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部署に戻ると、先日引き受けた海外案件の契約書のリーガルチェック、その最終確認から午後の業務が始まった。
それが終わると、次の契約書の確認へと移る。こちらは条項の解釈や修正案について、朝から弁護士に確認を取っていた案件だ。
弁護士とのやり取りはweb会議でも十分な場面ではあるが、直接顔を出すこともコミュニケーションを深める有効な手段だと感じていた。
弁護士と仕事の話をしながら、他社の共同開発契約やM&Aの傾向、国内外企業との取引など、雑談を交えながら情報収集もする。それらはやはり、顔を合わせてこそ得られるものだろう。
そう。顔を合わせて話すほうが良いことも、世の中にはたくさんある。
今日は定時より早く上がれるから、知佳にはまだ言っていなかった上原専務のことや、合コンには今後誰に誘われたとしても絶対に行かないということを、早く直接伝えたかった。
インフルエンサーの『Uehara』については、上原専務の娘・上原杏莉だと結びつけるのは早計かもしれないが、俺はそう睨んでいる、ということも話しておきたい。
そんなことを頭の片隅から片付けられずにいるうちに、気がつくと退勤の時間になっていた。
会社を出ると、時間は十五時。
ビル街に白い光が注ぎ、目に眩しい。
風は爽やかで、どこかで時間を潰して知佳と一緒に帰るべきか、それとも一度家に戻るべきか。
ビルを出て足の方向にやや迷っていると、
「すみません。巴潤さんですか?」
ふいに、背後から声を掛けられた。
振り向くとそこには、緩い巻き毛に華奢な身体。黒のノースリーブのワンピースに身を包んだ、若い女性が立っていた。
手には、一目でそれと分かるハイブランドのロゴが入ったバッグ。高価そうな指輪やピアス。そして、アイドルみたいなくっきりとした顔立ち。
それは以前に上原専務から、スマホの画像で見せてもらった娘の容姿、そしてインフルエンサー『Uehara』のイメージが見事に合致する人物だった。
考えるよりも先に、口から言葉が漏れていた。
「──あなたは上原杏莉さんですか。そして、インフルエンサーの『Uehara』でもある?」
すると女性は、マットなピンクカラーの唇を綺麗な笑みの形に作った。
「あはっ。せーかいですっ」
上原杏莉はまるで人形のように、作り物めいた笑顔を顔に浮かべている。
無邪気であればあるほど、こちらとしては警戒してしまう。
それにしても、よく俺の顔が分かったな。
あぁ、俺は中途採用の項目として、SACRAのホームページのインタビュー記事に顔出しで応じている。あれを見ていれば顔は把握できるはずだ。
あるいは、専務が俺の特徴を事前に伝えていたのだろう。
不可解なのは、この出会ったタイミングだ。
なぜ、と俺が思考を巡らせるよりも早く、彼女は首を小さく傾げながら喋りかけてきた。
「私のこと分かってくれて嬉しいな。SNSまで知ってるのは、ひょっとしてアカウントをフォローしてくれていたとかですか?」
「いえ、違います。上原専務から、SNSでの活動が精力的であることや、お顔の画像を拝見しておりましたから」
さっきまではSNSのことなど何も知らなかったが、本当のことを教えてやる義理はない。
「ふふっ。そうだったんですね! でも、実際に会うほうが百倍もビジュ良くてびっくりです。その時計もオシャレだし、巴さんって凄く素敵な人なんですね」
──なんだろう。
昔、前の会社で付き合いで行った、キャバクラのキャバ嬢と会話している気分になってきた。
そんな本音を言えるはずもなく、「ありがとうございます」と無難な返事をする。
「実は前々から、お話ししたいと思っていたんです。だからこっそりと、パパに頼み込んで、巴さんの勤務時間を教えてもらったんです。ごめんなさいっ」
「……そうでしたか」
専務の役職なら、人事把握という名目で各部署の勤務時間を確認しても不思議ではない。
それを身内に漏らすなど明確な職権濫用だが、この場合、かえって手間が省けた。俺にとっても直接話せる絶好の機会だ。
ここは良しとしよう──そう割り切り、営業向けの愛想を顔に乗せた。
「改めて、初めまして。私は巴潤で間違いないです。早速ですが、上原さんが話したいこととは何でしょうか。もうご存知かと思いますが、私は結婚しているので、あなたとの結婚をお断りしました。それは円満に解決したという認識です。ですが、何か不満や、こちらの対応に失礼があったということでしょうか」
「あぁん、お堅いなぁ。もっとフランクでいいですよ、潤さん」
なるほど。
知佳に名前を呼ばれると、それだけで嬉しいが他の女性に呼ばれてもさして何も思わなかった。
「私には愛する妻がいるので、他の女性とは一片の誤解も招くような会話をしないように心掛けている次第です」
「そう! 今日来た理由はそれなんですっ。妻……知佳ちゃんのことを、お話したいなぁ」
なぜ知佳のことを知っている。
それも父親から聞いたのか。
喉まで出かけた言葉を飲み込み、すっと眼鏡のブリッジを押し上げる。
さぁ、どうしよかと小さく息を吐くと上原杏莉が喋り出した。
「ふふっ。ここじゃプライベートなことは筒抜けなんで、二人っきりになれる場所に行きませんか?」
上目遣いでくすっと笑う彼女からは、真昼間だというのに夜の気配を感じた。
「二人っきり?」
「だって、潤さんは知佳ちゃんとのことは周囲に秘密なんですよね? じゃ、人気が無いほうがいいかなって。だからカフェとかじゃなくて──カラオケはこの辺にはないし。そうだ、ホテルでも私は構いませんよ。あ、エッチな意味はありませんからっ。ビジネスホテルっていう意味ですっ」
屈託のない笑顔でどこまで、こちらの情報を知っているのかと驚く。
長いネイルの指先を頬に当てて「私ったら」と照れる彼女は、きっと他の男性から見たら、すこぶる可愛く見えるのだろう。
ただ、今の俺には面倒くさいだけだ。
何が目的か分からないが、こういう手合いは厄介な女に間違いないと思った。
いっそ備品室にいた彼女たちのようだったら、もっと簡単に手玉に取れたのに。
流石は有名インフルエンサーだけのことはあるかと、気持ちを引き締める。
コメント
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うわー、第23話、面白かったです!主人公がバリバリ仕事してるところから一転、まさか上原杏莉が直接登場するとは。しかも「知佳ちゃんのことをお話したいなぁ」って、彼女のどこまで知ってるんだろう…あの胡散臭い作り笑顔と、キャバ嬢みたいな口調にこっちまで警戒しちゃいました。でも主人公が「知佳以外の女性に名前呼ばれても何も思わない」って内心でスッと切り分けてるところ、すごく良かったです。続きどうなるんでしょう、気になります!
#執着
猫とろ
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#初恋
金子りさ
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