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二☆話☆目←テンションどした?
レティシア・ヴァレンティーヌは、鏡の中の“若すぎる”自分を見つめていた。
十七歳。当時の記憶は確かだ。まだ王宮に正式に出入りする前。王太子ルシアンと運命の出会いを果たす、ほんの少し前だ。
(本当に……戻ってきたのね)
彼女の指は震えていた。けれどそれは恐怖でも混乱でもない。ただ純粋な、圧倒的な実感。
運命は彼女に「やり直し」を許したのだ。
今度こそ、誰にも利用されず、誤解されず、ルシアンをも、己自身さえも欺かずに生き抜くために。
だが――。
「レティー! レティシアお姉さま!」
勢いよく部屋の扉が開かれ、純白のドレスを纏った少女が駆け込んでくる。
妹、マルグリット・ヴァレンティーヌ。レティシアとは対照的な金髪碧眼の華奢な少女。前世では、その天真爛漫さゆえに周囲に愛され、ついには王太子妃の座を得た者だった。
(……そう。彼女がルシアンに近づくのは、もう少し先)
あの時の苦い記憶がよみがえる。自分が魔女扱いされた裏で、彼女は無垢な“光”として受け入れられていった。
だがマルグリットには罪はなかった。ただ彼女自身もまた、物語の犠牲者だったのだ。
「どうしたの、マルグリット?」
柔らかい声で問えば、少女はふわりと笑った。
「お庭の百合が咲いたの! レティーが好きだったでしょう? 一緒に見に行こうって思って」
(あの白百合……私が“王家への忠誠”として初めて献上した花)
それは皮肉にも、王太子に裏切られる象徴ともなった。けれど今は違う。何もかもやり直せる。
「ええ、行きましょう。一緒に」
二人で庭に向かう。太陽の光が差し込む石畳の回廊。空気はまだ春の匂いを残し、若草の緑と百合の白が、記憶の中よりも眩しかった。
(この道を、私はもう一度歩く)
その決意が、胸に静かに燃え上がる。
*
午後になり、レティシアは執務室の書棚を整理していた。
(あのとき、父もまた何かを隠していた。伯爵家が密かに抱えていた“禁書”……)
それが王家を揺るがす陰謀の始まりだったと、彼女は知っている。
だが今なら止められる。鍵は、王宮に入る前の準備――外交文書の中にある。
「……やはり、ここにあるのね」
一冊の黒革の書を取り出した瞬間、ふと扉の向こうに気配を感じた。
「失礼いたします。王宮より使者をお連れしました」
執事の声。思いがけず早い“出会い”が訪れた。
扉が開く。そこに立っていたのは、漆黒の制服に身を包んだ一人の青年。
まだ出会うはずのなかった、王太子ルシアン・グランディール。
彼はまっすぐにレティシアを見つめ、低い声で告げた。
「ヴァレンティーヌ伯爵令嬢。王宮より、王太子殿下の招待をお伝えに参上しました」
運命はすでに、彼女を新たな舞台へと引き寄せようとしていた。
「ヴァレンティーヌ伯爵令嬢。王太子殿下の招待をお伝えに参上しました」
そう告げた青年は、まだ「王太子」としての責務に染まりきっていない年若い姿だったが、すでに王族特有の威厳と冷静な眼差しを携えていた。
──ルシアン・グランディール。
前世でレティシアが命を捧げた相手。愛し、裏切られた男。
彼女の心臓が、深く静かに脈打つ。全身を駆け巡るのは、怒りでも、恋しさでも、憎しみでもない。
それは――「決意」。
やり直す。この男を、ただ“愛する”だけではなく、彼の本質を見極め、救うか、見限るか、それを自分自身の手で選ぶのだ。
「……殿下のご招待とは、ずいぶんと急な話ですね」
努めて平静に返す彼女に、使者の青年――おそらく側近のひとりであろう青年は、眉一つ動かさず言葉を続けた。
「はい。王太子殿下が急遽、次期社交界の候補者の素養を事前に確認したいとのご意向で……選ばれた三名のうちに、貴女の名がございました」
(選ばれた三名。まさか、私が? ……いや、違う)
レティシアはすぐに思い至る。前世にはなかった出来事だ。何かが――狂い始めている。
「光栄に思いますわ。準備のお時間を頂けます?」
「殿下からは“本日中に”とのことでした。馬車はすでに、門前に」
強引さすら感じる采配。しかし、それも彼らしい。
(この男、ルシアンは……最初から、私に興味を抱いていた?)
