ウーヴェが誘拐され監禁されている時にその心身に叩き込まれた事、誰しもが持っている筈の自尊心を根刮ぎ奪われたことにリオンが気付き、それ故にウーヴェが自ら死を選ぼうとしたのだと、自殺未遂の真相にも気付くと、奪われたのなら奪い返す、事件の最中に植え付けられたものは約束と言う名の薬でもって枯らしていく決意をしてから数日後、出される食事をベッドの上で食べても良いこと、その時はフォークやナイフ、スプーンを使う事を根気強くリオンが教えた結果、床にドッグフードを入れた皿をわざと置いていてもウーヴェは目を向ける事もなく出されたものをゆっくりゆっくり時間を掛けてでも食べるようになっていた。
今朝も出されたそれを食べるウーヴェを見守っていたリオンは、最後に残しておいたリンゴをウーヴェが嬉しそうに手に取り以前と同じようにそのまま齧り付くのをベッドの柵に手をついて顎を乗せて自分のことのように嬉しそうに見守っていたが、無精髭が生えたままの顎を伝う果汁を指で拭きながら笑いかける。
「なーオーヴェ、美味いか?」
「……美味しい」
「そっかー。あ、今日さ、オーヴェがちょっとだけ喜んでくれるかなーって事あるから」
「?」
リオンの期待していろとの言葉にウーヴェが小首を傾げるが、楽しみにしていろ、その間俺は少し職場に顔を出してくると伝えるとウーヴェの手がぴたりと止まってリンゴが皿の上に落下する。
「オーヴェ?」
「……いや、だ」
リンゴを落としてどうしたとリオンが顔を覗き込むが、嫌だと呟いて顔を青ざめさせるウーヴェに気付いてベッドに腰を下ろしそのまま肩を抱いて背中を撫でると、ウーヴェが身体を震わせながらリオンにしがみつく。
入院してからの日々、自宅に着替えを取りに帰ったりする事はあっても長時間傍を離れることがなかったリオンだったが、それに気付いたウーヴェが嫌だと震える声で呟きリオンにしがみついて身動きを取りにくくさせる。
「大丈夫だって、オーヴェ」
もうここは安全な病院だし何かあればすぐにカスパルも駆けつけてくれる、だから半日だけ職場に行かせてくれと背中を撫でるものの、何が何でも嫌だと言うようにリオンにしがみつくウーヴェの身体が小刻みに震えていて、感じている不安や恐怖を伝えてきて決意を鈍らせてしまう。
「オーヴェ」
名前を呼んで顔を上げさせようとするがそれすらも嫌なのか嫌だと小さく叫んだウーヴェに溜息をついたリオンは、頬を両手で挟んで顔を上げさせると、色の悪い震える唇に小さな音を立ててキスをする。
「オーヴェ、大丈夫」
「いや、だ……」
一人になるのは嫌だと震える声で縋るように見上げるウーヴェの額に今度はキスをしたリオンだったが、それでも身体の震えが収まらずにどうするべきかと思案した時、ドアが開く音が聞こえて小さな咳払いの音も聞こえてくる。
「……お邪魔しても良いかな?」
「アイヒェンドルフ先生……!?」
その声の主に二人同時にドアの方へと顔を向けるが、ステッキを突いた老紳士がお邪魔して申し訳ないと謝りつつ入ってきたことに気付きウーヴェの顔から不安が薄らいでいく。
「おお、ウーヴェ。話はリオンから聞いたよ。大変な目に遭ったんだね」
可哀想にと己の愛弟子を気遣うアイヒェンドルフにウーヴェがリオンや両親に見せていたものとはまた違う顔で頷き、シーツをぎゅっと握りしめる。
「先生……っ」
「ああ。でも、命があって良かった」
誘拐されて殺害されることも多いのに命があって本当に良かったとリオンが用意した椅子に腰を下ろし俯くウーヴェの肩を撫でたアイヒェンドルフは、リオンが少し職場に顔を出してくるので先生の都合が良ければ俺が戻ってくるまでここにいてくれませんかと懇願すると、アイヒェンドルフが一も二もなく頷いてくれる。
