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目の前から去っていこうとする女を引き止めたいと思ったのは、きっと初めてだったと思う。
この足を、気を張って押し留めなければ……きっと、追いかけ引き止めたんだろう。
(あの流れで何が〝送る〟だっての、おかいしだろ、どう考えても)
『ごめんなさい』
震える、か細い声で、ぼろぼろと涙を流しながら何度も言った。
彼女の反応は予想外だった。
(どうやったら、ああなれるんだ)
思えば、いつも真衣香は予想外だ。
坪井にとって、いつのまにか常識となっていた全てを覆す勢いで。
人のことばかり気にして案じて、どこまでも優しくて。
人を疑うことを知らないんじゃない、疑うことを前提に生きている自分とは真逆なだけだ。
信じることを前提に生きている、あの強さは畏怖であり、憧れでもあったように思う。
「……と、そろそろ行けるかな」
ひとり呟き、立ち上がるとコートを羽織った。
その、後ろから出てきた、同じくハンガーに掛けられていたままの真衣香のコート。
(あー、ヤバいだろ寒いじゃん、あいつ)
ライトグレーの、そのコートを手に持つと、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐる。
ついさっきまで目の前にあった、滑らかな肌から漂っていた甘い香りだ。
嗅ぎ慣れている女モノの香水はいくつもあるけれど。その類ではなく、頭の芯からクラクラと思考が奪われていくようで、何ともいえず妙な感覚になった。
その時、奪われていく思考と同時に痛いほど締め付けられた胸が、その内側が。
何を訴えてきていたかなんて。
……潜む感情が何を意味するかなんて。
そこで無理やりに思考を閉ざす。
(あー、ダメだ、めんどくさいだろ。考えるな)
そう思って、考えることを放棄すれば、急激に冷めて落ち着いた。
大丈夫だ。まだ、いつもどおりだ。
軽く首を振って息を吐き、歩き出す。
玄関を開けようとして、先程扉が閉められた時の、あの悲しい音を思い出した。
(ふざけんなって、悲しいって、傷付けたのはこっちだ)
吐き捨てるように舌打ちをして、家を出る。
脳裏からなかなか消えてはくれない、泣き声、手の甲に跳ねてきた熱い涙。
「……クッソ、ふざけんな」
残像として残ってしまった場合の対処法がわからない。