テラーノベル
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雨脚はいつの間にか先ほどよりも強くなり、池へ落ちる雫が水面を細かな波で覆い尽くすと、庭石の窪みにも透明な水が溜まり始め、軒先から落ちる雨垂れは一本の細い糸のように連なっていた。
その雨の中に立ったまま、見知らぬ青年はしばらく小依を眺めていたが、やがて何かを諦めたように息を吐くと、手にしていた機械から伸びる細い綱を巻き取り始めた。
掌ほどしかない黒い筒の内部から、かちかちと小さな歯車の噛み合う音が響き、塀の上まで伸びていた綱が勢いよく戻ってくると、その先端には三本爪のような金具が取り付けられていた。
「それで塀を?」
「ああ」
「登られたのですか?」
「いや、飛んだ」
「飛んだ」
「飛んだ」
小依は青年を見つめ、それから自分の背丈よりも遥かに高い塀へ視線を移した。
今朝、雀が越えていったときには何の疑問も抱かなかった高さだったが、人間まで同じように越えられるものだとは思っていなかった。
「人は飛べるのですねぇ」
「普通は飛ばない」
「では、あなたは普通ではないのですか?」
「……お前、さっきから微妙に失礼だな」
青年は呆れたように言いながら、巻き取った器具を腰の金具へ戻した。
黒に近い鼠色の上衣は身体へ沿うよう細く仕立てられ、その上から何本もの革帯が胸や腰へ巻かれており、帯には工具らしい小さな筒や折り畳まれた金属片、細い管の繋がった圧力瓶まで取り付けられている。
書物の挿絵で見た忍びの装束とは随分違っていたが、かといって職人や兵士の衣服にも見えず、小依には彼が何者なのか見当もつかなかった。
ただ一つ確かなのは、客人ではないということだった。
「それで」
青年が小依を見た。
「いつ呼ぶ?」
「何をでしょう?」
「人」
「人」
「さっきからそれやるな」
「申し訳ありません。考えるとき、つい繰り返してしまうようで」
「そうじゃなくて」
青年は周囲を確認しながら声を落とした。
「俺を見つけたんだろ。普通なら屋敷の連中を呼ぶ」
「そうですねぇ」
「…………」
「…………」
雨音だけが二人の間へ入り込んだ。
小依も、言われてみればその通りだと思った。
見知らぬ人間が塀を越えて屋敷へ侵入しているのだから、本来なら警護の者へ知らせるべきであり、相手が武器を持っている可能性を考えれば、自分から話しかけることさえ褒められた行動ではない。
それなのに、なぜまだ声を上げていないのだろうと考えたところで、答えは意外なほど簡単に見つかった。
「まだ、あなたが何をしに来たのか伺っておりませんので」
青年の眉が僅かに動いた。
「聞いたら決めるのか?」
「はい」
「俺が嘘ついたら?」
小依は困ったように眉を下げた。
「それは……困りますねぇ」
「だろ」
「では、嘘はつかないでいただけますか?」
「頼んで解決する問題じゃないだろ」
青年は片手で顔を覆い、小さく息を吐いた。
その仕草を見ながら、小依は自分が何かおかしなことを言ったのだろうかと考えたものの、やはり何が間違っているのかは分からなかった。
「で、何しに来たんですか」
「言わない」
「まあ」
「仕事だからな」
「お仕事で人様のお屋敷へ塀から入られるのですか?」
「そういう仕事もある」
「変わったお仕事ですねぇ」
「お嬢様に言われたくないな」
小依は瞬きをした。
「わたしのお仕事をご存じなのですか?」
青年はそこで初めて言葉に詰まり、小依の衣服から庭の造り、そして屋敷へ続く廊下を順番に眺めたあと、なんとも言えない顔をした。
「……その格好で、この庭にいて、その喋り方なら、だいたい分かる」
「なるほど」
「納得するんだ」
「筋は通っておりますので」
青年はもう何も言わなかった。
代わりに空を見上げると、雨雲の様子を確かめるように目を細め、それから濡れた袖を軽く絞った。
その袖から流れた水が庭の土へ落ち、黒く小さな染みを作ったのを見て、小依はようやく彼がずっと雨の中に立っていることに気づいた。
「こちらへいらっしゃいますか?」
「は?」
「濡れておりますよ」
