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雫石しま
朝起きると、玄関先には雪の山が出来ていた。
「これじゃ、出勤できないよ……」
防寒ジャケットを羽織り、ニット帽を被る。長靴を履き、ショベルを片手に挑む。
湿り気を帯びた雪を掘り返そうとするが、ショベルが持ち上がらない。渋々、山を崩すことから始めた。
「スローライフ侮りがたし」
もう1時間早く、こたつから這い出てくれば良かったが、後悔してももう遅い。クリニックの開院時間は刻々と迫り、焦りと力仕事で汗だくになる。
そして社畜の性か、適当に雪を掻くということが出来ない。真っ直ぐ、綺麗に、均等に掻き出さなければ気が済まない。雪の山を崩しながら、ふと昔の自分が重なる。資料のレイアウトを完璧に整え、上司の無茶振りにも「了解です」って笑顔で受け止めてた頃。結局、根っこの部分は変わってないのかも。
汗が額を伝って、ニット帽の下で髪が張り付く。息が白く、吐くたびに肺が冷えるのに、体は熱い。ショベルを地面に突き刺して、雪を横に払う。少しずつ、少しずつ、玄関前の道が開けていく。
「もう少し……もう少しで……」
クリニックの開院まであと30分。拓也さんが待ってる。患者さんたちが待ってる。私はショベルを握り直して、力を込める。その時、坂道からシャンシャンシャンという音が近づいてきた。除雪車だ。拓也さんが運転してる。ヘルメットの下から、笑顔が覗く。
「里奈! 待たせた!」
除雪車のブレードが雪の山を一気に削り取って、道が一瞬で開ける。私はショベルを置いて、息を切らしながら手を振る。
「拓也さん……! 来てくれたんですか?」
「高齢者宅の回りが終わって、里奈の家が一番心配だったからな」
拓也さんが除雪車から降りて、私の汗だくの顔を見て、くすっと笑う。
「社畜の血が騒いで、真っ直ぐ綺麗に掻いてたんだろ?」
「バレました……」
私は照れ笑いして、頰を拭う。拓也さんが私の肩に手を置いて、温かい息を吹きかける。
「無理すんなよ。クリニックは俺が開けとくから、ゆっくり来い」
「いえ、一緒に行きます。患者さん待ってるし」
拓也さんが私の長靴の雪を払ってくれる。
「じゃあ、乗れ。除雪車でクリニックまで送る」
除雪車の助手席に座って、暖房の温風が顔に当たる。
シャンシャンシャン。
チェーンの音が、鈴みたいに優しく響く。雪の道を進む間、私は拓也さんの横顔を見る。
「拓也さん、いつもありがとうございます」
「礼はいいよ。里奈がいてくれるだけで、俺は十分」
クリニックに着くと、待合室の灯りがすでに点いてる。患者さんたちが雪を払いながら入ってきて、私を見て笑顔になる。
「里奈ちゃん、今日も雪かきお疲れ様!」
私は汗だくのまま、笑顔で頭を下げる。
「はい、おはようございます!」
社畜の性は、悪いことじゃないのかもしれない。ただ、今はそれを、誰かのために、村のために、拓也さんのために使えてる。雪の朝に汗だくになって、でも心はぽかぽか。
けれど、汗をかいて着替えなかったのが良くなかったのか、お昼を過ぎた頃から襟元が寒く、背中を悪寒が伝った。クリニックの待合室でカルテを整理していると、急に体がぞわぞわと震え始める。
ストーブの前なのに、指先が冷たくて、ペンがうまく持てない。
「里奈ちゃん、どうしたの? 顔色悪いよ」
田上のおばあちゃんが心配そうに声をかけてくる。
「いえ、大丈夫です……ちょっと寒いだけ……」
そう言いながらも、歯がカチカチ鳴り始めて、誤魔化せない。拓也さんが診察室から出てきて、私の顔を見るなり眉を寄せる。
「里奈、熱あるんじゃないか?」
額に手を当てられて、拓也さんの指先がヒヤリと気持ちが良い。
「……うん、ちょっと熱っぽいかも」
拓也さんがため息をついて、私の腕を取る。
「朝の除雪で汗かいて、そのまま着替えないで動いてたんだろ。風邪引いたな」
「ごめんなさい……」
「謝るなよ。待合室のソファに座ってて。俺が診るから」
拓也さんが白衣のポケットから体温計を出して、私の脇に挟む。待合室の患者さんたちが心配そうにこちらを見る。
「里奈ちゃん、雪かき頑張りすぎたのね」
「無理しないでねえ」
みんなの優しい声が遠く聞こえる。体温計がピッと鳴って、拓也さんが確認する。
「38.2度。今日はもう休め。家に帰って寝てろ」
「でも、午後の予約が……」
「俺が対応する。ネットセラピストの予約は電話でキャンセルか延期にすればいいだろ」
拓也さんが私の肩を抱いて、クリニックの奥の休憩室へ連れて行く。毛布をかけてくれて、温かいお茶を入れてくれる。
「里奈はいつも頑張りすぎるんだよ。社畜の癖が抜けてない」
「……バレてますね」
私は毛布にくるまって、弱々しく笑う。拓也さんが隣に座って、私の髪を撫でる。
「今日は俺が里奈のセラピストになるよ。ゆっくり休んで、何も考えなくていい」
温かい手が背中をさすってくれる。薬が効いてきたのか、悪寒が少しずつ引いて、代わりに眠気が襲ってくる。
「ごめんなさい」
「謝らなくていい、じいちゃんに迎えにきてもらおう」
私は目を閉じて、拓也さんの手の温かさに身を委ねる。雪の外では、シャンシャンシャンと除雪車の音が続く。でも、今はこの休憩室の静けさが、世界のすべて。風邪を引いても、誰かが看病してくれる。社畜の頃は、熱が出ても一人でコンビニのポカリ買って、終電で帰って、布団に倒れ込んでた。今は違う。熱っぽい体で、ゆっくり息を吐く。……幸せだ。