コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
ウーヴェをアイヒェンドルフに預けて病院を出たリオンは、職場に出向く前に行かなければならない場所を思い出し、病院近くの路面電車の駅に向かうと通勤ラッシュが終わって比較的空いている座席にドサリと腰を下ろして天井を見上げて溜息を吐く。
数日前に見せつけられた現実、あの時はウーヴェに罪悪感を抱かせないようにこれから治していこうとの思いから必死に伝えたのだが、よくよく考えれば成人男性にドッグフードを食わせていたという行為や首輪を巻いてケージに閉じ込めていた行為から、ジルベルトがどれほどウーヴェを憎んでいたのかに気付き、あの手紙を燃やしておいて良かったと本人も意味の分からない苦笑を零す。
性別の関係なく人に好かれることは嬉しいが最も愛する人の尊厳を土足で踏みにじるだけではなく死んだ方がマシと思える行為をその身体に叩き込んだ男に愛されていたとしても素直に喜べるはずもなく、それどころか既に手の届かない場所にいる男に対し憎悪の念を抱くことになってしまいそうだった。
生きている内に二度と再会出来ない存在になった友人-不思議なことに今でもリオンの中でジルベルトは友人だった-を憎悪することは常に彼の事を考え続けることになり、それは愛情という衣を裏返しにしたようなものだった。
それをリオンは無意識に感じているためか、ウーヴェに対する仕打ちの結果をまざまざと見せつけられてもそれでも憎悪することは出来なかった。
路面電車が目的の駅に到着したことに気付いて慌てて飛び降りブルゾンのポケットに手を突っ込んで歩き出したリオンは、何週間か前にはこの道を絶望的な気持ちで歩いていた事を思い出す。
その時の思いを振り返ればただ真っ暗な中にぼんやりと続く道を歩いていたように思えてふと振り返ったリオンは、左右が切り立った崖などではなく交通量も比較的ある道路を歩いていることに気付き無意識に己が闇に取り込まれ掛けていた事にも気付くが、苦笑してタバコに火を付けた時、その小さな赤い火の向こうに長い髪を風に揺れさせ、腰に手を宛がってじっとこちらを見つめる女性の姿を見つけて危うくタバコを落としそうになる。
「……ゾフィー」
お前が残していったあの手帳のおかげで随分と酷い目に遭ったぞと取り落としそうになったタバコを咥えて煙を吐くと何よその言い方と拗ねた声が脳裏に響くが、にやりと笑って冗談だと告げると心底安堵したような溜息も聞こえてくる。
『……あたしも気になってたんだから』
「そっか。でもあの時はみんな精一杯だったもんな」
あの時の自分たちは出来る事を精一杯やったのだ。その結果が思いも掛けない形で顕在したとしても恨み言を並べ立てることでもなかった。
やるべき事をしなかった結果の事ならば後悔も悔恨も溢れ出すだろうが、その時に出来うる事をやり遂げた満足感からは淡い後悔だけしか出てこなかった。
『ねぇ、ヘル・バルツァーは大丈夫なの?』
「あー? 俺がいるから大丈夫に決まってるだろ?」
馬鹿なことを聞くなと呟きながら教会に向けて歩いていたリオンは、通り過ぎる人たちがいつものようにリオンを見かけては親しげに声を掛けてきた事からギュンター・ノルベルトがマスコミに手を回した結果がここにも出ている事を知り、ウーヴェを通してしか知らない彼の手腕の一端を目の当たりにする。
ウーヴェに対しては恐るべき甘さを発揮する兄だがバルツァーという世界的規模の企業の社長という重責を担っている実力はこんな所でも遺憾なく発揮されるもののようで、リオンも親しげに挨拶をしつつ教会の敷地に足を踏み入れる。
いつ来てもボロボロの教会と児童福祉施設の建物を見上げたときに脳裏で響いていた声が聞こえなくなったことに気付き、肩を竦めてドアを開ける。
「マザー!」
いつかの様に玄関先で大声を張り上げるとこれもまたいつかの様にバタバタと数人分の足音が建物のあちらこちらから響くが、真っ先に顔を出したのが赤毛の長身の幼馴染みだったことから軽く驚いてしまう。
「何だ、来てたのか? 仕事はどうした?」
「今日は昼から出張だからここに寄った。それよりも、お前、あのメールは何だ」
