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夜が来るのが怖くなっていた。
目を閉じるたび、あの夢に引きずり込まれる。
──歪な日本家屋。
屋根の線は波打ち、壁は脈動し、障子の裏には影が蠢いていた。
だが、梓は知っていた。
夢の中でしか辿り着けないその場所に、自分がまた導かれていることを。
目を開けていても、瞼の裏であの家がうごめいている。
遠ざかるほどに近づき、忘れようとするほどに扉が開いていく。
その夜も、また夢は彼女を連れ去った。
──山深い霧の中。
気がつけば梓は、苔むした石畳の上に立っていた。
周囲を取り囲む森は、音のない風にざわつき
まるで世界が息を潜めているようだった。
彼女はゆっくりと前へ歩を進める。
その先にあるのは、奇妙なほど巨大な日本家屋。
かつて武家の屋敷だったような造りで
黒漆喰の壁と重々しい門構えが異様な存在感を放っていた。
どこかで見たような、しかし絶対に見たことがないような
奇妙な二重写しの既視感。
軒先には風鈴のようなものがぶら下がっていたが
金属ではなく何かの骨のように見えた。
扉に手をかける直前、梓は足を止めた。
──ここ、どこかで読んだ……?
記者としての勘がざわめく。
「……マヨイガ……?」
その言葉が口を突いて出た瞬間、脳裏に過去の資料が甦る。
かつて民俗学者・柳田國男が『遠野物語』に記した伝承
岩手県の深山に現れるという幻の家。
訪れた者は、そこにある物を何でも持ち帰ってよいとされている。
だが、強い思念に阻まれ、物は屋敷の外へ出ることができない。
(あり得ない。こんな伝承、現実に見るわけが……)
だが目の前の家は、まさにその異質さを体現していた。
歪んだ柱。吸い込まれそうな黒い格子窓。
そこに張り付いた無数の手形のような模様。
空間そのものがねじれている。
──時間が、ここでは違う流れ方をしている気がする。
梓の耳に、自分の心音とは別のリズムが聞こえ始めた。
それは屋敷の中から響いてくる、ゆっくりとした
何か巨大なものの呼吸のようだった。
怖い。だが、引き返せなかった。
(……黒い手帳が……導いているの?)
廃神社で拾った“それ”が、カバンの中で脈打っている気がした。
梓はおそるおそる、門の重い扉に手をかけた。
開ける瞬間、背後から誰かに見られている気がして振り返る。
だが、霧の中には何もいない。
ゆっくりと扉が開いた。
その奥には、あり得ないほど長い土間と
赤黒い畳が敷き詰められた広間が広がっていた。
──迷い家。
その名を知ってしまった時点で、もう帰れない気がしていた。
けれど、梓は一歩、屋敷の中へと足を踏み入れた。
(→中編へつづく)