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雫石しま
拓也さんが薬局から持ってきた風邪薬とポカリを渡して、クリニックの裏口で待っていた山下じいちゃんが軽トラで家まで送ってくれた。車内で体を丸めて、窓の外の雪景色がぼんやり流れる。
「ありがとう、じいちゃん」
「一人で、大丈夫か?」
「うん」
家に着いて、布団に倒れ込む。体が重くて、動けない。頭痛と関節痛で、布団の中で体を丸めて震える。喉の痛みでご飯も飲み物も受け付けないけど、拓也さんが「少しでも飲め」って置いていったポカリを、ちびちび飲む。
スマホでYouTubeの通知を見ようとしたけど、画面が眩しくて目を閉じる。熱っぽい夢を見てるみたいで、社畜時代のオフィスが雪に埋もれてる夢とか、拓也さんが除雪車で助けに来てくれる夢とか、ぐちゃぐちゃに混ざる。
夕方、拓也さんがクリニック終わりに顔を見に来てくれた。
「お粥作ってきたぞ。食べられるか?」
温かいお粥の匂いがして、少しだけ食欲が戻る。拓也さんがスプーンで一口ずつ食べさせてくれる。
「無理しなくていい。ゆっくり治せ」
私は弱々しく頷いて、拓也さんの手に自分の手を重ねる。
「拓也さん……クリニック休んで……ごめんなさい」
「謝るな。里奈が元気じゃなきゃ、俺も村も困るんだ」
拓也さんが私の額に冷たいタオルを当てて、髪を撫でてくれる。まだ、体は寒いけれど、心はポカポカと温かい。私はゆっくりと目を閉じた。
熱でうなされて目が覚めた。布団の中で体が熱くて、重くて、喉がカラカラに乾いてる。時計を見たら午前2時過ぎ。部屋は暗くて、ファンヒーターの弱い灯りだけがオレンジに揺れてる。
「……水」
掠れた声で呟いたら、隣の部屋から足音が聞こえてきた。拓也さんが、毛布を肩にかけて入ってくる。
「里奈、起きたか。熱い?」
「……うん、ちょっと」
拓也さんがベッドサイドの椅子に座って、私の額に手を当てる。
「まだ高いな。38.7度くらいか」
冷たいタオルを新しいのに取り替えて、優しく額に置いてくれる。ひんやりして、気持ちいい。
「ごめん……夜中に起こしちゃって」
「謝るなよ。俺は医者だ。看病は仕事みたいなもんだ」
拓也さんが小さく笑って、ポカリのペットボトルを開けてストローで飲ませてくれる。少しずつ飲むと、喉の痛みが和らぐ。
「ありがとう……拓也さん」
「ん。汗もすごいな。着替え出来るか?」
私は弱々しく首を振る。
「動けない……」
拓也さんがため息をついて、優しく私の背中を支えて起こしてくれる。
「着替えはどこ?」
「そのチェストの二段目」
新しいパジャマを取り出した拓也さんは、恥ずかしそうに顔を赤らめて、隣の部屋の襖を閉めた。
「着替えたら、呼んで」
「……うん、わかった」
指先が震えてボタンが止められない。あまりに時間がかかるので、「入るぞ」と断りを入れて拓也さんが心配そうな顔を覗かせた。パジャマのボタンを手際よく止め、新しいタオルで私の首筋の汗を拭く。
「薬、飲むか? 解熱剤、もう1回入れとく」
「うん……お願い」
錠剤を飲ませて、背中をさすってくれる。拓也さんが私の手を握って、静かに言う。
「里奈、俺がいるときは、全部任せてくれ。無理して頑張らなくていいんだ」
私は目を閉じて、拓也さんの手をぎゅっと握り返す。
「……拓也さんがいてくれて、よかった」
熱でぼんやりした頭の中で、社畜時代の夜がよぎる。一人で熱を出して、コンビニのポカリ飲んで、朝まで震えてた。誰も来なくて、誰も心配してくれなくて、ただ「明日も出勤しなきゃ」って思ってた。
今は違う。
拓也さんが夜中でも起きて、額にタオルを当てて、手を握って、そばにいてくれる。涙がにじんで、頰を伝う。
「泣くなよ……熱で頭が変になってるだけだ」
拓也さんが親指で涙を拭ってくれる。
「変じゃない……嬉しいんです」
拓也さんが私の髪を撫でて、優しく囁く。
「俺も、里奈がいてくれて嬉しいよ。早く治せ。治ったら、また一緒に雪かきして、雪だるまのライトアップを見にいこう」
私は頷いて、拓也さんの手に頰を寄せる。温かい。熱っぽい体なのに、心はぽかぽか。ファンヒーターの音と、遠くの除雪車のシャンシャンシャンが、子守唄みたいに聞こえる。拓也さんが私の手を離さずに、そっと見守ってくれる。
夜中なのに、一人じゃない。
風邪で弱ってる時でも、誰かが看病してくれる。拓也さんの手の中で、ゆっくり目を閉じる。
この優しさが、胸に染みて、涙が止まらない。
熱が少し下がって、布団の中で体を起こせるようになった夜。こたつに潜り込んで、拓也さんが作ってくれたお粥をスプーンで少しずつ食べながら、ふと尋ねた。
「拓也さん……東京の病院時代のこと、もっと聞かせてくれますか?」
拓也さんがお粥の鍋をかき混ぜながら、静かに頷く。
「いいよ。里奈が聞いてくれるなら」
彼の声はいつもより低くて、少し遠い。白衣を脱いだカジュアルなパーカー姿で、こたつの向かいに座って、目を細める。
「大学病院の内科で研修医やってた頃は、毎日が地獄だった」
「……地獄、ですか」