リオンと同じく咥えタバコで世の中の全てが面白くないような顔をする幼馴染み、カインを見上げたリオンが無言で肩を竦めると、人のことには興味も関心も無いはずのカインが更に言葉を続けたためにどうしたとその顔を再度見上げる。
「お前があんなものを送るからばあさんが大変なことになってる」
「は!?」
幼馴染みが言うばあさんが誰かをすぐに察しもう一度名を呼びながら廊下を進んだリオンは、キッチンではなくゾフィーが使い今はマザー・カタリーナが使っている部屋のドアを開けると顔色の悪い母がベッドに力なく腰を下ろしている姿を発見する。
「マザー!?」
ウーヴェ以上の窶れぶりに驚き部屋に飛び込んだリオンだったが、その声に反応するように顔を上げたマザー・カタリーナの目から一瞬で涙が溢れて肩を震わせた姿に呆然と立ち尽くしてしまう。
「……ずっとこんな感じだぞ」
「……そっか。悪ぃな、カイン」
ずっとという事はあのメールを見た後から毎日ここに顔を出してくれていたのだろうと、顔を両手で覆って泣くマザー・カタリーナを見つめたままカインに礼を言ったリオンは、そっと彼女の前に膝を突くとその肩を撫でて呼びかける。
「マザー、心配掛けて悪かった」
「リオン? リオンなのですね?」
「うん。悪ぃ。ちょっとオーヴェから離れられなかったから連絡も出来なかった」
本当ならば一緒に生きていくと決めた時にすぐに連絡するべきだったがそれも出来なかったと、本来ならば真っ先に連絡を取らなければならなかった母への報告を怠っていた事を素直に詫びると、泣きはらして真っ赤に染まる目で見つめられいつしか皺が増えてしまったがそれでも優しさは変わらない手で頬を挟まれ額と額と重ねるように顔を寄せられる。
「リオン……あなたがここにいる事を神に感謝します。神よ、ありがとうございます」
「……心配掛けて悪かった」
もう一度詫びて伸び上がるように母の背中を抱きしめると腕の中で細い身体が震えてリオンが生きている喜びを神に感謝する声が響くが、ウーヴェの様子はどうですかと問われて小さく溜息を吐く。
「誘拐されてるときにドッグフードを食わされたり首輪巻かれてたりしてたから、自分のことを犬だって思い込んでた」
「そんな……!!」
「うん。お前は犬じゃないって一つ一つ教えていくのに時間がかかっててさ、それで連絡できなかった。一人にしたらすげー不安になるからずっと離れられないし」
さすがに入院して結構な日数が経つが離れられないのはちょっと苦しいから今日は別の人にバトンタッチしてきたと伝えると、マザー・カタリーナが涙を拭って今度はウーヴェのために真摯に祈ってくれる。
それが伝わりますようにと願いつつマザー・カタリーナの頬の涙を袖で拭ったリオンは、ただ少し前から口調も声も前のようになってきたと頷き、あと少しできっと子ども返りと呼ばれる状態から抜け出せる、そうすれば本当に俺が愛して止まないウーヴェに戻ると笑うと母の頭が上下し、きっとそうですねと希望的観測からではなく本心からそう信じていると同意され、リオンが軽く唇を噛み締めるとさっきよりは優しくマザー・カタリーナの背中を抱く。
「さっきゾフィーに会った」
「何か言ってましたか?」
「あいつなりに責任感じてるみてぇだ」
「あの子は優しい子ですから」
例え言葉がどれ程厳しいものであろうともその心は優しさに満ちていたと頷く母に息子も小さくうんと返し、カインとも一緒に話がしたいからキッチンに行こうと誘う。
マザー・カタリーナとリオンが廊下に出るとカインの姿はなく代わりに心配を隠さない天使像の顔が見えたため、心配掛けたとブラザー・アーベルに手を上げると、本当に本当に心配したんだぞといつだったかを彷彿とさせる顔で怒鳴られてしまい、首を竦めて悪かったと謝罪をする。
「アーベルも話があるからちょっとキッチンに来てくれよ」
「コーヒーを飲ませてくれるのなら話を聞こう」
「はいはい。用意するから来いよ」
キッチンに三人で向かうとテーブルに赤毛の幼馴染みが先に腰を下ろしているのを発見し、まだここにいたかとリオンが苦笑する。
「何だ」
「コーヒー飲むか?」
「……ミルク少なめ」
「分かった」