小依は自分の立つ軒下を示した。
青年は軒下を見てから、小依を見た。
「いや、俺、不法侵入してるんだけど」
「はい」
「分かってる?」
「先ほど塀を越えていらっしゃいましたので」
「じゃあ屋敷に上げるなよ」
「ですが風邪を引いてしまいますよ」
「俺を何だと思ってる?」
小依は少し考えた。
「不法侵入をなさっている方でしょうか」
「そこだけはちゃんと分かってるんだな……」
結局、青年は軒下へ入った。
もっとも屋敷へ上がったわけではなく、縁側から少し離れた石の上へ立ち、髪や衣服から滴る雨水を手で払っているだけだったが、小依にはそれで十分だった。
近くで見ると、青年は思っていたより若かった。
年齢は自分より幾つか上だろうか。
黒い髪は短く切られているものの、整えることにはあまり興味がないらしく、雨に濡れた前髪が額へ無造作に張り付いている。
「お名前を伺っても?」
「駄目」
「では、何とお呼びすればよろしいでしょう」
「呼ばなくていい」
「ですが、あなた、と呼び続けるのも少し不便です」
「もう会わないんだから別にいいだろ」
その言葉に、小依はほんの少しだけ黙った。
なぜ黙ったのか、自分でもよく分からなかった。
青年はそれに気づかなかったらしく、腰の器具を確認しながら何かを探している。
やがて小さな円筒を取り出すと、底の蓋を回し、内部に残っていた水を捨てた。
「壊れたのですか?」
「濡れた」
「見てもよろしいですか?」
「駄目」
「少しだけ」
「駄目」
「触りませんので」
「近い近い近い」
気づけば小依は縁側から身を乗り出しており、青年が半歩後ろへ下がった。
小依は姿勢を戻し、少し恥ずかしくなって袖の中で手を重ねた。
「……申し訳ありません。見たことのないものが多かったので」
「こういうの好きなのか?」
「好き、なのでしょうか」
「俺に聞くなよ」
小依はまた考えた。
蒸気機関について学ぶ時間は好きだった。
圧力が細い管を通り、弁の開閉によって力の向きが変わり、その力が歯車へ伝わって大きなものを動かす仕組みは面白いと思う。
けれど、それを好きだと言ったことは一度もなかった。
教師が教えるから学び、覚えるべきものだから覚えてきたのであって、好きかどうかを考える必要などなかった。
「……たぶん、好きなのだと思います」
「ふうん」
青年はそれ以上何も言わなかった。
褒めもしなければ、女性が機械を好むのは珍しいとも言わず、ただそうなのかと受け取っただけだった。
小依には、その反応が少しだけ不思議だった。
「あなたは、お好きなのですか?」
「何が」
「機械です」
「便利なら好き」
「便利でなければ?」
「捨てる」
あまりに迷いのない返答だったので、小依は思わず笑ってしまった。
「随分とはっきりしていらっしゃるのですね」
「要らないもの持って歩くと重いからな」
青年は腰の道具を一つ持ち上げてみせた。
「仕事に使う。だから持つ。使わなくなったら置いていく。それだけ」
「大切なものであっても?」
「大切なら持つだろ」
「家族から頂いたものなら?」
「好きなら持つ」
「好きではなかったら?」
「置いていく」
小依は返事をしなかった。
青年にとっては、それほど難しい話ではないらしい。
必要なら持つ。
好きなら持つ。
必要なく、好きでもないなら置いていく。
それだけのことを、小依は今まで一度も、そのように考えたことがなかった。
庭の水路では雨で増えた水がいつもより速く流れ、石の縁へ引っ掛かっていた小さな楓の葉を押し流すと、葉は一度だけくるりと回ってから、細い水門の下を潜って池へ入っていった。
「そういうものなのですねぇ」
「何が?」
「いえ。何でもございません」
青年は怪訝そうな顔をしたものの、追及はしなかった。
しばらくすると雨脚が弱まり始め、雲の切れ間から薄い光が庭へ落ちると、濡れた苔の一本一本が柔らかく輝き、葉の裏へ隠れていた小さな蝸牛がゆっくりと石垣を登り始めた。
青年は空を見上げたあと、腰を上げた。
「じゃあ行く」
「もうですか?」
「雨宿りしてただけだからな」
小依は庭の向こうにある塀を見た。