「朝6時に出勤して、夜中の2時、3時まで残って、仮眠室で2時間寝て、また朝礼。上級医の『お前はまだ甘い』って言葉が、毎日耳に残ってた。患者さんのカルテをまとめきれなくて怒鳴られて、ミスしたら『お前のせいで患者が死ぬぞ』って言われて……」
拓也さんがこたつで話し始めた過去のエピソードは、いつもより少し重くて、でもどこか静かに語る感じだった。
「大学病院で研修医3年目の冬だったかな。当直の夜、80歳の女性患者さんが急変した。心不全の悪化で、呼吸が苦しくなってたんだけど、俺はその時、担当の主治医の指示を待たずに、利尿剤の点滴を増量した……」
拓也さんの声が少し低くなる。指でこたつの天板をなぞりながら、続ける。
「主治医は『様子見でいい』って言ってたのに、俺は『今すぐ対応しないと危ない』って勝手に判断した。結果、血圧が急降下して、ショック状態になった。慌てて昇圧剤入れて、蘇生したけど……患者さんは翌朝、意識が戻らなかった。家族に『なぜこんなことに』って泣かれて、俺は何も言えなかった」
私はお粥のスプーンを止めて、拓也さんの顔を見る。いつも穏やかな目が、少し遠くを見てる。
「教授室に呼ばれて、『お前の判断ミスで患者の命を縮めた』って言われた。その言葉が、頭の中で何度もリプレイされて……その夜、仮眠室で一人で泣いたよ。医者に向いてないんじゃないかって、初めて本気で思った」
拓也さんが小さく息を吐く。
「それから数ヶ月、俺は患者さんのベッドサイドに立つのが怖くなった。カルテを見る手が震えて、聴診器を当てるのも躊躇して……。上級医に『お前はもう診察するな』って言われた時、逆にホッとした部分もあった」
「それで……帰ってきたんですか?」
「うん。じいちゃんが『クリニックの院長が引退した、お前、村で働いてみんか?』って電話してきた。『東京の病院は戦場だ。村に戻って、ゆっくり人を診ろ』って。最初は逃げだと思ってたけど……今は違う」
拓也さんが私の手を握る。指が少し冷たくて、でも温かくなる。
「村に戻ってきて、初めて患者さんの顔をちゃんと見れた。名前を呼んで、笑顔で話して、家族のことを聞いて……。東京じゃ、患者は『症例』だったけど、ここじゃ『人』なんだって気づいた」
「拓也さん……」
「里奈が来てからは、もっと変わったよ。クリニックに来る患者さんが増えて、みんな里奈ちゃんの笑顔に癒されてる。俺も、里奈の隣で診察してる時、初めて『医者でよかった』って思えた」
私は拓也さんの手をぎゅっと握り返す。
「私も、社畜時代の失敗談……たくさんあるんですけど、一番忘れられないのは、入社2年目の冬のプロジェクトのことです」
拓也さんが私の背中を優しくさすってくれる。私は目を閉じて、記憶をたどる。
「当時、私の部署で大きなクライアント向けの提案書を作ってたんです。締め切りは12月24日、クリスマスイブ。上司が『これで通らなかったら、部署の評価が下がる』って毎日言ってて、みんなピリピリしてました」
私は小さく息を吐く。
「私は資料のメイン担当で、エクセルでデータまとめたり、パワポでスライド作ったり、夜中まで残ってた。上司の『もっと見やすくしろ』『数字合わないぞ』って修正指示が毎日来て、徹夜続きで……」
拓也さんが私の手を握って、静かに聞いてくれる。
「最終チェックの前夜、午前3時くらいだったかな。疲れすぎて、数字の列を一つずらしてコピーしちゃったんです。売上予測の列と利益予測の列を入れ替えて、保存して……そのまま上司に提出した」
声が少し震える。
「朝、上司が『伊藤! これどういうことだ!』って怒鳴ってきて……クライアントに提出する直前で気づいて、慌てて修正したけど、上司の顔が真っ赤になって、『お前のせいで会社が恥かいたらどうする』って」
私は拓也さんの胸に顔を埋めて、続ける。
「その後、謝罪の電話を私が一人でして、クライアントに『申し訳ありません、データミスがありました』って頭下げて……
上司は『お前が全部やったんだから、お前が責任取れ』って言って、部署の飲み会でも『伊藤のミスでみんな残業』ってネタにされて」
拓也さんが私の髪を撫でて、静かに言う。
「里奈……それはきつかったな」
「うん……その夜、家に帰って一人で泣いた。『私がいなければ、このプロジェクトはうまくいったのに』って思って、初めて本気で辞めたいと思った」
私は拓也さんの手をぎゅっと握る。
「でも、当時は『辞めたら負け』って思ってて、耐えてたんです。上司に『次は完璧にしろ』って言われて、また徹夜のループに……」
拓也さんが私の額に軽くキスをして、囁く。
「里奈は、ほんとに頑張り屋さんだな。でも、今は違う。ミスしても、誰かがカバーしてくれる。一人で抱え込まなくていいんだ」
私は頷いて、拓也さんの胸に寄りかかる。
「拓也さんがいてくれるから、もう怖くないです。あの時の失敗が、今の私を作ってるのかも……」
拓也さんが小さく笑う。
「そうだよ。里奈の優しさは、あの頃の辛さから生まれたんだと思う。だから、今の里奈は、誰かの心をちゃんと救える」
窓の外で、シャンシャンシャンと除雪車の音が続く。
夜中のこたつで、互いの失敗談を共有して、傷を優しく撫で合う。社畜時代の私は、一人で抱え込んで壊れそうだった。
でも今は、拓也さんが隣にいて、過去を一緒に受け止めてくれる。
なんて幸せなんだろう。