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屋敷の中に足を踏み入れた瞬間、梓の呼吸は一瞬、止まった。
薄暗い廊下。外の光は、まるでこの家に入り込むことを
拒むかのように、一切届かない。
ギイ……。
床板が、誰かの呻きのように軋む。
空気が異様に重く、肌にまとわりつく感触がある。
湿気ではない。
怨念――それに近い、得体の知れぬ「圧」が、この家の内部を支配していた。
壁にかかった古びた掛け軸。
何かの神事を描いた墨絵のようだが、どこか絵の人物たちの目が
今この瞬間、こちらを見ている気がしてならない。
(息が……苦しい)
不意に吐き気が込み上げてきた。視界が歪む。
頭の中に、誰かの記憶が無理やり流し込まれてくるような錯覚。
遠く、どこかの部屋で子供が笑っているような声がする。
反響して、それが一人の声か、複数のものか、分からない。
梓は懐からスマートフォンを取り出した。時刻は……?
「――あれ……?」
時間が表示されていない。
画面は、微かにノイズが走るようにチリチリと明滅しているだけ。
時計も、カメラも、地図も、すべてが機能を停止していた。
足元に視線を落とすと、いつの間にか自分が立っているのは
土間ではなく畳の間だった。
さっきまで板間を歩いていたはずなのに。
(どういうこと……?)
頭の中で警鐘が鳴り始める。
だが、足が止まらない。
まるでこの家そのものが、彼女を奥へと誘っているかのようだった。
襖を一枚開けると、また同じような部屋が続く。
畳、障子、欄間。どの部屋も奇妙なほど整然としている。
だが、その整いすぎた異常さが、かえって恐怖を呼び起こす。
まるで、人が長らく住んでいないのに、誰かの生活感だけが残っているような……。
そして――
「……?」
廊下の先、障子の隙間から、小さな影が見えた。
それは人影のようだった。いや、子供のような、背の低い……少女だろうか。
白いワンピース。乱れた髪。こちらに背を向けて、何かをじっと見つめている。
梓は思わず息を呑んだ。
「……あの……」
声をかけようとした瞬間。
その少女はふ、とこちらに向かって顔を向け――
しかし、目が合う前にまるで影のようにスッと姿を消した。
――消えた?
そんな馬鹿な、と心の中で叫びながら、少女がいた場所に駆け寄る。
だが、そこにはただの壁と古びた箪笥があるだけで、出入口など存在しない。
(さっきの……何だったの?)
このときの梓には、まだ彼女――あの“少女”が誰なのか分からなかった。
だが、不思議と「初めて会った気がしない」という感覚だけが
胸に引っかかっていた。
そしてふと気づく。ポケットに入れていたはずの【黒い手帳】が……ない。
(……持ってきたはず、確かに……)
廃神社で見つけたあの異形の手帳。部屋を出る前に何度も確認した。
だが、今、どこにも見当たらない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
不意に、屋敷の中の空気がさらに冷えた気がした。
屋根の上から、何かが這う音が聞こえる。
人ではない。けれど獣でもない。名状しがたい、形容不能の音。
(……やばい。ここは、本当に、“迷い家”なんじゃ――)
梓は背筋を凍らせながら、廊下の奥へと足を進める。
何かに呼ばれている気がした。
否――待たれている気がする。ずっと、ずっと前から。
(→ 後編へ続く)