最近ここに来ればコーヒーばかり淹れている気がするとリオンが不満を口にするが、それだけお前がここの人達を心配させているのだろうとカインに指摘されて奇妙な音を喉の奥で発してしまう。
「リオン、ウーヴェですが、お見舞いに行くことは出来ますか?」
「オーヴェの様子を見てから返事する」
「はい」
人数分のコーヒーの用意をし手早くカップに注いだリオンはテーブルに腰を下ろして行儀悪く片膝を立てると、タバコに火を付けて細く立ち上る煙を見上げる。
「話とは何だ?」
「んー……あのさ、ちょっと相談がある」
言い出しにくいことなのかそれともどのように伝えるべきかを思案しているらしいリオンの様子に三人がそれぞれの顔を見つめるが、マザー・カタリーナが代表して金銭的なことで不安があるのですかと問いかける。
「入院が結構長引くみたいでさ。クリニックもその間閉めなきゃならねぇし」
「そう、ですね」
「そう。で、金を貸して欲しいって言うんじゃねぇんだけどな……」
まだこれはウーヴェに伝えていないがと断りを入れてあの夜決意をした思いを口にすると今度は三人の顔が同様の驚きに彩られるが、真っ先に理解を示し同意をしてくれたのもマザー・カタリーナだった。
「あなたが決めたことなら間違いはありません。信じた道を進みなさい、リオン」
「ダンケ、マザー」
その一言が欲しかったと素直に頷いたリオンは隣で何とも言えない顔で見つめてくる幼馴染みに肩を竦めると、そのカインの手が伸びてリオンのタバコを奪ってぷかりと煙で輪っかを作る。
「手助けがいるなら言え」
「ダンケ」
その一言に籠もる全ての思いを見抜いて短く礼を述べたリオンだったが、人のタバコを取りやがってと呟きつつカインの前にあるキャメルから一本抜き取ろうとするが、連想するものがあまり思い出したくないものだった為にキャメルを視界の隅に追いやり、己のものをもう一本出して火を付ける。
「カイン、キャメルを吸うの止めねぇか?」
見ているだけで胸くそ悪くなると吐き捨てるリオンに黙って目を細めたカインだったが、リオンが出て行った後、嫌いなやつが吸っているのかなと呟いたかと思うとゴミ箱にそれを捨てて帰るのだがその時はふんと返すだけだった。
「さ、て。ちょっと職場に顔を出してくる」
「そうですね。今お仕事はどうしているのですか?」
こんな平日の午前中にここに来ることを思えばどうしているかはだいたい想像が付くがと笑う彼女に頷き、休職扱いにして貰っていること、本当に仲間達が優しいから助かるとも告げて伸びをしたリオンは、もう少しバタバタしているが落ち着いたらまた連絡する、一日でも早くウーヴェが退院できるように祈っててくれと祈ることが本職の二人に伝えると、幼馴染みの肩を二度無言で叩いて背中を向ける。
廊下に出たリオンを待っていたシスターらの声をキッチンで聞きながら三人は溜息を吐くが、これから先のリオンとウーヴェに神のご加護がありますようにと二人が真摯に祈り、カインは祈ることはなかったがそれでも幼馴染みのために何か出来る事があればと思案し、己にしか出来ない事があると思い出すとそれを実行するために会社に連絡をする。
何事だと訝る同僚に手短に今日の予定を伝えたカインは、取引専用にしている小型のラップトップを取り出すと慣れた手つきで操作をし一段落付いたときに小さく溜息を吐く。
そして、二人がじっと己を見つめていることに気付くとしまったと言うように舌打ちをするが、もしもリオンから連絡があれば金なら用意したとだけ伝えて立ち上がり、リオンと同じようにキッチンを出て行くのだった。
ホームで己の少しの不安と決意を最も信頼している面々に聞いて貰い、背中を押して貰った事で軽くなった足取りで警察署に向かったリオンは、懐かしさすら感じる建物を見上げ、階段を一段飛ばしに上っていく。
その途中ですれ違う制服警官や顔見知りの警官達の驚きの言葉に返したりクビになったと思っていたと笑われてほざいていろと笑い返していたが、刑事部屋に入った瞬間、一斉に室内にいた仲間達に見つめられて意味の無い言葉を垂れ流す。
「えー、あー、そのー」
「ドクの様子はどうなんだ?」
「リハビリを始めているのか!?」
