テラーノベル
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美月はなりふり構わず走り出した。
足の裏の感覚も、疲労も感じない。ただこの恐怖から逃れたい一心で、廊下を駆け抜ける。
少女は自分を殺しようとしているに違いない――その誤解とパニックが、美月の足をさらに焦らせた。だが、屋敷はまるで生き物のように蠢き、逃げようとすればするほど、どこまでも広く増殖していくように思えた。右へ曲がっても、左へ折れても、角を曲がるたびに見たこともない障子と柱が現れ、一向に玄関へ戻ることができない。
その時だった。
背後の暗闇から、カツン……という音が聞こえた。
美月は凍りついた。
――カン…………カン…………。
それは、固い木の床を歩く、草履の音だった。
重く、力強い足音。一定のリズムで、ゆっくりとこちらへ向かって歩いてくる。
美月が恐怖に耐えかねて足を止めると、足音もピタリと止まる。
美月が震える足を踏み出すと、足音も再び「カン……カン……」と動き出す。
確実に、距離が縮まっている。
通り過ぎる障子の影に、巨大な男の人影が映り込む。壁には黒い血の手形がべったりとつき、柱には巨大な刃物で削り取られたような深い刀傷が幾筋も刻まれていた。
妻の不徳を妄想して狂気に落ちた、あの主人の亡霊だ。
(追ってくる……! 殺される……!)
美月の心が折れかけたその時、前方の角から、あの胸を斬られた少女がすっと姿を現した。
少女は美月の目を見ると、今までにないほど激しく、必死な動作で腕を振った。
『こっち!早くこっちへ!』
言葉は聞こえないはずなのに、美月の頭の中に少女の叫びのような切迫感が直接響き渡った。自分を殺そうとしているのではなく、あの恐ろしい狂気から助けようとしてくれているのだと、美月は直感的に察した。
少女は翻転し、廊下の奥へと走り出す。
美月はもう迷わなかった。背後から迫る狂気の足音から逃れるため、血を流しながら走る少女の後を、死に物狂いで追いかけた。
少女に導かれて飛び込んだのは、屋敷の中で最も広い、開けた大座敷だった。
そこへ足を踏み入れた瞬間、美月の全身の毛穴が逆立った。
空間の空気が違う。そこには「過去の光景」そのものが、恐ろしいほどの鮮明さで再生されていた。
「あぁぁぁぁぁぁっ!!」
凄まじい叫び声。
座敷の中央には、一人の男が立っていた。武家の主人と思われるその男は、妄執によって妻が浮気したと思い込み、髪を振り乱し、目は血走り、口から泡を吹きながら、すでに動かなくなった妻の死体に向かって、何度も何度も刀を振り下ろしていた。
ドスッ、ドスッ、という嫌な生々しい肉の音が部屋に響きわたる。
刀は返り血で黒く染まり、男自身も頭から足先まで血の海に浸かったかのようだった。
これは都市伝説の夜。四百年前の、あの惨劇の瞬間そのものだった。時間そのものがこの空間で無限にループし、狂気が反芻されているのだ。
「誰だ……」
突如、男の動作が止まった。
ゆっくりと、ギチギチと音を立てて首が回転し、男が美月の方を振り返った。その瞳には理性の光などカケラもなく、ただ歪んだ疑念と過剰な殺戮の衝動だけが渦巻いていた。
「まだ……一人残っておったかぁ!!」
男が咆哮した。血塗られた刀を両手で高く掲げ、凄まじい地響きとともに美月に向かって突進してくる。男の目には、美月の姿はもはや一人の女性ではなく、自分を裏切った者たちの幻影として映っていた。
「ひっ……!」
美月は恐怖のあまり足がすくみ、一歩も動くことができなかった。眼前迫る、死の刃。銀色の刃先が、行灯の光を反射して怪しく光る。
(私、ここで死ぬんだ……)
美月は死を覚悟し、ぎゅっと目を瞑った。
その時――。
美月の目の前に、小さな影が飛び込んできた。
あの胸を斬られた少女だった。少女は残された最後の力を振り絞るようにして、美月の前に立ちはだかった。
「――っ!」
男の刀が振り下ろされる直前、少女の小さな手が、美月の胸を強く、強く突き飛ばした。
その瞬間、美月の左腕に、熱く焼けつくような激しい痛みが走った。刀の刃が、かすめて切り裂いたのだ。熱い血が、腕を伝って滴り落ちる。
美月の身体が宙を舞い、視界全体が純白の光で塗潰された。
熱い。眩しい。そして、圧倒的な衝撃。
「……ハッ!!」
美月は大きく息を吐き出しながら、跳ね起きるように目を開けた。
目の前に広がるのは、白く輝く朝の光だった。
冷たく固い感触。美月はアスファルトの上に倒れていた。膝と肘に擦り傷があり、少し痛む。左腕には傷一つなかった。ただ、あの痛みだけは鮮明に残っていた。
厚い霧は、朝日に照らされてみるみるうちに薄れ、消え去ろうとしていた。
美月が呆然として立ち上がると、目の前にはいつもの見慣れた、クリーム色の壁の現代的な一軒家が静かに佇んでいた。土塀も、武家門も、血の匂いも、どこにもない。小鳥のさえずりが遠くから聞こえ、遠くの幹線道路を走るトラックの音がかすかに響いている。
すべては、夢だったのだろうか。
美月は自分の右手になにかが握られていることに気づき、そっと掌を開いた。
そこにあったのは、泥と乾いた血に少しだけ汚れた、小さく可憐な、江戸時代のものと思われる「つまみ細工の髪飾り」だった。
その髪飾りは、母がいつも身につけていたものと同じだった。まるで時代を越えて、誰かの想いが受け継がれてきたようだ。
美月の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。
自分の身を挺して助けてくれた少女の面影、そして我が子を守ろうとしていたあの母親の姿が、亡き母・志津枝の深い愛情と重なり合う。
誰もいない朝の遊歩道で、美月はその髪飾りをぎゅっと胸に抱きしめた。
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