「もちろん。今のうちにしなければならないことがあればやっておきなさい」
「ダンケ、先生」
過去に一度アイヒェンドルフとクラシックコンサートの鑑賞をしその後三人で食事をしたことがあったが、その時の様子からリオンはアイヒェンドルフがウーヴェの中では別格の存在である事を見抜いていて、空腹なのに食事をしない日々に現状報告を兼ねて食事をしない事への対処方法を相談するために連絡を取ったのだ。
そして今日の見舞いになったのだが、カスパルやギュンター・ノルベルトらが来ても難しいが恩師のアイヒェンドルフならばウーヴェを落ち着かせる事が出来ると踏んで後を頼むと告げるが、ウーヴェが伏せていた真っ青な顔で見つめてきたため、もう一度頬を両手で挟んで額を重ねたリオンは、大丈夫だけど約束と告げてウーヴェにおうむ返しに呟かせる。
「そう、約束。俺は二度とお前を一人にしない。お前も俺を一人にしない。そうだろう?」
「……あ、あ……」
「よし。今から職場に行って少し仕事を片付けてすぐに戻ってくる。その間、先生に話を聞いて貰ってろよ」
「……」
「俺よりも先生の方がずっとずーっと聞き上手だしな」
俺なんて聞いていることしか出来ないんだからと笑ってウーヴェの頬にキスをしたリオンは、行ってくるから待っててくれダーリン、帰りにベルトランのタルトを買って帰ってくると告げると長い逡巡の後ウーヴェの頭が上下に揺れる。
「……生クリーム……」
「へ?」
「タルトに生クリームを載せたいのかい、ウーヴェ?」
だが次いで聞かされた言葉が予想外のものだった為に素っ頓狂な声を上げたリオンにアイヒェンドルフが苦笑しつつ言葉を補完するように問いかけると、先生が好きだと返し二人の目を同時に見張らせる。
「ああ、良く覚えていてくれたねぇ、ウーヴェ。ありがとう」
「そっか。じゃあ生クリームも付けて貰おうな」
だから約束とアイヒェンドルフが意味ありげに目を細めたことに気付きつつ約束という言葉を繰り返して唇にキスをしたリオンは、先生、少し頼みますと告げて病室を飛び出していくのだった。
その背中を少し呆れた顔で見送ったアイヒェンドルフだったが、ウーヴェの様子が明らかにおかしいことに気付き、椅子の上で足を組み替えて姿勢を正すと、さぁウーヴェ、私には全てを話してくれる約束だったねと告げてウーヴェの顔を振り向けさせる。
「……先、生……」
「ああ。苦しかったね。でも良く頑張った」
ドクターが誘拐されたという事件は新聞で読んだが、まさかウーヴェの事だとは思わなかったと反省するアイヒェンドルフに泣きそうな顔でウーヴェが口を開く。
「先生、俺は、生きていて良いのですか……!?」
「誘拐されているときにそう言われたのかな?」
「……人の幸せを奪っておきながらお前は幸せになれるとでも思うのかとも言われました」
それはジルベルトが誘拐したウーヴェをケージに閉じ込めてすぐに吐いた言葉だったが、その時の彼の目が忘れられずにきつくシーツを握りしめると、人は誰でも幸せになる権利があるとアイヒェンドルフが穏やかに返す。
「でも……」
「ウーヴェ、勘違いしてはいけないよ。きみが犯人の幸せを奪った訳じゃない」
「……」
「そもそもその幸せは本当にその人のものだったのかな?」
アイヒェンドルフの言葉の意味が咄嗟に理解出来ずに眉を寄せたウーヴェは、それはもしかするとその人のものでは無かったかも知れないと返されて目を見張る。
「その幸せはその人が願うだけでその人のものではなかったんだよ」
