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王宮の南棟、天窓のある回廊を抜けた先――そこに、舞踏会の準備が整った大広間があった。
百本を超えるキャンドルの光が、白と金の天井を照らす。大理石の床に映る光の波紋は、さながら湖面のように揺れていた。
──ここが、社交界という“戦場”。
前世でも幾度となく立ったこの舞台。しかし今回は、初めて立つ立場での「初陣」だった。
レティシア・ヴァレンティーヌ。
漆黒のドレスの裾が床を滑るように流れる。肩には透けるような黒レース、胸元には母から受け継いだ星型のブローチが静かに光る。
(私が“悪女”と呼ばれた理由のひとつ。それは、この場で誰よりも目立ち、誰よりも冷たく、そして誰よりも“美しかった”から)
だが今回は、その“印象操作”さえ、自ら選ぶ。
「お噂はかねがね……令嬢が殿下のお目に留まったと聞きました」
近づいてきたのは、貴族の長男とその妹。
社交界の情報をいち早く嗅ぎつけることで有名なサルジェ侯爵家の令息、レオン・サルジェだった。
その声色には、皮肉と好奇心が混ざっている。
(王太子に“招かれた”時点で、私に対する視線は変わる。好意と敵意が一度に向けられる――それが、この舞踏会)
「お噂とは、当てにならないもの。私など、ほんの田舎娘にすぎませんわ」
にこやかに微笑みつつ、彼女の返答には一片の隙もない。甘くもしなければ、卑屈にもならない。
周囲の貴族たちがその態度に、一様に息を呑んだ。
(“令嬢”ではない。“陛下に仕える一角”――その自負)
音楽が鳴る。舞踏会の幕開けだ。
男性たちが次々に手を差し出し、貴族令嬢たちがそれに応えてフロアへと向かっていく。
そんな中、会場の扉が再び静かに開いた。
そして――彼が現れた。
ルシアン・グランディール王太子。
漆黒の礼装に、金の縁飾り。銀の剣を象った襟章。王家の象徴たる“蒼玉のリング”が、その手に煌めいている。
彼が一歩踏み出すごとに、会場の空気が張り詰める。
そして――レティシアの前に立った。
「今宵の主役に、最初のダンスを願おう。レティシア・ヴァレンティーヌ令嬢」
会場がざわめく。
(前世では、このダンスは“別の令嬢”に捧げられた)
名門の娘。忠誠を誓った家の娘。あるいは、王妃候補として“扱いやすい”少女。
けれど今回は、違う。
「……喜んで、お受けいたします、殿下」
手を取り、フロアへと進む。
音楽が高まり、舞踏が始まる。
回る。揺れる。銀の髪が夜空のように広がる。
王太子の腕の中で踊るその姿は、まるで闇夜に咲いた黒薔薇。
──この瞬間、社交界はレティシアの“存在”を確かに刻み込んだ。
*
ダンスの途中、ルシアンが低く囁いた。
「君は……何者だ、レティシア」
まるで見透かすような視線。
前世でも同じ問いを向けられたことがある。だがあのときは、上手く答えられなかった。
(だから、今こそ答える)
レティシアは微笑んで囁き返した。
「私は、ヴァレンティーヌ家の娘。
けれど同時に――“王家が見落としてきた影”でもありますわ」
その言葉に、ルシアンの瞳がわずかに揺れる。
(あなたの知らない真実は、すぐそこにある)
その視線の奥にはまだ、“感情”の火は灯っていない。
だが、それでいい。
今度こそ、恋に溺れてはならない。
これは、すべてを変える“やり直し”なのだから。
──そしてその夜、レティシアの名は貴族たちの間で新たな呼び名と共に広がった。
《黒薔薇の令嬢》。
光に背を向け、闇に気高く咲く、一輪の誇り。
舞踏のひとときが終わると、社交界の空気は急速に熱を帯びていった。
──王太子が一番最初のダンスの相手に、ヴァレンティーヌ伯爵令嬢を選んだ。
その事実だけで、十分に波紋は広がる。
「まあ、なんて大胆なの。まるで既に寵愛を受けているような振る舞いだわ」
「いえ、むしろ殿下は“試して”おられるのよ。彼女の忠誠と、能力を」
白い扇がひらひらと動き、口元を隠しながら女たちは噂する。
一方、男たちはもっと直接的だ。