リオンの戸惑いの言葉など無視をしウーヴェの様子はどうなのかと詰め寄るダニエラやマクシミリアンにたじろいだリオンは、ヒンケルの部屋のドアが開いてコニーが出てきたことに気付き助けてくれと一声叫ぶが、ちらりとこちらを見たコニーが無表情に近寄ってきたため、何だ何だと冷や汗を浮かべてしまう。
「……ドクの様子は?」
「みんなオーヴェの心配ばっかりかー! 久しぶりに顔を出した俺に言うことはねぇのか!?」
己を取り囲む仲間の言葉は皆どれもがウーヴェを心配するものだった為に面白くないと叫んだリオンだったが、冗談だと皆が告げてそれぞれ思い思いの態度で久しぶりに顔を出したリオンの背中や肩を叩いて辛いだろうが頑張れとエールをくれる。
「ダンケ、みんな」
「リオン、来たのならすぐに来い!」
刑事部屋に顔を出したのならすぐに俺の部屋に来いとドアを開け放つと同時に怒鳴られて首を竦めたリオンは、ここに来る前に用意したものがジーンズの尻ポケットにあることを触って確かめると、クランプスが怒り狂っているからカゴの中に飛び込んでくると笑い、皆をいつものように呆れさせる。
「久しぶりです、ボス」
「ああ。……ドクの様子はどうだ?」
「ボスまでオーヴェの心配かよ。……ありがとうございます。ジルのくそったれがエグい事をしてくれたのでそれのフォローが大変ですが、まあ大丈夫です」
マザー・カタリーナの言うように焦ることなく慌てることなく出来る事から一つずつ二人で一緒にやっていくつもりですと笑い、丸いすをデスクの前に運ぶと、今までとまったく変わらない態度で腰を下ろしてくるりと一回転する。
「そうか」
「Ja.……今日はオーヴェの恩師が来てくれたので交代してもらいました」
「そうなのか?」
「一人だと不安みたいで離れてくれないんです。ただまあ少しずつ前向きになってきてるので何とかなるでしょう、うん」
ヒンケルの心配そうな声に頭を下げて笑ったリオンは刑事部屋が相変わらず忙しなく人が動いている様を肩越しに振り返って見つめ、あぁ、懐かしいなと呟いてしまう。
つい半月ほど前までは何も考える事もなくあの中で仲間達と一緒に面白おかしく、時には意見をぶつけ合いながらも事件解決に向けて忙しく働いていて、今振り返れば文字通り夢のような時間の中で楽しかった日々を過ごしていたのだ。
だが、どれほど楽しいものであろうとも、夢はいつか覚めてしまうのだ。
「懐かしいと思うのなら早く戻ってこい」
「へへ、そうですね、ボス」
でもすみません、もう戻れそうにありませんと一瞬だけ泣きそうな顔になったリオンは、何を言っていると眉を寄せるヒンケルに正対すると、ジーンズの尻ポケットから封書を取りだし驚く上司に頭を下げる。
「……これは何だ」
「……退職願、です」
衝撃に掠れる声で問われたリオンが返したのは振り絞ったような同じく掠れた声で、顔を上げることが出来ずに勝手なことばかりですみませんと謝罪をする。
「事情を話せ」
「……オーヴェが狙われたのは全部俺のせいです」
カールが勤務する病院で灰にした手紙にも書かれていたが、ジルベルトの思いに気付かなかったことやゾフィーがウーヴェに託した手帳なども元を辿れば己のせいだと告げるリオンの視界にヒンケルの握り拳が映り込むが、それが震えていることに気付き怒らせたのかもと思いつつ顔を上げ、怒りとも悲しみともつかない表情で見つめて来るヒンケルの目を真っ直ぐに見つめる。
「誘拐されて自殺しようとまでして……そんなオーヴェにどうやって責任を取るのか、ずっと考えてました」
「それが刑事を辞める事なのか? 俺はそうは思わないぞ」
「今回、こんなことになって俺にとってオーヴェがどれだけ大切なのかが分かりました」
それは皆と一緒に見せられたあの動画を見ている時に気付いたことだが、以前までならばあんな姿を見せられたらきっと怒り狂って手当たり次第走り回っていたが、あの時ウーヴェと会話とも言えない短い言葉を交わすことが出来た時、あれだけ凄惨な目に遭っても生きてくれていた、それだけで良かったのだと思ったと微苦笑したリオンは、生きていてくれたんですと繰り返すと二年前の事件を思い出しているヒンケルが重苦しい溜息を吐く。
「これからもオーヴェと一緒に生きていきたい。足を悪くしたオーヴェには支えが必要です。そのためなら刑事を辞めても良い」
