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ズボンのポケットから、鍵の束を取り出す。そこから選んだのは、小さなアンパンマンのついた鍵。
これは俺のじゃない。これから入る家の人のものだ。アンパンマンのキーホルダーは、彼からもらった。
それを使ってドアを開け、
「おじゃましまーす」
返事はない。してくれてるのかもしれないけど、少なくとも玄関までは聞こえない。
リビングの奥の部屋まで進む。そこには、いささか仰々しい電動式のベッドがあり、彼が横たわっている。
「こんにちは、高地さん」
「こんちは」
少しかすれた声で小さく笑ったのは、ヘルパーである俺の担当患者、高地優吾さん。ALSで、今となってはベッドに寝ている時間も多い。
「あっ…。お昼ご飯、食べられませんでした?」
ベッドサイドテーブルに置かれたままのお皿を見やる。前のヘルパーさんが作ったであろうおかずと柔らかめのご飯が、半分ほど余っている。
「ちょっと、多くて」
「そうですか…。わかりました。伝えておきますね」
彼はまだ自力で食事が摂れるが、量がだんだん減ってきた。ケアマネージャーさんに報告しないとな、と考えながら後片付けをしていると、
「北斗さん…」
小さく呼ぶ声を耳で捉えた。
「はーい」
蛇口を閉めてからベッドに向かう。「どうしました?」
「テレビ、つけて、くれませんか」
いいですよと笑い、リモコンのボタンを押す。
「何がいいですか?」
「…お昼の、バラエティー」
高地さんはよくこの昼下がりの時間帯のバラエティー番組を観ている。そのチャンネルに合わせて、洗い物も終わらせた。
スタジオの出演者が笑うと、高地さんの目が細くなるのが嬉しい。以前は、どんな笑顔だったんだろうか。
でも「今の」彼の笑みを、もっと俺が増やしてあげたいなとも思う。
「そうだ、高地さん。どっか行きたいとことかあります?」
俺が問いかけると、迷うように首をかしげる。
「いい、かな。特に、行きたい、ところ…ないから」
以前にも質問をしたときと同じ答えが返ってきた。若干期待していたけど、心の中で肩を落とす。
「ほんとですか? 遠慮しなくていいですからね。ヘルパーに遠慮は禁物です」
高地さんは、どこかほろ苦い表情を浮かべた。
「このカッコで…行っても、俺が、嫌だから」
その言葉に戸惑いながらも、先を促す。
「昔の俺の…記憶を、上書きしたく…ない。これから、もっと…動けなくなって、声も…出なくなって、笑えなくなる。昔の、俺に…しがみつきたい…」
俺はやっと、彼が言いたいことがわかった。高地さんは、自分が病気によって変わってしまうことが嫌なんだ。
だから、昔の自分のままでいたい。
外に出ると、今の自分を誰かに見られてしまう。それが許容できないんだろう。実際、この家にほかの人が来たのを見たことがなかった。
「…じゃあ、お家で過ごしましょっか」
俺は一介のヘルパーだ。だから、患者にあまり踏み込むことはできない。
それでも、夕食を作っている間、やるせない悔しさが押し寄せてきてぐっと唇を噛んだ。
続く
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