自分の部屋で、慣れない針仕事に没頭していた。
作っているのは、小さな「守り袋」だ。
母から教わった、不器用な刺繍を施した、ありふれた木綿の袋。
「……いたた」
何度指を刺したか分からない。
けれど、伊織様がいつも持ち歩いているあの古い栞や、彼が大切にしている「知」の世界を守れるような、そんなお守りを作りたかったのだ。
◆◇◆◇
その夜
地下室の重い扉を叩くと、ランプの灯影の中で伊織様が顔を上げた。
「紬か。……こんな夜更けに、どうかしたのか?」
「あの、伊織様。……これ、つまらないものですが」
私は、真っ赤な顔でその守り袋を差し出した。
よく見れば縫い目は歪んでいて、花のかたちも少し不格好。
帝都の百貨店に並んでいる豪華な品々とは、比べるべくもない。
「……これは?」
「お守りです。…伊織様が、大切なものを守り抜けるように。……それから、あのお仕事の邪魔にならないように、指先を怪我なさらないようにと……」
伊織様は、その小さな袋を掌に乗せ、じっと見つめた。
沈黙が流れる。……ああ、やっぱり。
こんな子供騙しのような贈り物、遊び慣れた伊織様には失笑されてしまうわ。
「……申し訳ございません、こんな不恰好なもの。お捨てになって構いませんから……!」
私が慌てて取り返そうとした、その時だった。
「……っ!!」
伊織様の手が、激しく震え始めた。
彼はその守り袋を、壊れ物を扱うように両手で包み込み、そのまま自分の額に押し当てたのだ。
「…捨てるわけがないだろうが…こんな……こんなに温かいものを……」
「伊織、様……?」
顔を上げた伊織様の瞳は、潤んでいた。
余裕たっぷりに女性たちを侍らせていた「帝都の蝶」が
たった一つの、不器用な手作りの守り袋に、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「……紬。君は、自分がどれだけ酷いことをしているか分かっているのか」
「ひ、酷いことですか!?」
「ああ、酷い。……こんなものを贈られたら、俺はもう、君以外の何も見えなくなる。君のために、命を投げ出すことすら、喜びになってしまうじゃないか」
伊織様は立ち上がり、私を力いっぱい抱きしめた。
胸のポケットに、今しがた贈ったばかりの守り袋を、何よりの宝物のように大切にしまい込んで。
「……今の言葉とてもかっこいいです、伊織様」
「……また、それか。…今の俺のどこに、尊敬される要素があるんだ。ただの、情けない男だろう」
「いいえ。……だって、こんなに、たった一つの小さなお守りに、これほどまで心を震わせてくださる」
「地位も名誉も持っていらした方が、私の真心だけを、何よりも重たい価値だと言ってくださる…その、汚れのない魂……私、心から、尊敬します!」
「…………ああ、もう!!」
伊織様は叫ぶと、顔を真っ赤にして私の肩に額を埋めた。
「余裕ゼロ」どころか、彼はもう、私の前ではただの「妻に恋い焦がれる一人の男」でしかなかった。
「……覚えておけよ、紬 ……このお守りがある限り、俺は君から一生離れてやらない……絶対にだ」
不器用な贈り物が生んだ、あまりに熱い誓い。
伊織様の耳は、地下室のどんな炎よりも赤く
熱く、燃え上がっていた。
#シリアス