「悪女になりかねんぞ。あの冷たい目。あれはただの小娘じゃない」
「だが……美しい。あの冷たさに、惹かれる者もいるだろうな」
レティシアは、そのざわめきを感じていた。
(この空気……懐かしいわ)
前世では気づかなかった、誰かの陰口、嫉妬、策謀。
今なら、それらがどこから発されているのかまで、読める。
(“社交界”とは、美辞麗句の裏で牙を研ぐ獣たちの檻。微笑む仮面の裏に、いくつもの毒がある)
そしてレティシア自身もまた、その仮面を巧みに使いこなす一人となる覚悟を持っていた。
ルシアンとのダンスを終えた彼女は、冷やしたハーブワインを手に取り、広間の片隅へと静かに身を引く。
「あなたの噂、早速よ。少しでも王太子に近づいた娘には、虫のように情報が群がるもの」
そう声をかけてきたのは――カミーユ・ド・ノア。
緋色のドレスに身を包み、長い黒髪を美しく編み上げた伯爵令嬢。前世ではレティシアの“政敵”の一人だった女。
だが今はまだ、敵とは決まっていない。
「今夜はただの“舞踏会”ですもの。人々が噂するなら、それもまた一興」
レティシアが返すと、カミーユは目を細め、面白そうに笑った。
「……悪くない。あなた、前よりずっと面白くなってる」
(“前より”……? 私の印象が既に変わっている)
確信する。レティシアは確かに、前世とは違う歩み方をしている。
これは、やり直しの成功の兆しか、それとも新たな崩壊の序章か――まだわからない。
*
舞踏会の裏手、バルコニーの冷たい風にあたるため外に出たときだった。
「……逃げたのか?」
その声に振り向けば、クロヴィス・エルンストが背をもたれかけて立っていた。
ルシアンの側近、無表情で冷酷、そして策略家として名高い男。
「逃げる? 私が?」
レティシアは視線を外さず答えた。
「ええ、あれほど多くの視線が注がれていては、息苦しくもなるでしょう?」
「いや。君はそういう女ではなかったはずだ」
彼の目が鋭く光った。
「君の変化は……目を覆うほど鮮やかだ。まるで“何か”を知っているように振る舞っている」
──何かを知っている。
それはある意味、正しい。
(前世の知識、経験、そして裏切りのすべて。それが私の武器)
だが、それを悟られてはならない。
「伯爵家の娘が学ぶのは当然のこと。私はただ、忘れないよう努力しただけですわ」
「……ふむ」
クロヴィスは、懐から一通の紙片を取り出した。
「今宵の舞踏会には、王太子殿下に直接会えない立場の者も多数招かれている。
その中には、王家を良しとしない一派も混ざっている。注意しろ」
それは“警告”だった。
(つまり……既に、裏の動きがある)
「ありがとう、忠告は胸に留めておきます」
「一つ、確認させてほしい」
クロヴィスの目が、夜の空のように深くなる。
「君は、殿下の味方なのか?」
その問いは、鋭く心を刺した。
味方か。敵か。
(私は……)
答えられなかった。
いや、答えを持っていなかった。
今のルシアンは、まだ彼女を裏切ってはいない。
だが、前世でのあの結末は、心の奥底に深く刻まれていた。
「私は、ただの令嬢です。味方であるかどうかは、殿下次第でしょう?」
それは、“答えない”という形の答えだった。
クロヴィスはその答えに満足したのか、無言で去っていった。
──風が吹く。白百合の香りをかすかに運ぶ。
その香りに、レティシアはかすかに目を閉じた。
*
夜が更け、舞踏会は終わりを迎えようとしていた。
ルシアンは、最後に広間の中央に立ち、言葉を述べた。
「本日は、我がグランディール王家の未来を担う者たちと向き合う良き場となった。
そして――その中には、すでに確かな“答え”を示した者もいた」
視線が、一瞬だけレティシアを捉える。
「この国に必要なのは、従順なだけの人間ではない。
“真実”を見極める目と、“忠誠”を貫く意志を持つ者だ」
その言葉は、明らかに彼女に向けられていた。
だがそれは同時に、危険な宣言でもあった。
(“注目される”ということは、“狙われる”ということ)
そしてこの夜の終わりと同時に、彼女を標的とする影たちが、静かに蠢き始めるのだった。