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朝のメールチェックを終えたころ、
フロアの入り口でパチンと手を叩く音がした。
「——はい、朝礼やりますよー。席の近くで聞いてくださいね!」
総務課長の甲高い声が室内に満ちる。
千里も姿勢を整え、周囲に倣って立ち上がった。
課長は、白い書類を片手にこちらを見渡す。
「えー、まずは昨日の決裁まわりの件から……。あと、美浜さんですね。今日から総務に入ってくださいます。みなさん、よろしくお願いします」
数名が軽く拍手をした。
だが、その場の空気が千里に向く角度は妙に浅い。
視線が合う人がほとんどいない。
(表面だけ……挨拶のテンプレート)
そう思った瞬間、課長の口元から、やや刺さる言い方が続いた。
「美浜さんは中途採用なので、最初のうちは“うちのやり方”をしっかり見て覚えてもらえればと思います。余計なアレンジはしなくていいので」
わざわざ言う必要のない言葉。
笑いながら話しているのに、
その笑顔自体が“注意喚起の札”のように固く見えた。
千里は淡々と会釈した。
課長は資料の読み上げに戻る。
社員たちはうつむきながらメモをとる仕草だけを繰り返し、
ほとんど誰も課長の言葉を真正面から受け取っていない。
(聞き流してる……慣れてるんだな)
千里はその“慣れ”に、すでに小さな違和感を覚えた。
◆
朝礼が終わると、山川が千里の席へ寄ってきた。
「美浜さん、このファイル棚の整理お願いできます?
分類はここに書いてありますので」
山川の声は柔らかい。
だが渡されたメモの書き方はどこか雑で、
棚の中身も、前任者が“時間のないまま押し込んだ”ような乱れ方をしていた。
(……誰かが困ったまま放置していた仕事だ)
無理に声に出す必要もないので、千里は静かに作業を始めた。
ファイルをめくるたび、
付箋が乱暴に貼られていたり、
年度が混ざっていたりと、
細かな違和感が次々に見つかる。
(忙しいだけ、ではなさそう。
管理する人が“いなくなっている”感じ……?)
そんな推測が浮かぶころ、
背後でひそひそ声がまた聞こえた。
「新人さん、あの棚渡されたか……」
「山川さん、うまく押しつけたな」
「まあ、中途だしね」
(表では丁寧、裏で責任逃れ……か)
千里は手を止めず、淡々と分類を整えていく。
◆
最初の週が終わるころには、
千里にも、この会社の空気の“種類”が見えてきた。
表向きは笑顔。
言葉は整っていて、挨拶も丁寧。
冗談も交わされる。
だが、その裏側には
「互いに触れない」「踏み込まない」「余計なことを言わない」
という、分厚い“暗黙のバリア”が居座っている。
誰かが困っていそうでも、それに気づかないふりをする。
誰かが忙しくても、「大丈夫?」とは聞かず、「大丈夫です」と言われるのを待つだけ。
(……これ、テンプレ化した優しさの会社だ)
千里はそう名付ける。
昼休み、千里が席で静かにサンドイッチを食べていると、
隣の席の女性が話しかけてきた。
「すごいね、美浜さん。初週であの棚片付けたんだ?」
「いえ、ただ順番に整理しただけで……」
「いや、あそこ、誰も触りたがらなかったから。
——あ、でも課長には言わない方がいいよ。
手を出したって思われると、仕事回されるから」
(仕事をしたら、仕事が回ってくる……それは普通のことじゃ?)
千里はそう返しそうになったが、その言葉を飲み込んだ。
言ったところで、この会社では
「正しい意見」はむしろ浮いてしまう。
代わりに、少し微笑む程度で答えた。
「気をつけます」
女性はほっとしたように笑って席に戻った。
千里の目元が、ほんの少しだけ曇る。
◆
金曜の退社前、
フロアには一週間の疲れが沈殿していた。
「今週もお疲れさまー」
「じゃ、また月曜に」
軽い挨拶が交わされる。
そのどれもが、薄い膜に包まれているように温度がない。
千里はパソコンを閉じ、静かに立ち上がる。
(この会社の“優しさ”は、なんだか……
誰も傷つけないようで、誰も助けない)
その感想は、喉の奥でひっそりと形を保つだけだ。
言葉にしないほうが、ここでは正しい。
蛍光灯の白さが少しだけ滲む。
千里は無表情のままバッグを肩にかけ、静かな足音でエレベーターへ向かった。
エレベーターの扉が閉まる瞬間、
彼女の瞳にだけ、かすかに疲れた影が揺れた。
そして、誰もそれを知らなかった。