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#シリアス
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「……紬。今夜は、鹿鳴館で大きな夜会がある。一緒に行こう」
伊織様のその言葉に、私は耳を疑った。
あの日、叔父様に絶縁を突きつけ、九条の家名を捨てるとまで言った伊織様。
社交界では今、「伊織様が田舎娘に骨抜きにされ、家を飛び出すらしい」という心ない噂が飛び交っていると聞いていたからだ。
「私が行けば、また伊織様に恥をかかせてしまいます。……お守りだけで、私は十分幸せですから」
「いいや、違うんだ。……俺が、君を自慢したいんだ。俺の『フィロソフィア』は、ここにあるのだと」
伊織様は、かつての「遊び人」の顔ではなく、一人の「男」としての強い光を瞳に宿していた。
夜会の会場は、以前よりもさらに華やかで、そして冷ややかな視線に満ちていた。
私と伊織様が姿を現した瞬間、会場中のざわめきが止まる。
私は、伊織様が贈ってくれた、派手すぎないけれど品格のある「勿忘草色」の着物に身を包み、彼の腕にすがっていた。
「おや、九条様。……例の『お人形さん』をお連れですか?」
「家を捨てるという噂は、本当なのですか? もったいないことに」
聞こえてくる嘲笑。
しかし、伊織様は一歩も引かず、会場の中央へと歩みを進めた。
彼はポケットから、私が贈ったあの「不器用な守り袋」を取り出し
全員に見えるように掲げたのだ。
「……皆さんに、一つだけお伝えしたいことがある」
伊織様の凛とした声が、シャンデリアの音をかき消した。
「私はこれまで、愛を遊戯だと思い、偽りの言葉でこの場を濁してきた。……だが、彼女に出会い、知った」
「真実の愛とは、家柄や美貌で測るものではなく、ただ一人の女性の真心に、己の全てを捧げることだと」
伊織様は、私の手を取り、跪いた。
帝都一の遊び人が、公衆の面前で、地味な田舎娘に跪いている。
……会場中が、水を打ったように静まり返る。
「俺は九条の地位を捨てる。財産も、この華やかな夜会も、もういらない。……紬。俺は、君だけを愛し、君だけを守るために、これからの人生を捧げると誓う」
「……俺の妻として、一生、俺の隣にいてくれないか」
「…………っ!!」
私の目から、大粒の涙が溢れ出した。
地位を捨てることへの恐怖なんて、微塵も感じさせない。
ただ、私に拒絶されることだけを恐れているような、震える手。
「……伊織様…っ」
「……今度はなんだ」
伊織様は苦笑いしながら、でも、これまでにないほど幸せそうに目を細めた。
「私というたった一人のために、本当の自分をさらけ出してくださった。……その勇気と、真っ直ぐな愛…とっても嬉しいです…尊敬せずにはいられません…っ」
「…………ああ、もう! 本当に君というやつは……!!」
伊織様は立ち上がると、周囲の目も憚らず、私を強く、強く抱きしめた。
ざわついていた客たちも、そのあまりに純粋で、
余裕のないほど必死な「愛の誓い」に、言葉を失っていた。
「……紬。今夜、家を出よう。二人で、新しい『哲学』を書き始めるんだ」
伊織様の耳は、羞恥と歓喜で、夜会のどんな紅いドレスよりも鮮やかに染まっていた。
遊び人の卒業。
そして、世界で一番「余裕ゼロ」な旦那様としての、新しい生活が始まろうとしていた。