「また、あちらから?」
「いや」
青年は当然のように答えた。
「こっち」
そう言って指したのは、塀とは反対側にある屋敷の奥だった。
小依は数秒ほど考えた。
「……帰られるのでは?」
「まだ仕事終わってない」
「まあ」
青年は立ち上がると、濡れた靴底を石へ二度ほど打ち付け、腰の器具を確かめながら庭を横切ろうとした。
「お待ちください」
「何?」
「そちらは父の書斎ですよ」
青年の足が止まった。
「…………」
「…………」
二人の間へ、葉から落ちた雫の音が響いた。
「詳しいな」
「わたしの家ですので」
「そうだったな」
「父の書斎へご用事ですか?」
「違う」
「今、少し考えてから答えませんでしたか?」
「気のせい」
「では、どちらへ?」
「……便所」
小依は青年が指している方向を見た。
「お手洗いは反対側ですよ」
「…………」
「ご案内いたしましょうか?」
「お前、絶対わざとやってるだろ」
「?」
本当に分かっていないらしい小依の顔を見て、青年は天を仰いだ。
雨上がりの雲の隙間から、僅かに青い空が覗いていた。
「朔宵」
突然、青年が言った。
「はい?」
「名前。今の仕事では朔宵」
小依はその名を口の中で一度だけ転がした。
「さくや」
「名字は?」
「ない」
「ないのですか?」
「今はな」
また不思議な言い方だった。
名前とは、生まれたときから持っているものだと小依は思っていた。
篠倉という家があり、その家に生まれたから自分は篠倉小依であり、それを取り替えたり、今はないと言ったりすることなど考えたこともなかった。
「では、朔宵さん」
「さん要らない」
「朔宵様?」
「増やすな」
小依は口元へ手を添えて笑った。
「では、朔宵さんで」
「聞いてた?」
「聞いておりましたよぉ」
青年――朔宵は呆れたように小依を見たが、もう訂正する気はないらしかった。
そのとき、屋敷の奥から複数の足音が聞こえた。
「小依様?」
女中の声だった。
「先ほどからお姿が見えませんが、そちらにいらっしゃいますか?」
小依が振り返る。
廊下の向こうから、女中がこちらへ歩いてくる。
再び庭へ目を戻したとき、朔宵は既に動いていた。
腰から細い筒を抜き、上部の留め金を親指で外すと、小さな音と共に圧縮された蒸気が噴き出し、その勢いで射出された金具が屋根の端へ食い込んだ。
「え」
小依が声を漏らす間にも、朔宵は綱を引いて身体を浮かせ、柱を一度だけ蹴ると、そのまま屋根へ跳び上がった。
ほんの数秒だった。
「小依様?」
女中が庭へ顔を出す。
「まあ、こんなところに。雨に濡れてはおりませんか?」
「はい。大丈夫です」
小依は答えながら、屋根の上を見た。
もう誰もいない。
軒先から落ちる最後の雨粒が庭石へ当たり、小さく弾けただけだった。
「どなたかとお話しされておりました?」
小依は口を開いた。
見知らぬ人が侵入している。
父の書斎へ向かおうとしていた。
恐らく忍びであり、何らかの仕事でここへ来た。
伝えるべきことはいくらでもあった。
「…………」
それでも小依の頭へ最初に浮かんだのは、朔宵が話したことだった。
便利なら持つ。
好きなら持つ。
いらなければ置いていく。
そしてもう一つ。
自分は、まだ何も選んでいない。
「いいえ」
小依は女中へ微笑んだ。
「少し、独り言を」
それは恐らく、小依が生まれて初めて自分の意思でついた、誰かを守るためでも家のためでもない、小さな嘘だった。
女中と共に廊下を戻りながら、小依は胸の奥が普段より僅かに速く動いていることに気づいていた。
悪いことをしたからなのか、見知らぬ男を屋敷へ放ってしまったからなのか、それとも初めて自分だけが知っていることを持ったからなのか、その理由はまだ自分でも分からない。
客間の前を通ると、新しく置かれた投影箱から明るい声が聞こえてきた。
『皆様から届いた文を見ていると、本当に色々な方がいらっしゃるのですねぇ。今日はどこへ行こう、何を食べよう、誰と話そう――毎日は小さな選択ばかりです』
水鏡廻だった。
小依は足を止めなかった。
『ですから、迷ってしまったときには――』
ちりん。
