雫の躰を覆う無数の裂傷が痛ましい。
傷の深さは致命傷には至ってはいないのかも知れないが、出血量は多く、膝を着いたまま動けないでいる。
「クククッ――カッカッカッカッカ! どうよ? お前は俺には勝てない事を思い知ったかよ!?」
それを見下ろしている時雨の高笑い。正に完全勝利の構図。
「ちっ……」
雫は言い返せないのか、悔し紛れの舌打ちのみ。
『嘘だろオイ……』
ジュウベエは遠く離れた位置で、その状況に信じられないでいる。
贔屓目無しで二人の力は、ほぼ互角だった筈だ。
時雨も無傷では済まない筈――なのに。
“何故幸人だけが倒れている?”
「バラバラにするつもりだったが、その程度で済んだ事は褒めてやるよ」
ただ一つだけ確かな事は――
「まあ次で身体のパーツ、サヨナラなんだけどな」
己の主人が危機だという事。
時雨は両手の紅い双鞭を捻る様に操作し、幾多にも枝分かれした血の鞭を雫の身体へ巻き付けていく。
腹部、左手、左腕、右手、右腕、両足――そして首へと。
「幸人ぉぉぉ!!」
それを見たジュウベエが二人へ向かって駆け出していた。
「どうよ、これから死ぬ気分は? 命乞いでもしてみっか? 俺の気が変わるかもしれねぇぞ」
ここで慈悲――と言うより、弱者を弄び嘲笑うかのような時雨に対し――
「命乞い? 馬鹿かお前は……」
雫のそれは死をも厭わぬプライドの顕れか?
「ぷっちーん。じゃあ死ねや」
時雨としてはどちらでもいいのか、遠慮無く指先を操作する。
「――やめろぉおぉぉぉ!!」
駆けながらジュウベエは絶叫するが、もう遅かった。
時雨が手を動かした瞬間――雫の五体は鮮血と共に別れを告げる。
ボトボトと――其々の部位が地に墜ち、紅い波紋が拡がっていった。
「てっ……んめぇぇぇっ!!」
ジュウベエが疾風の如き速さで、時雨へと目掛けて飛び掛かっていた。
「よくも幸人を! 殺してやるぅ!!」
主人が惨殺された事が許せないのだ。
“シャアッ”とその爪を時雨の喉元へ振りかざすが――
「うおっ! 危ね!」
しかし寸での処で避けられ、更には着地後、返す刀で再度飛び掛かるが――
「落ち着けって! アイツが弱いから仕方無いんだよ」
むんずと首根っこを掴まれてしまい、その爪は虚しく空を切る。
ジュウベエは尚も抗おうとするが、空中地団駄状態だ。
「それより俺んとこ来ないか? お前が気にいっちまったんだ」
時雨はニカっと笑顔を見せ、ジュウベエを懐柔の構えだ。
“コイツ……よくもいけいけしゃあしゃあと!”
勿論答えはNOに決まってる。
「ははは、そう嫌がんなって」
しかしこの状態では、抗おうにも抗えなかった。
『幸人……くそぉおぉぉぉっ!!』
彼は自分の無力さを呪った。言葉にならない慟哭が響く。
「今日は気分が良いぜ! なんたってあいつを――」
「馬鹿笑いはそこまでにしておけ」
それは割り込む様に、不意に聴こえた二人以外の声。
「――っ!!」
時雨は反射的に振り返り、そして己が目を疑った。
「なっ……なんで?」
先程確かに身体の部位が無数に分断され、血の海に沈んだ筈の――
「ゆっ……幸人っ!?」
ジュウベエも思わず声を上げる。
主人の無事を喜ぶというより、それは怪訝そうな表情で。
夢が現か雫が変わらぬ姿で、斜に腕組みしながら時雨の背後に立ち誇っていた。
不可解な現象に反射的に距離を取った時雨だが、すぐに疑問が氷解する。
「久々で浮かれちまって、つい忘れてたよ……」
落ち着きはらった口調の時雨。
「え……えぇ……は?」
首根っこを掴まれていたジュウベエは、既にそっと離されており、彼は相変わらず唖然としてその場で固まっていた。
「そういやお前も使えるんだったっけ? 俺と同様、水傀儡ならぬ……氷傀儡を――」
“ゴーストゼロ・ファントムミラージュ ~鏡花水月:幻氷界”
それは写し鏡の如く、現象まで精巧に再現した氷の幻影。
地に散らばってる遺骸だった“モノ”は、既に血の海には無い。
それ処か血痕すら無い。部位大の氷の破片が散らばってるだけだった。
だが最初に刻まれた雫の無数の裂傷はそのままだ。
恐らくは時雨に五体を囚われた、あの寸前の瞬間に入れ替わっていたのだろう。
それはまるで、水面に映る月が決して掴めぬ様に――
