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宮殿の重々しい門をくぐり、急勾配の坂を下りきった先。
そこに広がっていたのは、煌の予想を軽々と裏切る光景だった。
「……なんだこれ。デジャヴか?」
整然とした神殿の静寂とは対照的に、目の前の街は爆発するような喧騒と色彩に満ちていた。
ひしめき合う露店、吊るされた乾物と極彩色の布、呼び声と音。
焦げ油と香辛料が混ざった匂いが鼻を刺す。空気は埃っぽく、まるで真夏のアジアの市場みたいに湿っていた。
だが、決定的な違和感がある。
(……日本語?)
朱塗りの柱、見たこともない意匠の建物。そのあちこちに、場違いな“文字”が紛れ込んでいるのだ。
筆で書かれた『萬屋』の看板、露店の隅に置かれた『茶』の木箱。
そして武器屋の軒先には――
「……なぁ燕花、なんで武器屋に“安全第一”の看板立ってんの?」
「どうしたました?」
「どうしましたじゃねぇって! 可笑しいだろ!」
黄色に黒の警戒配色。見慣れた四文字。
あれはどう見ても、地元の工事現場で見飽きるあの看板だった。
「ほう……そなた、古代文字が読めるのか」
隣で燕花が目を丸くし、静遠が冷ややかに目を細める。
「は? 古代文字? これが?」
意味もわからぬその発言に、煌は呆れ果てて肩をすくめた。
しかし次の瞬間――背後から朱雀が喉の奥でくぐもった笑いを洩らし、煌の肩に、熱い指先を滑らせた。
「ふむ……面白い。失われた文明の残滓を読み解くとは、やはりお前はただの獲物ではないらしい」
耳元を掠める低い吐息に、煌の背中がぞくりと震える。
「いや、違――……」
ツッコミを挟む暇もなく、剣呑な視線が横から刺さった。
「偶然ですよ。朱雀様、このような野蛮な童に学問など……」
静遠が囁く。
懐から取り出した丸薬を奥歯で噛み砕くと、薄い苦みの匂いが立ち上った。
そのたびに、彼の周囲の空気が一層冷たく研ぎ澄まされていく。
「お前のような、素性も知れぬ異界のゴミ同然の童が……。朱雀様を欺くために古代の知識を盗み見たか?」
「……あー、はいはい。盗みましたよ、工事現場からな」
煌は投げやりに言い、肩をすくめた。
「どうでもいいけど、嫌なら付いてくんなよ。面倒くせぇし」
「何を言う!」静遠がぴしゃりと声を立て、煌の眼前に歩み寄った。
細い指先で煌の顎を強引に持ち上げ、冷徹な瞳で見据える。
「お前のような得体の知れぬ者を放置できるものか。朱雀様に謀反を働かぬよう監視する――これがわたくしの任務だ。……おかしな動きをすれば即座に神法で縛り、身動きできぬようにしてくれる」
「謀反って……信用ねぇなあ、おい」
煌は顎を振り払い、肩を竦めた。
三日前の「特攻」以来、静遠の敵意は隠す気もない。
だが、それを責める気もなかった――信頼なんてお互い様だ。
高校の、やたら正論を吐く教師の顔を思い出してうんざりしていたそのとき、目の前の大きな背中にぶつかった。
「わっぷ! おい朱雀、いきなり止まるなって! ……なんだ?」
朱雀は前方を見たまま、かすかに眉を寄せる。
市場の騒ぎに紛れ、鼻を刺すような匂いが流れ込んできた。
――焦げたような、甘ったるい匂い。
(昨日、神官の腕から漏れてた……あの匂いだ)
「……おい、燕花。なんか変な匂いしねぇか?」
「確かに……この香り、ただの煙ではありません」
路地の奥、日の届かぬ吹き溜まりに、数人の子供たちが身を寄せて座り込んでいた。
紫がかった煙の細い糸が彼らの指先から漂い、顔を包み、ゆっくりと鼻や口に流れ込んでいく。
「あれは……煙草か?」
つぶやく煌に、燕花は痛ましげに顔を歪めた。
「タバ、コ……? いいえ。あれは“仙煙草(せんえんぐさ)”。一時の多幸感と引き換えに、魂を穢れで塗りつぶす呪いの薬。我が国でも出回っていたとは……」
燕花が駆け寄り、子供たちの手から細い棒を奪い取って地面に叩きつけた。
煌もその場に歩み寄る。
鼻の奥を刺す焦げ甘い匂いが、歩を進めるたび重くなる。
「おい、ガキ! しっかりしろ!」
煌が一番近くの少年の頬を軽く叩く。
だが、少年は薄笑いを浮かべたまま「あは……いい匂い……」とだけ呟いた。
手首の下、皮膚の奥で黒い蔓のような筋が脈打っている。
「……ちっ。何が安全第一だよ。全然安全じゃねぇじゃんか!」
吐き捨てたその瞬間――子供たちの背後のゴミ溜めの影で、何かが動いた。
どろり、とした闇が地を這い出す。
人の形を歪に引き延ばしたような影。
全身から、あの紫の煙を噴き上げている。
「穢れの増殖体……!? 童殿、下がって!」
燕花が双剣を抜く。
同時に、路地の入口で控えていた静遠が奥歯で丸薬を噛み砕いた。
「まったく……予想通りだ。童、汚染されたくなければそこを退け」
掌に神法の光が宿る。
二人が一気に間合いを詰めようとしたその刹那、背後から焼けるような熱が煌の身体を包み込んだ。
朱雀が煌の背後にぴたりと寄り添い、大きな掌で煌の拳を包み込む。
「案ずるな、静遠。コイツ一人で十分だ。……ほれ、お主の番だぞ、煌。好きなだけ暴れるがいい」
耳元で囁かれる低く熱い声。
朱雀の唇が、煌の耳たぶをかすめるように動いた。
「あの不快な煙、わしの炎で焼き尽くすには些か興を削がれる。……代わりに、お前のその荒々しい拳でわしを愉しませてみせろ」
朱雀の熱が指先から流れ込み、煌の右拳が弾けるように赤く輝く。
「……ったく、言われなくてもやってやる! けど、勝手に押し付けんな! クソジジイっ!」
自分には関係ない。異世界の、どこか別の国の出来事だ。
見なかったことにして通り過ぎる事だって出来る筈なのに、幼いころほんの出来心で親の煙草を隠れて吸っていた自分と重なり、胸がキシリと痛んだ。