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腹立たしさに胸がちくりとした。
魔塔における最高位。それこそが『大賢者』であり、歴代の大賢者と呼ばれた魔導師の中で、ヒルデガルド・イェンネマンという魔導師は最も若く、最も才に溢れ、最も魔法を理解した人物だった。そんな彼女の代理を務められる人間は世界のどこを探してもいないだろう。
ただし、死亡している場合を除いて。
ウルゼン・マリスは魔塔の最高位に最も近いとされていた優秀な人材だ。ヒルデガルドがいなければ大賢者の椅子に座っていたであろう、大魔導師の中でも抜きんでた才能を持っている。だからこそ代理を務めるのに誰も文句を言わない。
だが彼女は知っている。ウルゼンという男がいかに狡猾で、権力に対し貪欲であるか。魔法の研究には余念がない真面目な雰囲気の裏側に、いつでも身勝手さが潜んでいたことを。だから傍に置き続け、いつでも目が届くようにしていた。
「……ウルゼン。傍に置いて大人しくさせていたのが裏目に出たか」
過去には反対派の筆頭でもあったが、ダミー人形の成果が挙がり始めてからは手のひらを返したように、彼女の敷いた規則に従順だった。だが、あくまで『考えを改めた』と見せかける、いわゆる擬態に過ぎなかったのだ。
(魔物に対する価値観は世間的に見ても良いものとは言えない。そのうえ魔物を使って実験を行うことを〝効率的〟と証明するようなことがあれば、風向きはウルゼンたち反対派に傾くだろう。ダミー人形の廃止などが起きれば私の努力も水の泡だ。幸いにも時期尚早とみて公表は遅らせているようだが……)
大賢者が死んだばかりで、彼女の研究を否定するようなことがあれば、人々から不信感が湧きかねない。死因もはっきりしていないのに大手を振って『魔物を使った実験が代替として最も効果的』などと宣伝でもしたら『大賢者は計画的に殺された』といううわさのひとつでも起きる可能性はあるし、ヒルデガルドが想像する限り、アーネストは確実にそうするだろう。
公表に適した魔物での実験の成果を用意し、時期を見て大々的な公表を行うことで自身の地位も盤石になるとウルゼンは考えているはず、と彼女は頭を悩ませる。堂々と乗り込んで『実は生きていました』と名乗り出るつもりもない。
「どうするべきか。ウルゼンを相手に証拠集めなど悠長に待っていられないし……やはり直接、魔塔に行くしかないか? しかし、たかがブロンズやシルバーの冒険者をやっている魔導師が、簡単に出入りできるような場所でもないからなあ」
イルフォードが見えてくると、いったんストラシアに「プリスコット卿によろしく、もう帰りなさい」と優しく頭を撫でて告げ、彼が飛んでいくのを眺めながら、いつまでも頭を悩ませた。
家路を走れば大きな我が家が見えてくる。馬の蹄が石畳を蹴る音を聞きつけて庭から顔をのぞかせる二匹のコボルトが、ヒルデガルドを見つけて腕と尻尾を大きく振って、大切な主をお出迎えだ。手にはほうきを持っていて、掃除の最中にわざわざ来てくれたのだろうと彼女はにこやかに手を振り返す。
「アベル、アッシュ、ただいま。いい子にしていたか?」
「してた! 掃除頑張ってた!」
「よしよし。荷台で寝てるイーリスを起こしてやってくれ」
以前よりもアベルは少しだけ話すのが流暢になっている。まだまだ話しにくそうではあるが、成長も速く、学習能力は期待していた以上だ。
イーリスを預けて先に自室へ戻り、クローゼットから着替えを取る。考えるのはシャワーを浴びながらにしよう、と浴室へ向かう。急に疲れが全身にどっと出て、がっくりと肩を落とす。あまりにも忙しい一日だった。
強盗も甚だしい冒険者を相手にし、コボルトロードを仕留め、そのうえクリスタルスライムという厄介な魔物の討伐を急いだり、いくら大魔導師でも彼女でなければ生き残れるかさえ怪しい戦いの連続だ。イーリスに怪我をさせてしまった後悔はあったが、軽いもので済んでよかったと安堵した。
(そういえば、なぜクリスタルスライムはあんな場所にいたんだろう? 強い魔物ではあるが、かなりの鈍足だからピグラットに追いつくことは不可能だし、最深部の水晶部屋も広いとはいえ知れている。他の魔物が好んで棲み処にするわけでもないし、擬態して獲物を待つにはあまりに適していないような気がするが……)
シャワーを浴びながらぼんやりする。バスタブに張った水に手を向け、指を鳴らせば、小さく奔った光が触れたと同時に湯気がたちのぼった。
(同族を捕食するほど凶悪になっていたコボルトロードにしろ、魔物が活発になっていると言っていたクレイグの話は本当なのだろうか。だとしたらその原因は? 考えることが多すぎて頭が痛くなりそうだ)
湯に浸かってひと息吐く。天井を眺めているうち、視界がぼやけて、意識が揺蕩い始める。考えは纏まらず、静かに彼女はそのまま眠りについてしまった。ゆっくり沈んでいくが、彼女の意識は戻らない。
疲れ果てていたのだろう。誰かの声が聞こえる。
『ヒルデガルド。あなたは強く生きるのよ』
その瞬間、目がぱちっと開いて湯船の中から起き上がった。
「はあっ……はあっ……死なないとはいえキツいな……!」
顔の水滴を手で拭い、ゆっくり呼吸を落ち着かせる。脳裏に過った師匠の姿と優しい言葉に、当時を思い返して表情を曇らせた。
「このまま大した事件も起きずに解決できたらいいんだが」