あの小さな鈴の音が、廊下まで届いた。
『ご自分が好きな方を選べばよろしいのですよ』
小依は歩きながら、ほんの少しだけ振り返った。
開いた障子の向こうで、白銀の髪をした乙姫が扇子を口元へ添え、いつものように柔らかく笑っていた。
好きな方を選ぶ。
簡単なことのように聞こえた。
けれど小依には、自分が何を好きなのかさえ、まだ分からないものがあまりにも多かった。
庭へ目を向けると、雨を吸った苔は朝より深い緑色へ変わり、水路では増えた水が勢いよく池へ流れ込んでいる。
その流れの先、池の縁に生えた菖蒲の陰から、昨晩の魚が姿を現した。
魚はしばらく流れに逆らって尾を動かしていたが、やがて力を抜いたように身体の向きを変えると、水に押されるまま庭池の奥へ泳いでいった。
小依はその姿が見えなくなるまで、歩きながら静かに目で追っていた。
その日の夜、屋敷はいつもより僅かに騒がしかった。
夕餉を終えて自室へ戻った小依の耳にも、普段なら聞こえないほど忙しなく廊下を行き交う足音が届き、庭を挟んだ向こうの棟では提灯を手にした使用人たちが、何かを探すように何度も戸を開け閉めしている。
何があったのだろうと思いながら硝子戸の向こうを眺めていると、間もなく廊下から足音が近づき、女中が障子の外から控えめに声を掛けた。
「小依様、まだお休みではございませんか」
「はい。どうかなさいました?」
「旦那様の書斎へ、何者かが入った形跡があったそうでございます」
小依の指が、読んでいた本の頁の上で止まった。
「……まあ」
自分でも驚くほど、普段と変わらない声が出た。
「何か盗まれたのですか?」
「それが、まだ分からないそうで……金品には手を付けられていないようなのですが、書棚の位置が僅かに変わっていたとか。念のため今夜は警護を増やすそうですので、小依様もお部屋からお出になりませんよう」
「分かりました。ありがとうございます」
女中の足音が遠ざかるまで待ってから、小依はそっと本を閉じた。
やはり、お手洗いではなかったらしい。
そう考えると、少しだけ可笑しくなった。
けれど笑ってよいことではないとすぐに思い直し、小依は口元へ浮かびかけた笑みを袖で隠した。
もし朔宵が何か大切なものを盗んでいたら、自分はどうするのだろう。
もし父が困るようなことをしていたら。
もしあのとき声を上げていれば防げたのだとしたら。
胸の中へ次々と浮かぶ問いに、昼間のような簡単な答えは見つからなかった。
自分で選ぶということは、選んだあとに起きたことまで、自分のものになるということなのかもしれない。
そんなことを考えながら、小依は立ち上がって硝子戸を僅かに開いた。
雨はすっかり止んでいた。
濡れた庭からは土と苔の匂いが立ち、葉に残った水滴が月明かりを受けて細かな光を散らしている。
そのとき、縁側の端に何か白いものが落ちていることに気づいた。
小依は周囲を見回してから庭へ降り、それを拾い上げた。
小さく折り畳まれた紙だった。
開いてみる。
中には、随分と雑な字で一言だけ書かれていた。
『黙っててくれて助かった』
小依は目を丸くした。
その下には、さらに小さな文字が続いている。
『あと便所の場所は覚えた』
「…………」
しばらく紙を見つめたあと、小依はとうとう堪えきれなくなり、誰にも聞こえないよう口元を袖で隠した。
「ふふっ……」
庭池の水面へ月が揺れ、そのすぐ下を一匹の魚が静かに横切っていった。
小依は紙を捨てなかった。
誰にも見つからないよう丁寧に折り直すと、それを袖の奥へしまい込んだ。
コメント
1件
わあ、めちゃくちゃよかったです……!雨の描写が繊細で、そこに立つ小依と朔宵の距離感が絶妙でした。特に「人は飛べるのですねぇ」「普通は飛ばない」の掛け合い、なんだか癖になりますね。小依が初めて「自分の意思でついた嘘」を選択するラスト、ぐっときました。便所の場所を覚えたって追伸、思わず笑いました(笑)。続き、めっちゃ気になります!
都築七美
278
葉菜
54
もな
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