手に入れるための努力をしたのだろうか。それもしないでただ自分以外が手に入れた事への嫉妬や八つ当たりをきみがされただけだと穏やかに告げて手を組む恩師の顔を限界まで見張った目で見つめたウーヴェは、嫉妬と呟き脳裏に狂気の宿ったような目を思い出す。
誘拐され監禁されている間は一切考えることを放棄していた脳が動き出し、ルクレツィオはともかくとしてジルベルトの執拗なまでの暴行、言葉による加虐、そして最後に咥えろと命じたそれがリオンと一緒にいる己に対する嫉妬からきたのだとするとと考えたとき、最後に何が楽しいのか分からないと呟いたその言葉の真意に気付く。
もしかするとリオンを太陽だ光だと思っていたのは己だけではなく、長年同じ刑事として付き合っていたジルベルトもそうだったのではないか。
ジルベルトは自認していたかはともかく、リオンの事が好きだったのではないか。
自分たちのように性的な関係を持ちたいと思っていたかどうかは不明だが、リオンを友人以上の思いで見ていたのではないかとまで気付くと、己の自尊心を根こそぎ奪うが命を奪うことはなかった理由にも気付いてしまう。
きっとウーヴェを殺してしまえばリオンの中でジルベルトの存在は憎むだけではなく消し去りたい記憶になってしまうだろう。それだけは絶対に避けたいとの思いからウーヴェを殺すという最後の一線を越えないようにしていたが、リオンと同じ街でウーヴェが暮らすことも気に食わないため人身売買の客に売り飛ばそうとしていたのではないか。
己の傍にあった光、それを奪われたジルベルトの復讐、それが今回の事件のもう一つの動機なのではないかと事件中には絶対に考えられなかったことに気付き、アイヒェンドルフがどうしたのかなと優しく問いかけると、ウーヴェの頬に昨日までとはまた違う種類の涙が流れ落ちる。
リオンという光を奪われるだけではなく奪った相手との関係を日々聞かされ続けたジルベルトの胸の痛みを思うと、己が持つ言葉では言い表せないほどだった。
だが、それでも同じ強さで光を望み手にしたのは彼ではなく己で、またリオンが選んだのも己なのだと脳味噌の片隅が悲鳴のような声を上げる。
「ウーヴェ? どこか痛いのかい?」
「……思っている人に同じように思われる……俺はそれだけでも幸せなんですね」
「そう、だね」
「はい……」
もしかすると、いや、きっと彼も己と同じようにリオンを思いまた思われたかったはずだと告げて右膝を立てて額を押し当てると、アイヒェンドルフの手が優しくウーヴェの頭を撫でる。
「そうかも知れない。けれどリオンが選んだのは他でもないきみなんだよ、ウーヴェ。それに気付いたならきみが生きていても良い事は分かったね?」
「……はい」
「きみの命はきみだけのものではない事も理解出来るね?」
「……は、い……」
愛し愛される存在、その人のための命でもあるとアイヒェンドルフが穏やかな口調で告げるとウーヴェの脳裏にヘリポートの端で震える腕で必死に抱きしめながらも、その狼狽ぶりを腕の震え以外に見せなかったリオンの言葉が蘇る。
俺と一緒に辛く苦しい生を終えるか、それともずっと一緒に生きていくか。
その言葉に込められているのは一人きりではない、辛く苦しいことがあっても支える人がいる事を忘れるな、手を伸ばせばすぐそこに俺がいるとの思いで、どんなことがあっても二人で一緒に乗り越えていこうという強い意志だった。
足を砕かれ不自由な暮らしになるウーヴェを支えていくという意思が込められていたそれだが、重荷かどうかを何故お前が決めると冷たく言い放ったのもその思いがあればこそだと気付くと涙を止めることが出来なくなる。
