苛立ちを抱えたままマンションを出て少し歩くと、街灯の下、不明瞭な影。
静かに一歩一歩近付けば確かに見える、しゃがみ込む女の姿。
真衣香だ。
「優里ぃ……」
泣きじゃくりながら、電話をしてるようで友人の名を呼んでいる。
どんな顔をして泣いているんだろう。間近で見てしまった真衣香の泣き顔を思い出して、また、胸の内が軋んだ。
深く息を吐き電柱にもたれかかるようにして、その様子を隠れて見ている、自分のこのザマときたら。
(コート、どうすんだ、寒いだろ)
真衣香のコートを持つ手に力を込めた。
初めて手を繋いだ夜、細い指先は随分冷えていた。触れ合う手の中で少しずつ暖かくなっていった柔らかな感触を、なぜだろう、よく覚えている。
小さく華奢な分、きっと今自分が体感している寒さよりも堪えているのではないか。
そう思うのに、足は動こうとしない。
これを手渡しに行ってどうする。
コート忘れてたよ、と。いつもみたいに笑って渡してやるのか。
(……いや、無理だろ、見れる自信がない)
あの泣き顔を、だ。
さらには、何事もないように笑う自信もない。
『こんなはずではない』そればかりが連なって襲いかかってくる。
「うん、うん、その駅……ごめんねぇ、ま、待ってる……」
車道から奥に入り、民家ばかりの細い道だ。
騒音は遠くほとんどない。その為、声はよく響き拾う事ができた。
聞こえてくる内容からして、友人である優里は最寄りの駅まで真衣香を迎えに来てくれるようで、坪井は身勝手にも少しホッとする。
駅までは、そう遠くない。
よろり、とふらつきながら立ち上がる後ろ姿に、思わず駆け寄りそうになった。
その足を、踏みとどまらせるものは、いつまでたっても胸に巣食うくだらない昔話のせいだろうか。
自分はいつも、いつまでたっても、我が身可愛く自分を守ることしか考えていない。
坪井は、駅へと続く歩道を、ゆっくりと歩く真衣香を見送りながら一連の行動を思い返す。
咲山の前で、これでもか……と。真衣香を特別扱いしたつもりだった。大切な女だよ、とアピールして。突き落とせば、その傷は一層大きなものになるだろう。
(俺のことなんか、思い出したくもなくなるだろ)
それは、これまで関わってきた女たちとの関係と同じのはずなのに、なぜかスッキリとしない。
(夏美の前での態度って、どこまでほんとで……どこから嘘かよくわかんないんだよな)
例えば。軽く触れ合った程度の仲に、育つ感情を垣間見ると、それは坪井の中で終わりの合図だった。
見えた途端に不快感が増していき、
『これ以上は面倒なことになるな』
……と、予測し関係を絶っては繰り返した。
今回はどうか?
わからないと感じることが初めてだから、正解がわからない。
わからないけれど、ひとつ確かなのは。
(あのままヤってたら、やばかったろーなぁ)
手離さなければいけないのに、できなくなっていた予感しかしない。
何故なら。
『これ以上は面倒なことになるな』の意味がまるで違うからだ。
向けた言葉じゃないから。
言い聞かせる言葉だったから。
理由は簡単だ。
大切にできる自信もなければ、恐怖を断ち切る覚悟もないのだから。
(いや、でも、あいつへの言葉や態度が嘘ばっかじゃなかったんだとしても変わんないでしょ)
それなりにうまく生きて行くためには、物事においても感情も、優先順位は冷徹に、冷静に一瞬で判断できなければいけないと思う。
悩むことは、これまで少なかったのに。
間違う程に、揺れることはなかったのに。
早く呆れてくれと思っていた、見限って、くれと願っては。
そばにいて欲しいと思った。
その矛盾にどうしようもないくらい吐き気がしていたことも、また、どうしようもなく癒されていたことも。
どちらも確かなんだ。ただ、選ぶべきものを結局はねじ曲げる事ができなかった。
小さくなっていく後ろ姿。
角を曲がって、見えなくなった。
あの角を曲がれば人通りは急激に増えて、駅までは人目もじゅうぶんにある。
(コート……は、返してやるの月曜だなぁ)
それまでに、整えておかなくてはいけない。
今、とりとめもなく、流れ続ける感情を。
そして、真衣香から向けられるであろう嫌悪や憎悪にも、変わらない笑顔を返せるように。
大丈夫だ。
そうしていれば、また、いつもどおりだ。
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