前世では気づかなかった視線や言葉の意味。今なら、それが見えてくる。
「分かりました。すぐに支度いたします」
彼女は毅然と微笑み、振り返って部屋を後にした。
*
馬車の中で、レティシアは手のひらをきゅっと握る。冷えた指先を包み込むのは、決して震えではない。これは、燃えるような覚悟。
(王宮へ戻るのね……あの日々のすべてが始まった場所へ)
白百合の咲く庭。石造りの回廊。王族のいる空気。
そして――ルシアン。
前世では彼の言葉に一喜一憂し、愛を盲信した。だが今回は違う。
「私は私の意志で、あなたを見定めるわ」
誰にも踏みにじらせない。自分の尊厳も、家も、命も、愛も。
雨に濡れる断頭台ではなく、陽光に満ちた未来へと進むために――。
馬車の窓越しに、黄金色の王城が姿を現す。
あの日、断罪された場所が、今は新たなる舞台の幕を上げようとしていた。
*
ルシアンの名が告げられたその瞬間、レティシアの心に小さな亀裂が走った。
けれどそれは、痛みではなかった。
心の奥に封じていた記憶の蓋が、静かに開かれた音だった。
あの夜、月明かりの下で囁かれた「愛している」という言葉。
そして断頭台で見た、氷のような瞳。
(私はまだ、あなたを許してはいない。けれど――理解したい)
前世の彼の行動は、裏切りではなく、誤解と策略に巻き込まれた結果だったと今ならわかる。
そのとき、執務室に差し込む光がわずかに傾いた。
「お姉さま? 王宮へ行くの?」
マルグリットがドアの前に立っていた。手には、白百合の花束。
「お庭で摘んだの。今日はとてもきれいに咲いていたのよ。持って行って」
「……ありがとう、マルグリット」
妹の小さな好意が、胸に刺さるように沁みた。
彼女の知らぬ運命を、レティシアは知っている。
マルグリットがいずれ“王太子妃”として、ルシアンの隣に座る未来。その未来が、この再び歩み始めた時の中で、果たして同じように続くのか――それはまだわからない。
だが、今は。
(まずは、私が私の役割を果たす)
レティシアは白百合の花束を胸に抱き、深く一つ息をついた。
*
王都フィルメリアの街並みが、馬車の窓から広がっていた。
石畳の通り。紅の屋根。市場に立ち上るパンの香ばしい匂い。
五感のすべてが、記憶の奥から引き寄せられるように蘇ってくる。
かつて、ただ「憧れの王都」として見上げていたこの景色。
けれど今の彼女にとっては、あまりに多くの苦い過去を抱えた場所だった。
(この街も、変わっていないのね……)
そしてその中心に、ひときわ大きくそびえ立つのは――王城《セレスタイン》。
かつてレティシアが侍女として通い、そして後に「悪女」として連行された場所。
しかし、今は違う。
「私は、誇りをもってこの城に入るわ」
馬車が門をくぐる。白と金の大理石で造られた広大な正門前で停まり、御者が静かに声をかけた。
「到着いたしました、令嬢」
ゆっくりと降りたレティシアのドレスが、石畳の上に優雅に広がる。
彼女の前に立っていたのは、王家の近衛騎士であり、ルシアンの側近――クロヴィス・エルンスト。
長身で漆黒の髪を後ろに束ね、金の装飾が施された制服を着こなすその姿は、前世でも彼女をたびたび監視していた男だった。
「ヴァレンティーヌ令嬢、ようこそ。殿下がお待ちです。こちらへ」
表情は硬い。まるで人形のように感情を押し殺したその男に、レティシアは静かに一礼した。
「ご案内、感謝いたしますわ。クロヴィス殿」
すると、ほんの一瞬だけ、彼の目が揺れた。
(……驚いた? 前世では私の名前すらまともに呼ばなかったあなたが)
だがレティシアは、もう“敵”と“味方”を見誤らない。
王宮の空気は、重く張り詰めていた。
石造りの回廊を進むごとに、使用人たちの目がレティシアを追ってくる。
噂好きの貴族令嬢が、一人前に“王太子に招かれた”などと聞けば、誰もが動揺するのも無理はない。
(けれど、見てなさい。この令嬢がどれほどの“悪女”になれるのか――)
*
案内されたのは、陽光の差し込む南の塔の応接室。
そして、扉の奥に彼がいた。
ルシアン・グランディール。
黒の上着に身を包み、背筋をまっすぐ伸ばした姿。剣のように鋭い視線は、まっすぐに彼女を射抜いていた。
「レティシア・ヴァレンティーヌ。君か」
前世の記憶が脳裏に走る。温かく柔らかな声音ではなく、今はまだ“観察者”の眼差し。
だが、それも当然だ。
今の彼は、まだ彼女を“愛してなどいない”。
「お招き、光栄に存じます、殿下」
レティシアは優雅に一礼した。
ルシアンの瞳に、一瞬だけ影が差す。