今まで己を陰になり日向になって支えてくれてきたのだから今度は自分が支える番だと、後悔も躊躇いも一切感じさせない顔でリオンが己の思いを真摯に伝えるとヒンケルの口からもう一度溜息が零れ落ちる。
「すみません、ボス。勝手なことばかり言います」
「本当にな」
「今まで本当に世話になりました。ボスが上司だったから俺はずっと刑事をやってこられました。ありがとうございます」
いつもカールが問題児と己を称していたがそれは本当にそうだと今なら思える、良くそんな問題児を庇い一人前の刑事に育ててくれたと深々と頭を下げると、ヒンケルがそんな礼は要らないと湿った声で小さく怒鳴る。
「刑事は無理でも内勤に回ることは出来るぞ」
「ダンケ、ボス。でももう決めました」
そのリオンの穏やかな一言からヒンケルも翻意させることは不可能だと察したのか、溜息をつきつつ封書を開け、退職の日付が週末になっている事に気付いて目を丸くする。
「急すぎないか?」
「そーなんですけどね。オーヴェが入院してるので金が要るんです」
ウーヴェが保険に加入しているために入院や手術の補助は降りるが何しろそれ以外にこれから先どのくらい金が掛かるか見当がつかない、なので退職金をアテにしないといけないのだと突き抜けた声で笑ったリオンにヒンケルが呆気に取られるが、次第に込み上げてくる笑いに肩を揺らし、確かに先立つものが必要だなと呟きつつ目尻に浮かんだ涙を指先で拭く。
「でしょー? だからボス、こんなものも用意しました」
「?」
にこにこと笑うリオンがいきなり立ち上がってヒンケルの部屋を出たかと思うと、まだ残っている己のデスクに戻った後、20センチ四方の箱を片手に戻って来る。
それはいつだったかヒンケルがリオンの気付け薬だと言ってコニーに手渡すように頼んだ、所謂薬箱-正確にはチョコレートボックス-だった。
「これからオーヴェと一緒に生きていく無職の俺のために寄付をお願いします!」
「は!?」
「もう耳が遠くなったのかよ」
寄付をしてくれと言っているのだと繰り返すリオンの態度は以前とまったく変わらないもので、長年思い続け天職だとさえ言わしめた刑事を週末には辞める男のそれとは到底思えず、今なんと言ったとヒンケルが声を潜めると、誰か補聴器を用意してくれと嘯きにやりと笑みを浮かべてデスクに手をつく。
「こ、の、バカ者!!」
「時々はこうして誰かを怒鳴って下さい。そうすればボケねぇでしょ。……ボス、本当に……今までお世話になりました。週末に荷物の片付けに来ます」
ヒンケルの怒声に泣き笑いの顔で頷いたリオンだったが背筋を伸ばして最敬礼すると、今までありがとうございましたと最大限の感謝を込めて礼を言い再度頭を下げる。
「……ドクのクリニックが引っ越すわけじゃないのなら時々は顔を出せ」
「はい」
「後、ドクとの結婚式の招待状は皆の分も出せ」
五月初旬にそもそも役所で式を挙げると言っていたがどれだけ延期になっても構わないから必ず出すようにと最後の命令を受けたリオンが太い笑みを浮かべ、ボスだけ祝儀を倍にしてくれたら招待しますと憎たらしい顔で返すとヒンケルも立ち上がってデスクに手をつく。
「何故倍なんだ!」
「俺達より給料もらってるでしょー」
それくらい空気を読んでくれよとリオンが嘯きデスクについたヒンケルの拳がわなわなと震えだしたのを見た瞬間、リオンが素早くその場を飛び退きドアの前に立つ。
「祝儀はともかく、招待状は送りますので是非出席して下さい」
「誰がするか、バカ者!」
不気味な笑い声を残して部屋を飛び出したリオンだったがその背中を追うようにブロックメモが飛んでいき、刑事部屋から飛び出してきた金色の嵐を見た同僚達は、ああ、いつもの光景だと眉を寄せたり苦笑したりする。
だがその嵐がある意味爆弾低気圧であった事を証明するようにヒンケルに伝えた言葉をもっと簡潔に伝えて爆弾を破裂させ、後はヒンケルに聞いてくれと言い残して刑事部屋を出たリオンは、爆発に巻き込まれた面々の絶叫を背中で聞きながら、本当に良い仲間だよなぁ今まで一緒に働けて本当に幸せだったと満面の笑みで頷きジーンズの尻ポケットに手を突っ込むと、文字通り夢の世界で過ごした大切な思い出を夢のかけらと一緒に胸に納め、ウーヴェとの約束を守るためにゲートルートへと足を向けるのだった。