「まあ死期が一瞬延びただけ。お前が俺に劣る事に変わりはねぇ。それにこれで終わりじゃ、余りに拍子抜けもいいとこだ」
「そうだそうだ! オレまで騙すなんて趣味悪ぃぞ幸人!」
時雨は再度、血の双鞭を発現させ、ジュウベエは主人に文句を垂れてはいるが、その口調は何処か安堵が感じられた。
それは無事だった事。時雨もまた同様に、再び続きが出来る事への悦びなのか。
「次は逃さねぇよ?」
忍び寄る紅き双鞭。
振り出しに戻った感はあれど、俄然時雨が有利な事に違いはない。
多数の裂傷を負った雫とは違い、彼は未だに無傷――
「……おめでたい奴だ。まだ気付いてないのか?」
腕組みしたまま臨戦態勢に入らない雫の、その突然の言葉の意味。
「あん? 何訳の分から――っ!!」
分からなかったが次の瞬間、時雨はすぐに理解する事となる。
その言葉の意味を――
「ぐおぁっ!?」
――異変。
それは嗚咽と共に時雨の右肩から、突如水道管が破裂したかのように鮮血が吹き上がる光景。
「ぐっ!」
そして今度は逆に時雨が膝を着いていた。
「かすっていた事にも気付いてなかったのか? お前はもう終わってるんだよ……」
膝を着いた時雨の下へ歩み寄り、右手を掲げる雫。
その掌の蒼き輝きこそ今は失われているが、あの一撃は確実に時雨を捉えていたのだ。
「くく、何言ってんだか……これで勝ったつもり? 俺がこの程度の傷で――はっ!」
そう。所詮それは只のかすり傷。
傷の度合いは雫の方が上。だがすぐに彼は気付いてしまった。
この状況の深刻さに――
「ちっ!」
時雨は反射的に己の右肩を確認。やはりというか、その傷痕からは凍結の侵食が始まっている。出血は既に無い。
絶対零度を宿した雫の掌は、例え僅かなかすり傷であっても、そこから凍結が侵食し、やがて全ての細胞が動きを止めていき、死滅崩壊へと誘われる。
止める方法は皆無。あるとすれば実行者の雫のみ。
「お前にそのまま返してやろう。俺に命乞いでもしてみるか? 俺の気が変わるかも知れんぞ」
先程と全く逆の立場となった二人。
雫の嘲笑うかのような表情が、まるでしてやったりだ。
『性格悪っ! いや同レベルだアイツら……』
外野で眺めていたジュウベエの、溜め息に近いぼやき。
二人は全く性格が違う様で、実は最も近しいのでは? と思わずにはいられない。
それは長年連れ添ってきたジュウベエですら見た事の無い、雫の新たな側面を見た気がしたのだ。
「命乞い? くくく、馬鹿かお前は?」
薄笑いを浮かべながら、造作もなく立ち上がった時雨。
完全に先程の焼き直し版だが、状況は少々違う。
時間は待ってはくれない。
刻一刻と凍結は時雨を蝕んでいた。
「俺の特異能……忘れちまったのか?」
それは凍結が侵食する傷口からの異変。
“何だあれは?”
ジュウベエも思わず、その異変に目を見張った。
それは時雨の傷口から、何かが盛り上がるかの様に蠢いているのを。
そして――
“ブシュッ”
傷痕から勢いよく鮮血が吹き上がった。
「んなっ!?」
それが何を意味していたのか、ジュウベエには理解出来ない。
まるで自滅。血を流し過ぎたのか、時雨の右肩からは夥しいまでの血液が流出していた。
「俺の特異能で死海血を強制的にそこだけ排出させれば、少なくとも他の細胞が凍る事は無ぇ。俺に絶対零度は通用しねぇよ」
彼は何事もなく、当然の様にそう宣言。
つまり時雨は凍結が全体を侵食する前に、その傷口の部分だけを血液ごと外部へ排出したのだ。
自らの痛みをもいとわぬ覚悟、それを平然と。
云わば肉体の一部を抉り取ったのだから、ダメージも相当なものだろう。
「それにしてもやってくれんじゃねぇか……。久々に本気でぶっ殺したくなってきたぜ!」
それでも時雨のやる気は少しも削がれてはいない。それ処か、ますます高まってさえいた。
「奇遇だな……俺もだよ。次は心臓を狙う。これなら排出しようもあるまい」
それは雫もまた同じ。再び宿る蒼き輝きはその顕れか?
『てかまだやる気かよ!?』
呆れ返るジュウベエを余所に、二人は更なる境地へ――
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!