そして、まるで一手の駒を置くように、彼は静かに言った。
「君の賢さを試してみたい。これから数日間、王城での教養査問に応じてほしい」
“試される”立場。
だが、レティシアは微笑んだ。
(ふふ……この私に試練を? 面白いじゃない)
「光栄ですわ。殿下の御心に叶うよう、全力を尽くします」
──運命の駒は、再び動き出した。
次の一手を握るのは、この“やり直した悪女”。
レティシア・ヴァレンティーヌ。
「光栄ですわ。殿下の御心に叶うよう、全力を尽くします」
そう言って、レティシアは腰を折り、優雅に一礼した。
心の中で燃え上がるのは、かつて断罪された“悔恨”ではない。
それを超えた、冷静で鋭利な“意志”だった。
(ここが始まり。前世ではこの王宮に入って数ヶ月後に、私は“王太子殿下の寵愛”という名の標的にされた)
だが今回は違う。
まだ「恋」など芽生えていないルシアンに、彼女は誤った期待を抱かせる気はなかった。
それにしても――。
その瞳は、あまりにも真っ直ぐだった。
冷徹で、猜疑心に満ちているのに、どこか人を見極めようとする必死さがある。
(この頃のルシアン……こんなに“青かった”のね)
若さと責任と、自分の立場への自負と焦燥。それらが複雑に絡まり、彼の表情を堅くしている。
レティシアは微かに、口元を緩めた。
「殿下。この“査問”とやら、どのような内容をお考えで?」
彼女の声には、わずかな茶目っ気すら含まれていた。
だが、ルシアンはその調子に流されなかった。
「まずは、君の政治的教養と戦略的思考。
続いて、宮廷内の礼儀作法と舞踏礼式、書簡文の整備能力。
そして何より――忠誠の在り方を測らせてもらう」
(……そう来たか)
レティシアは心の中で唇を噛んだ。
これは“王太子妃”を選ぶための試験ではない。
王族の側に置く価値があるかどうかを見極める、最初の“選別”。
──あのとき、前世の自分はこの視線に浮かれてしまった。
優しさを勘違いし、試されているとも思わず、ただ夢のように王宮に取り込まれた。
(愚かだった。でも、もう騙されない)
「それでは、まず一問。お答えいただけるかな?」
ルシアンが机の引き出しから、一枚の文書を取り出した。
「この国の西部、マリュセール地方の農作地帯で、今年は干ばつが予測されている。
君が宰相の補佐であれば、どのように被害を最小限に抑える?」
文脈を含めた“実務的問い”。
(懐かしいわ。ルシアンはこうして、私の“実力”を試した。最初は……本気で私を評価しようとしていた)
レティシアは視線を文書に落とし、短く思考した。
――マリュセール。過去に一度大規模な水不足で反乱が起きた。
しかし、当時は近隣の貴族が水利を囲い込み、民の怒りを買った。
(ならば今なら――)
「第一に、王家直轄の井戸の利水権を臨時開放。
第二に、隣接するルネード侯領から干し麦の備蓄を買い上げ、配給網を整えます。
また、水利問題に関しては“王家特使”として中立の立場から監視役を立て、貴族間の利権争いを抑止します」
ルシアンの眉が、わずかに動いた。
レティシアは続けた。
「そして、民の不安を抑えるには、“王太子殿下の視察”が効果的です。
殿下が直接目を向けているという事実が、彼らの心を鎮めるでしょう」
ルシアンは、ほんのわずかだが表情を緩めた。
「……正解はないが、今のは合格点だな。王族の動きまで読んでいたとは」
褒め言葉、というには固い言葉。
けれどそれは、彼が“真剣に”向き合おうとしている証でもある。
(そう……前世でも、最初のうちは確かに、彼は私の“能力”を信じようとしていた)
だがその信頼は、あるとき突然崩れ去った。
レティシアが王妃候補の一人として取り沙汰され始めたとき、王宮内の策謀が動き出した。
だから、今度こそ――。
(私は自分の頭で、すべてを読み切ってみせる)
彼を助けるためじゃない。己を護るために。
そのとき、ルシアンが静かに立ち上がった。
「三日後、王宮内で開かれる初夏の演習舞踏会に、君を招待したい。
そこには貴族、軍部、外政関係者……多くの“目”が集まる」
「つまり、私を公に“試す”と?」
「……そうだ」
彼の声は真っ直ぐだった。情もなければ、色もない。ただ、鋭さだけ。
けれど、レティシアの口元には確かな笑みが浮かんだ。
「では、殿下。私がこの国の未来にふさわしいか――どうぞ、皆様の前でお試しください」
そのとき、窓の外に吹いた初夏の風が、白百合の花束の香りを室内に漂わせた。
それは、断頭台の下に散った花ではない。
新たな未来に咲こうとする、もう一輪の“悪女の誓い”だった。