立てた膝に顔を押しつけシーツに涙を吸わせて肩を震わせるウーヴェを優しく見守っているアイヒェンドルフは、リオンも随分と心配をしていたがご両親はどうされていると問いかけ、俺がまだ不安定だからと言って面会に来ない代わりに毎日電話でリオンが報告してくれていると涙声で教えられて苦笑する。
「そうか。それは随分と不安な思いをされているだろうな」
「……はい」
両親をはじめ兄や姉にも心配を掛けている事に今更ながらに気付いたウーヴェが素直に頷くと、きみから直接電話をすれば不安も少しはマシになるとアドバイスを受けてもう一度頷く。
「ああ、でもそれにしても本当にきみの傍にリオンがいて良かった」
「……」
初めて紹介されたときは驚き戸惑ってしまったが、今回のような時、きみの言動に驚いておろおろしたり感情的になるような人であればきっと今頃最悪の結末を迎えていただろうと安堵するアイヒェンドルフの言葉に顔を上げたウーヴェは、袖で涙を拭うと何度か深呼吸を繰り返して震える呼気ではいと告げる。
「……あいつは……どんな俺を見ても、全てを受け入れてくれました」
「そうか」
「はい。……首輪やケージがなくて良い、食べるものは……ドッグフードでなくても良いなど……」
事件の時に心身に叩き込まれたペットという扱い、それを一つ一つ掻き消し奪われた自尊心を二人で取り戻そうとしてくれる、自分はペットではなく人間だと教えてくれるのだと己が愛しまた愛してくれる男がどれ程偉大な男であるかを再認識した顔でウーヴェが告げ、ここにリオンがいない事を地団駄を踏んで悔しがるほどの穏やかな綺麗な笑みを浮かべる。
「俺は……そんな男に愛されているんですね」
「そうだね」
「……リオンと一緒に幸せにならないと……リオンに申し訳、ないですね」
「うん、そうだね」
ウーヴェの心の中の動きを読んで頷き、そうすることが君たちにとって本当に良いことだと頷くアイヒェンドルフにウーヴェがもう一度袖で涙を拭った後、今日は先生が来て下さって本当に嬉しいですと笑い、アイヒェンドルフも何度も何度も頷いて目尻に浮かぶ涙を指で拭き取ると、年を取ると涙もろくなると笑い、ウーヴェもそう言えばリオンが自殺を引き留めてくれた後に父と話をしたがその目にも涙が浮かんでいたことを思い出すと不意に父とギュンター・ノルベルトに会いたくなってしまう。
「どうしたんだい?」
「……先生と話をしていたら、父と兄と……話をしたくなりました」
その言葉の重みをウーヴェ以上に感じ取ったアイヒェンドルフが今度は驚きに目を見張るが、程なくして顔中を笑み崩れさせたかと思うとそうかそうかと何度も嬉しそうに頷く。
「そう言えばお父さんやお兄さんと話が出来るようになったのもリオンのお陰だと言っていたね」
昨年の秋、長年ウーヴェの家族の間に存在していた溝がリオンのお陰で取り払われたと報告を受けていた事を思い出したアイヒェンドルフが頷き、本当にあの青年の存在はきみにとって無くてはならないものだとも頷く恩師にウーヴェも頷くと、感謝の気持ちを言葉で伝えたいがどのような言葉が良いか分からないと困惑するが、君たちの場合は言葉にしなくても大丈夫だろうと苦笑される。
「そうですね」
「うん、きっとそうだろう」
もっとも、君たちの日常を見ていたわけではないから分からないと片目を閉じるアイヒェンドルフにウーヴェが小さく吹き出し、肩を揺らして笑ってしまう。
「ああ、やはりきみは笑っている方が良い。うん」
その言葉に可能な限り笑っていられるようにしようと決めたウーヴェは、そうですねともう一度頷き、リオンが持ち帰ってくるリンゴのタルトを楽しみだと事件以来初とも思える穏やかな声で恩師に告げるのだった。
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